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連載「つたえること・つたわるもの」(80)

中村哲医師、〈いのち〉のことば――100の診療所より1本の用水路。

連載 2019-12-24

出版ジャーナリスト 原山建郎

 去る12月4日、パキスタン北西部と国境を接するアフガニスタン東部のナンガラハル州を車で移動中、何者かに銃撃されて死亡した日本人医師、ペシャワール会現地代表でPMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス)総院長を務めていた中村哲さん(73歳)のニュースが一斉に報じられた。

 1984年、パキスタン北西部のペシャワール・ミッション病院に赴任した中村さんは、自らハンセン病棟の担当を申し出る。州都ペシャワールにはたくさんの内科や外科の医師がいたが、ハンセン病担当医はわずか3名のみ。のちにペシャワール会(中村医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO・NPO団体)の「誰も行きたがらない所へ行け。誰もやりたがらないことを為せ」という合言葉(基本方針)となる行動の第一歩だった。当時、パキスタン全土に約2万人のハンセン病患者がいて、16床しかないこの病棟にも2400人の患者が押し寄せた。翌1985年、四畳ほどの手術室を造ったが、停電することが多く、懐中電灯を頼りに診療を行った。医療器具の消毒・洗浄だけでなく、患者の搬送も自分の背中に担いで行った。あまりの激務を見かねて自発的に手伝いを申し出たのは、ハンセン病の患者たちだったという。

 1986年からは、医師がいないアフガニスタン東部の山岳地帯で、パキスタンだけでなくアフガニスタンの人たちへの医療支援活動を開始した。ところが、2000年にアフガニスタン全土を襲った大旱魃、2001年に起こったNY同時多発テロに対するアメリカと有志連合が行ったアフガニスタン報復攻撃、それらによって引き起こされた深刻な食糧難と水不足、極度に悪化した衛生状態……。診療所には長蛇の列。診察の順番を待つ間に亡くなる人もいる。そこで、中村さんは白衣を脱ぎ、ツルハシを手にして、ブルドーザーの操縦桿も握る、大地の医者となった。

 16年前、『週刊現代』の取材に答えて、その後の活動を次のように述べている。(※)は筆者注。

 ソ連軍が撤退した1989年以降、欧米諸国からの支援が爆発的に増え、NGOが大挙してアフガンにやってきました。しかし、その多くが失敗に終わりました。彼らは現地の事情を理解せず、ただカネと食糧をばらまいていくだけ。せっかく集めた寄付も彼らの組織維持(※NGO職員の給与、事務所経費、パブリシティ費用などの必要経費)のために消えていく。そんな光景を数多く見てきました。結果、現地には何も根付かない。偽善以外の何物でもありません。

 タリバン政権(※1996年~2001年11月ごろまで、イスラム主義組織のタリバンがアフガニスタン国土の大部分を実効支配していた)が崩壊した直後、200万人いた難民は一時、30万人にまで減りました。ところが今年(※2003年)の2月に発表された数字では、再び180万人にまで増えている。一度パキスタンから帰郷した難民が生活できず、難民キャンプに戻ってきてしまったんです。

 故郷に帰っても、畑は干ばつで枯れてしまっている。それどころか、その日の飲み水にも事欠く状態です。仕方なく泥水を飲む。それが原因で病気にかかり、死んでいくのです。難民問題が一向に解決しない現実を前に、私たちは考えました。病気を治すのも大切だが、なによりもまず、水の確保こそが重要だと。医療活動に加えて、利水事業が始まったのです。

 井戸を掘り、地下水路を整備する。砂漠化が進んでいた土地が、半年足らずで緑の大地に蘇るのです。故郷を捨てた難民たちが再び帰ってきました。井戸掘りの活動を始めてから3年がたち、完成した井戸は1000ヵ所を越えました。救った集落の数は60を超えています。今は用水路の建設に取り組んでいます。長さ16km、幅5mと大規模なもので、これが完成すれば十数万人が自給自足の生活を送れるだけの耕地が蘇ります。この工事の予算は2億円。現地の人間を使い、土地に伝わる伝統的な工法を行う。日本のODAに比べて10分の1、100分の1の金額でやれるんです。

(『週刊現代』2003年9月6日号)

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