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連載「つたえること・つたわるもの」172

「認知症の患者」ではない、「認知症の人」との超コミュニケーション。

連載 2023-11-14

出版ジャーナリスト 原山建郎

 前回は、『高齢者の誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる』という、とても重たいテーマをとり上げた。コラムを読んだ何人かの友人から、「身体拘束は、理想(※利用者が縛られない介護ケア)と現実(※縛らざるをえない介護現場)の問題ですね」、「(医療施設は)慢性的な人手不足で、個々のケアまで手が回らない」などのメールが届いた。もちろん、私なりに介護・医療現場の大変さは理解しているが、このコラムは、「身体拘束」せざるをえない状況を一方的に非難するつもりで書いたわけではない。

 たとえば、「身体拘束以外に手だてがない」という理由・根拠は百も二百もある。しかし、「身体拘束をしない認知症ケア」を選択する理由・根拠は一つか二つしかないかもしれない。その一つか二つを選択するためには、施設のトップだけでなく、介護ケアの担当スタッフ全員がそう思わないとできない。37年前(1986年)、「身体拘束をやめる」と覚悟し、あたたかで・理にかなった・新しい認知症ケアを、全スタッフとともに実践した吉岡充さん(医師、多摩平の森の病院理事長)は、後者となる道を選択したのである。

 先週、キーワードを「縛らない」でWeb検索すると、『縛らない看護――「抑制」をしない、そこから「看護」がはじまる』(吉岡充・田中とも江編著、医学書院、1999年)がヒットした。編著者の一人は、前回のコラムで紹介した吉岡充さんである。もう一人の編著者、田中とも江さんは、1984年から上川病院(現・多摩平の森の病院)の総婦長として高齢者医療に携わり、1986年に始まった「身体拘束の廃止」にとり組んできた看護師である。医学書院のホームページに載っている「序章 縛られているのは誰か」(抜き書き)の小見出しのひとつ(「縛られたいか」)に、看護師である田中さんの「覚悟」がつづられている。

 私は抑制帯を捨ててしまうと同時に、自分で感じ,考える看護婦を育てたいと思った。看護婦たちが自分自身で抑制の弊害や縛られる患者さんの苦痛や屈辱を理解してくれなければ、ざるの目をくぐるように,抑制がいつの間にかどんどんふえていってしまうに違いない。実際に私の病院でも抑制帯を捨てさった後で、病衣を使って患者さんを縛ろうとした看護婦があった。これでは何をしても、どうやっても抑制はなくならない。(中略)抽象論や精神論だけでは看護婦にはわかってもらえない。よくある「患者さんを社会の先輩として尊敬して看護にあたりなさい」とか、「患者さんは痴呆があり状況がわからないのだから逆らってはいけません」というような話だけでは効果がない。患者さんが何もわからないならば縛ったっていいじゃないかという気分の看護婦も現場にはたくさんいるのである。またたとえ具体論であっても、患者さんはきっとつらいのでしょうという,どこか他人事のレベルではやはりわからない。

 私は、
「あなたは縛られたいか」/「あなたの親ならどうであるか」/「あなたの子どもたちであればどうか」
と徹底して問いつづけていった。

(医学書院ホームページ「序章 縛られているのは誰か」の一部引用)

 やはり、医学書院のホームページにある『医学界新聞』の連載コラム『看護のアジェンダ(※これから話し合うために全体の流れ、要点をまとめたもの)』〈第159回、2018年3月26日掲載〉に、聖路加国際大学名誉教授・井部俊子さんのコラム『再考「身体拘束」』を見つけた。その冒頭に、朝日新聞デジタルによる「身体拘束」のアンケート調査(2017年11月)が紹介されている。(※原文の「,」は「、」とした)

