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連載「つたえること・つたわるもの」176

はじまり:由来→これまで:変遷→いま:現在→これから:将来。

連載 2024-01-09

出版ジャーナリスト 原山建郎
去年(こぞ)今年(ことし)貫く棒の如きもの  高浜虚子

 これは、1950(昭和25)年12月20日、高浜虚子(1874~1959年)が76歳のときに詠んだ句である。Web検索でヒットした「エンジョイブログ/俳句HAIKU」(2015年1月18日)」の記事に、高浜虚子の孫で『虚子百句』(富士見書房、2006年)を上梓した、やはり俳人の稲畑汀子さんが、この句について書いた、次の一文が抜粋・引用されていた。

 去年と言い今年と言って人は時間に区切りをつける。しかしそれは棒で貫かれたように断とうと思っても断つことのできないものであると、時間の本質を棒というどこにでもある具体的なものを使って端的に喝破した凄味のある句であるが、もとよりこれは観念的な理屈を言っているのではない。禅的な把握なのである。体験に裏付けられた実践的な把握なのである。
(『虚子百句』より抜粋)

 これを時の流れ(変遷、経過)でとらえると、去年(こぞ:過去)は、今年(ことし:現在)の由来(ゆらい:あることがもとになって起り、今まで経過してきていること)である。また、たとえば明日(あした)は、もともとは「朝」の意味で用いられ、「夕べ」に対する語であり、「何かあった日の翌朝」をあらわす言葉として、平安末期以降から「明時(あけしだ)→明日(あした)」という意味で使われるようになったという。別の言い方をすれば、「きのふ(昨日)」が「けふ(今日)」の由来となっている。
私たちの「生きてきた(これまで:過去)」→「生きている(いま:現在)」→「生きていく(これから:将来)」人生には、「生まれた(あの世:ゼア:あっちから→この世:ヒア:こっちにやってきた)」という由来(存在証明)と、「亡くなる(この世:こっちから→あの世:あっちに還っていく)という将来(やがてやって来る、そう遠くない未来)に連なるワンセットの生命(いのち)を、高浜虚子の句にある「棒の如きもの」が、「生死(しょうじ)一如」のいのちとして、一直線に貫いている。

 たとえば、「由来」は「由(よ)って来(きた)るところ」を、「将来」は「将(まさ)にやって来(こ)ようとするところ」をさすのだが、編集工学編集研究所所長の松岡正剛さんは、宇宙物理学者・佐治晴夫さんとの講義+対談『二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑』(雲母書房、1999年)第四章「空の破片」【講義】のなかで、【われわれの存在というものは、ちょうど由来と将来の真ん中の現在にある。そうすると「由来」は過去のことで、「将来」は未来のことだと考えたくなるんですね。しかし、こう考えるとちょっとまずい。というのは、たとえばぼくの体の中にある遺伝子には遺伝情報が入っているんですが、これは「由来」ももっているし、「将来」ももっている。つまり、ぼくの存在の現在には、過去も未来も含まれている。そう考える必要があります】と述べている。

 松岡さんが考える「生命の由来と将来」とはどのようなものか、少しその先を読んでみよう。

 二三、四歳のときというのは父親が癌で死んだころですが、その父親の死に方に非常に疑問をもち、医者をいろいろたずね歩いて、結局、日本の医者の中ではその疑問に答えてくれる人には巡り会えず、それで初めてぼくはアメリカへ行くことになるんです。

 日本で一冊のある本を見つけたんですね。それは『メッセージはバッハ』
〔※『細胞から大宇宙へ――メッセージはバッハ』(ルイス・トマス著、橋口稔+石川純訳、平凡社、1976年)〕という本で、最初、何とはなしに読んでいたんですが、とてもいい本で、自分が葬送行進曲をかけられる日が来たら、それはやめてバッハをかけてくれということで終わっている本です。著者は生命についていろんなことを書いている、ルイス・トマスというニューヨークの国立ガンセンターの所長さんでした。この人ならぼくの父親の死についてのちょっとした疑問を解いてくれるかもしれないとそう思い、会いに行ったんです。