「縛られる」状況を見たり聞いたりくやんだりする人々
朝日新聞デジタルのアンケート調査(回答数249)では、身体拘束について「ニュースなどで聞いたことがある」が92人(37%)、「職場や家庭で拘束に関わったことがある」77人(31%)、「自分や家族らが受けたことがある」69人(28%)であり、「知らなかった」は11人(4%)であった。さらに,身体拘束をどう考えるかという問いに対して、「本人や周りの安全が最優先されるべきだ」「どちらかというと、本人や周りの安全を重んじるべきだ」が126人(51%)、「本人の尊厳を守ることを最優先すべきだ」「どちらかというと、本人の尊厳を守ることを重んじるべきだ」が97人(39%)であり、「どちらともいえない」が26人(10%)であった。回答者の属性が示されていないが、この結果からは「安全重視派」が「尊厳重視派」を上回っている。

 さらに同調査では,自分や家族が身体拘束をされた体験が記述されている。「父が熱中症で倒れ,原因不明の寝たきりになったとき、どうしても自分でトイレを済ませたかった父は1人で尿瓶(しびん)を使おうとして失敗し何度もベッドを汚したため、拘束服を着せる同意を求められた」(神奈川県・40代女性)。「父が亡くなる前,点滴を抜いてしまうので、ミトンをされて、食いちぎって口のなかが繊維だらけになりました。末期だったので、点滴を止めることもできると思います。でも入院前にされてもやむを得ないと同意書にサインしました。在宅は困難といわれ,他の選択肢がありませんでした。今でも悔やんでいます」(栃木県・50代女性)。自殺未遂を起こし身体拘束をされた男性(富山県・30代)は、「4日ほど両手両足を拘束されたが病院側としては新たな自殺行為を防ぐため、やむを得ない措置であることは理解する。全ての身体拘束を人権侵害だというつもりは毛頭なく、仕方のない拘束もあるのだと思う」と述べる。

 高齢社会の到来によって、「縛られる」状況を見たり聞いたり悔やんだりする体験を持つ人の割合が今までよりも増えた。このことによって、身体拘束は社会問題となった。

 「身体拘束」という、まさに社会問題となっている事象の解決の第一線に立つ看護職は、今こそ力の見せどきである。身体拘束をしないことは目標なのか、結果なのか、アプローチAは「目標」であり、アプローチBは「結果」となる。

(『医学界新聞』2018年3月26日掲載、『再考「身体拘束」』)

 この朝日新聞デジタルのアンケートが実施されたのは、吉岡医師や井部看護師が「身体拘束廃止」を実践に移してから31年後、2023年の今年から数えてもわずか6年前の状況である。

 ここで、井部さんがいう「身体拘束をしないことは目標(アプローチA)なのか、結果(アプローチB)なのか」を考える前に、私たちは、まず、「身体拘束(縛られる)」の対象とされる「認知症の人」は「何をしたい(されたい)のか」「何をしたく(されたく)ないのか」について、また、もうひとつ、「認知症の患者」ではない、「認知症の人」について、その「本当」の姿を「正しく」理解しなくてはならない。

 以前から「認知症ケア」に関心があった私は、かつて『トランネット通信』(出版翻訳会社)に寄稿した『医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ』(連載コラム「編集長の目」№133)の中で、「認知症の人との超コミュニケーション法(Simple Techniques for Communicating with People with“Alzheimer’s-Type Dementia”)」と前サブにある、アメリカのソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルの著書『バリデーション(The Validation Breakthrough)』(藤澤嘉勝監訳、篠崎人理・高橋誠一訳、筒井書房、2001年)に書かれた「認知症に対するナオミ・フェイルの仮説」――私たち人間が人生の異なった段階を生きていくときに、それぞれの段階で解決しなければならない「人生の課題」があると仮定して、人によってはその問題を解決しないまま人生の最後を迎えることがある。そのような人は人生の最終章に、4つの解決のステージ、つまり①認知の混乱、②日時、季節の混乱、③繰り返し動作、④植物状態、それぞれの解決ステージを迎える――を紹介したことがある。