 そのときルイス・トマスが最初にぼくに聞いたことがある。それは、「松岡さん、あなたは一個の生命ですか」という質問です。すごい質問ですね。ぼくは一瞬、黙ってしまいました。ルイス・トマスの答えは、「生命はひとつではない」ということです。

 命はひとつではない! これはショックでした。なぜひとつではないかといえば、「あなたの体の中には、大腸菌が何億いると思いますか? サナダムシだっているかもしれないし、いろんな微生物が生きています。ひとつひとつの細胞だって生きています。だからあなたの生命は一個ではないし、お父さんの死も、ひとつの死として考える必要はない」ということでした。われわれには、複合的な生命の状態が重なっているのだということです。その複合的な生命状態の総体として松岡正剛という存在があることなんです。
これはいわれてみると納得できることですが、最初からこのようにはなかなか考えられない。誰だって自分は一個の生命だと思っています。しかし、そうじゃない。われわれはたくさんの生命の流れの乗り物である、そう見られるわけです。

(『二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑』第四章 空の破片「生命の由来と将来」195~196ページ)

 なるほど、本コラムでたびたびとり上げてきた「地名の由来」もまた、その土地の地形(地表の高低や傾斜などの形状)や地勢(地表の起伏や深浅などの状態)の特徴に由来する名前である。また、その土地の名前は、46億年前に誕生した「地球の歴史」をずっと生きてきた大地のいのち(遺伝子情報)を文字化したもの、ほかの土地とはっきり区別して名づけ、その存在が承認されたという証しでもある。

 などと考えていたら、元日に配達された地元、市川市の広報誌『いちかわ』(1月1日号)「市制施行(昭和9年11月3日)90周年」に、「市川の始まり」が載っていた。同市は、県内では千葉市、銚子市に次ぐ3番目の市。発足時の人口は4万人あまり、令和5年11月には49万3千人まで増加している。

 「市川(いちかわ)」の地名は、江戸川が坂東(ばんどう:関東地方の古称)一の大きな川であったことから「一(いち)の川(かわ)」と呼ばれていたことや、川船に荷物を積んで集まった人によって開かれた市場の場所であったことなどに由来します。
(広報『いちかわ』1月1日号、2ページ)

 さらに、詳しい情報を知るために、「市川」の地名について『日本歴史地名大系』(地域史・一志茂樹ほか監修、平凡社、1979~2004年)で調べてみると、全国に8カ所ある「市川」の地名とその由来が載っていた。かなりローカルな話題ではあるが、「千葉県:市川市 市川村」に関する解説の一部を要約して紹介し、それ以外7カ所の「市川」については、地名の由来・変遷の解説部分を省略して[現在地名]のみを記す。

☆千葉県:市川市 市川村 [現在地名]市川市市川、市川南、新田、真間、国府台など。現市域の西部中央、江戸川の左岸に位置する。近世には佐倉道が通り、江戸川対岸の西方、武蔵国伊予田村(現東京都江戸川区)とを結ぶ、佐倉道の渡船場(市川渡)や河岸場(市川河岸)が設けられていた。村の中央部を真間川が西流し、江戸川に注ぐ。当地は地内にある日蓮宗の古刹、弘法寺(ぐほうじ:旧求法寺)の門前として発展。江戸時代には同寺の敷地や寺領田畑は真間村とも称されていた。また弘法寺への参詣客などでも賑わった当村は市川宿(「江戸名所図会」など)ともよばれていた。市河とも記す。

☆広島県:広島市 安佐北区 市川村 [現在地名] 安佐北区白木町市川
☆宮城県:多賀城市 市川村[現在地名] 多賀城市市川
☆山梨県:山梨市 市川村 [現在地名] 山梨市市川
☆愛知県:新城市 市川村 [現在地名] 新城市横川
☆千葉県:安房郡 天津小湊町 市川村 [現在地名]天津小湊町内浦
☆石川県:金沢市 旧石川郡地区 市川村 [現在地名] 金沢市松島町
☆茨城県:新治郡 千代田町 市川村 [現在地名]千代田村市川