 今回はそのコラムの一部を紹介しながら、「認知症の人」の本当の姿を見つめていきたい。

 たとえば、アルツハイマー型認知症の診断には、頭部MRI(磁気共鳴画像診断)やPET(陽電子放射断層撮影)で脳組織の萎縮、大脳皮質への老人斑沈着などの検査を行うことがよく知られているが、物忘れ(記憶力障害)、現在の日時認識の混乱(見当識障害)など初期の認知障害は徐々に進行し、徘徊行動、火の消し忘れ、大声で騒ぐ、攻撃的行動、妄想がはげしくなるなどの「問題行動」へと発展していく。

 そして、深刻な「問題行動」を起こすまでに「病状」が悪化すると、家族の介護は困難(家庭崩壊の危機)となり、介護老人福祉施設などに入所させるほかはないというのが、現代では「常識」とされている。

 また、認知症患者の「問題行動」への対応策については、多くの解説書がある。ネット上にも「問題行動の予防と対応」のアドバイスが載っている。しかし、そのほとんどが、【患者の行動を否定せず、一応、受容的な態度を取りつつ、感情の高ぶりが治まるのを辛抱強く待つ】など、その場の混乱を乗り切るためのテクニック(対症療法)となっている。

 しかし、『バリデーション』のなかで紹介されている「バリデーションセラピー(超コミュニケーション法)」は、認知症の問題行動を最小限の混乱(被害)の枠内にとどめるために行う対症療法的なテクニックではなく、アメリカ人のソーシャルワーカーであるナオミ・フェイルが、長年の臨床経験と仮説から生み出された実践的なテクニックであった。また、従来、セラピーの専門家が行ってきた「冷静かつ客観的に患者を評価し、不足している部分を補い修正する」観察・分析手法ではなく、「バリデーション」ではお互いが対等な人間として共に感動し、怒りや悲しみを癒そうとする「共感者」をめざすのだという。

 認知症に対するナオミ・フェイルの仮説を要約すると、私たち人間が人生の異なった段階を生きていくときに、それぞれの段階で解決しなければならない「人生の課題」があると仮定して、人によってはその問題を解決しないまま人生の最後を迎えることがある。そのような人は人生の最終章に、「4つの解決のステージ」、つまり①認知の混乱、②日時、季節の混乱、③繰り返し動作、④植物状態、それぞれの解決ステージを迎えるというものだ。

 また、8項目の「バリデーションの原則」の中には、重要な4項目のポイントが含まれている。

○ お年寄りの混乱した行動の裏には、必ず理由がある。
○ お年寄りの行動は単に脳の構造上の機能的変化だけでなく、加齢によって長い人生の中で起こる身体的、社会的そして精神・心理的変化を反映する。
○ 人はその人生の中で、さまざまな課題に突き当りながら生きている。その課題を十分に解決できずに過ごしてきて、不幸にして高齢期に認知症になったとき、そのことが心の中でやり残した課題として深く残っていて、それが問題行動として浮かび上がってくる。
○ 共感と受容は信頼を築き、心配を減らし、尊厳をとり戻す。認知症の人の状況を本当に、心から理解すれば、その人に対する介護の心構えが強くなる。
ナオミ・フェイルが、認知症の母親マーガレットと娘モリーに行った「バリデーション」を理解するために、同書に収められた「マーガレットのケース」を要約して紹介しよう。

 介護施設で暮らす86歳になる認知症の女性、マーガレット・ドーリングは、先週尋ねてきた娘のモリー・ダンネが彼女の人形を取り上げてからというもの、毎日夕方4時になるとまるで変人のように振る舞うようになった。ある日、施設のドアをすり抜けて脱走を試みるが、追いかけてきた看護助手のマイケルに腕をつかまれた。マーガレットは金切り声を上げる。

「行かせて!あなたが私の赤ちゃんをとりあげたのよ。彼女を見つけないといけないの」

 さらに反抗的な態度に出たマーガレットはイスに縛りつけられ、それでも暴言を吐く彼女は、過度のハロペリドール(精神安定剤)を投与されて、ゾンビのようになってしまった。

 驚いて駆けつけたモリーは、「あなたのお母さんは、夕方の4時ごろになるとパニックに陥るようですが、なぜだかおわかりですか?」というナオミ・フェイルの質問に、「それは私たちが学校から戻ってくる時間でした。母はとても厳しい人でした。妹のベッティーを除いて、私たちの誰も、5分たりと遅れることは許されませんでした」と答えた。

 翌日の4時、正気を取り戻したマーガレットだったが、この日もやってきた娘のモリーを無視して(娘と判別不能)、ベッティーを探しに行かなければならないとしきりに訴えている。実はベッティーはもう立派に成長した女性で、現在はアラバマ州に住んでおり、すでに3人の子どももいるのだが……。

 ナオミ・フェイルが「あなたはベッティーのことを心配しているの?彼女に何が起きるというの?」と聞くと、「彼女はこのひどい嵐の中、一人っきりで外にいるの」と不安げに答えた。マーガレットは心の目で「雪の中で迷っている“幼いベッティー”の姿」を見ているのだった。

 さらに「バリデーション」を続けていくと、かつてマーガレットは妊娠9カ月目、危篤状態で生まれてきて、そしてわずか12時間しか生きられなかった男の子の話をしてから、腕の中に赤ちゃんがいるように抱きかかえ、やさしく歌い始めた。そこで「あなたはベッティーが安全でいてほしいのね。あなたは彼女がもう一人の赤ちゃんのように傷ついてほしくないのね」と聞くと、マーガレットは「私はベッティーが臨月で生まれてきた赤ちゃんのように傷ついてしまわないか心配なのです」と答え、たくさんの涙をこぼした。

 そのとき無言で母親を抱きしめたモリーの目に、ナオミ・フェイルは初めてモリーが母親の悲しみを理解したことを見た。そして、先週マーガレットから取り上げた人形が、母親にとってモリーの妹、ベッティーが生まれる前に授かり、そして失った赤ちゃん(男の子)だったことを知ったのである。
ナオミ・フェイルは、この「マーガレットのケース」を次のように締めくくっている。

 マーガレットは娘の名前を忘れてしまっているようでしたが、顔を思い出したようでした。86歳になるこの女性は、60秒という短い時間の中で、60年という彼女の人生を旅したのでした。
私の助けとともに、モリーは母親と時間を過ごすことを学びました。マーガレットは未だに、毎日4時になるとベッティーを探していますが、自分を助けてくれるモリーがそばにいて、彼女が必要な時、人形が側にあるのでした。

(『バリデーション』第11章「日時、季節の混乱」にいる人とのコミュニケーション207~208ページ)

 マーガレットに対する娘のモリーのように、感情的な対応になりやすい家族のケアギバー(介護者)には、「認知症の人」が生きる最終ステージを「共に生きる」覚悟が求められる。それと同時に、「認知症の人」が長い間、解決できずに積み残していた「人生の課題」が最後に解かれる瞬間を「共有できる」可能性もゼロではない。しかし、訳者の高橋誠一さん(東北福祉大学教授)は、認知症の人と「共に生きる」ことはなかなか難しいことであり、その理由は介護者自身の人生の課題でもあるからだと、次のように書いている。 

 この問題は答えがはっきりしている算数の問題を解くようにはいきません。なぜなら、問題の中に私たち自身が含まれているからです。それを解こうとしている自分を問題から切り離すことができないのです。結局、他人事のような解決は不可能なのです。ケアとはそもそもこのような性質をもったものなのだと思います。ケアをする人とケアを受ける人を分離することはできないのです。それでも無理をして分離しようとすると、ケアではなく仕事や作業として考えるしかありません。認知症の場合、ケアする人だけが主体となり、ケアを受ける人は対象となります。このような関係の中では、主体同士が共に生きるということは生まれないでしょう。

(『バリデーション』「訳者あとがき」315ページ)

 次回も、『バリデーション(認知症の人との超コミュニケーション法)』を手がかりにして、たとえば「認知症の人がつたえること」、あるいは「認知症の人からつたわるもの」について考えてみたい。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)

 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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