 これもWeb検索でヒットした『4 明治の混乱と牧の開拓【「農」と歴史】』(農水省関東農政局のホームページ)に、1869(明治2)年に始まった千葉県内の開墾の歴史が書かれていた。

 明治のはじめ、江戸をはじめとする関東の諸国には、幕末からの混乱で職を失った武士や路頭に迷う庶民があふれ、政府にとってその対策が緊急の課題となっていました。当初、政府はこうした人々に対し、それぞれが望む職を与えようとしましたが、不景気による物価の不安定さと天候不順による食糧不足も重なったため、新たな農地を開拓することで彼らの救済と食糧増産を図ることに決定します。開拓の対象となったのが北総台地の牧(まき※牧草地)でした。(中略)

 ともかく開拓は、実際に事業を進める開墾会社が設立され、明治2年、北総台地の西側、小金牧の初富地区(鎌ヶ谷市)から始まりました。東側の佐倉牧もすぐに続き、現在の八街市(やちまたし)では八街地区の開拓が、富里市では七栄(ななえ)地区と十倉(とくら)地区の開拓が始まっています。(中略)
入植に際し、それまで牧(まき)だった開拓地には、新たな地名が付けられました。最初の開拓地が「初富(はつとみ※鎌ヶ谷市)」、2番目が「二和(ふたわ※船橋市)」、3番目が「三咲(みさき※船橋市)」、以下「豊四季(とよしき※柏市)」「五香(ごこう※松戸市)」「六実(むつみ※松戸市)」「七栄(ななえ※冨里市)」「八街(やちまた※八街市)」「九美上(くみあげ※香取市)」「十倉(とくら※冨里市)」「十余一(とよいち※白井市)」「十余ニ(とよふた※柏市)」と続き、最後の地名は「十余三(とよみ※成田市・多古市)」。その文字から分かるように、これらの地名は、入植の順番と縁起の良い文字を組み合わせたものです。
(関東農政局ホームページ『4 明治の混乱と牧の開拓【「農」と歴史】』)

 その土地のDNA(遺伝子情報)を文字化した地名は、そのほとんどが「はじまり:由来→これまで:変遷→いま:現在→これから:将来」を含む「大地のいのち」だが、人はときに「いま:現在」の土地に別の名前(新たな遺伝子)を与えて、まったく新しい「これから:将来」を拓こうと考えることがある。

 ところで、先週、1月1日午後に発生した「能登半島地震」で大きな被害を受けた、石川県珠洲市のホームページに載っている「珠洲(市)」の地名(由来)からは、はるか古代より連綿と受け継がれた「大地のいのち」の祈り、願い、そして明るい希望が込められていたことがよくわかる。

 すずの由来については、いくつかの説がありますが、ススは本来「稲」のことで、収穫祭に12個の小さな鈴を結った神楽鈴を振って報謝の舞を舞うが、シャンシャンと鳴らす鈴の音に由来するという説と養老2年(718年)越前国を割いて、羽咋、能登、鳳至、珠洲4郡からなる能登の国が立国し、天平20年(748年)大伴家持が能登を旅した折、都に残った妻を想って長歌を詠んでいるが、「珠洲の海士が潜って採っているという真珠を500個ばかり手に入れることができないものだろうか、都で私のことを想っている貴女に贈ってあげたいのに……」というもので、真珠のように美しい輝きを持つ美しい洲(くに)が家持の郡名に抱いた思いだったという説があります。
(珠洲市ホームページより転記)

 一日も早い被災地・能登半島の〈復興〉と、真珠のように美しい輝きを持つ「珠洲(神楽鈴・真珠の輝きを持つ美しい洲)」の〈再生〉を心から願っている。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)

 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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