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連載「つたえること・つたわるもの」173

花びらは散る、花は散らない。散らない花を生きる。認知症の人の物語。

連載 2023-11-29

出版ジャーナリスト 原山建郎
 「認知症の人」の「身体拘束」は、「縛らざるをえない」と「縛ってはいけない」の是非を問う、二者択一ではない。認知症の高齢者介護を「ケア(気にかけて世話をする)」ととらえるか、「コントロール(制御・管理・支配する)」ととらえるか、「認知症の人」を介護する姿勢の違いが重要なポイントである。

 「ケア(介護)」「コントロール(制御)」「ケアギバー(介護者)」、それぞれの言葉のルーツ、微妙なニュアンスの違いについて、インターネットで検索した語源辞書などを手がかりに調べてみよう。

 「心配する、注意をする」を意味する「ケア(care)」は、古英語のカル(caru:心配・悲しみ)やラテン語のクーラ(cūra:配慮・治療)、クラーレ(curare:心配して世話をする)に由来し、同じ語源をもとに作られた、気遣いを意味するセキュア(secure:安全な)、インセキュア(insecure:不安な)や、手入れする意味のキュア(cure:治療)、マニキュア(manicure:爪に色を塗る)などに派生した。ちなみに「世話、介護、保護」など医療的・心理的援助を含むサービスを表す「キュア(cure:治療)」は、これもラテン語のクーラ(cūra)から派生した言葉で、現在では「医療的に世話をする」という意味で使われている。

 次に、「制御・管理・支配する」を意味する「コントロール(control)」は、ラテン語で「車輪、巻いたもの」を意味するロール(rotulus)+「~に反対して、~と対照して」を意味するコントゥラ(contra)=コントゥラロールcontrarotulus(ロール紙を反対方向に巻き戻す。巻物に書かれた記録と照らし合わせる)という行為から、事態を常に管理統制しておくを意味するコントロール(control)という英語になったという。

 「認知症の人」を世話する家族は「ケアギバー(caregiver:介護者)」だが、それを業(有資格者)として行う人は「ケアワーカー(care worker:介護福祉士)」と呼ばれる。漢字の「介」にはその原義である甲羅(鎧)から転じて、「身を守るもので、たすける」という意味が生じた。英語のケア(care)の語源にはラテン語のクラーレ(curare:to take care of=気をつける)が、ギブ(give)の語源にはラテン語のドネール(donare:to give=無償で与える)と、ゲルマン語のギフト(gift:to be given=神に与えられた才能)という正反対(能動形と受身形)の意味がある。とくにプロではない介護者は、身体の清拭、オムツの取り替え、入浴介助、着替え介助など、生活全般の介助(援助)にかかわっている。

 介護が必要とされる現場は、体力の衰えや加齢によって身体機能や認知機能が低下した人(多くは高齢者)が「いまここに、人間としての尊厳を保ちながら生きている現場」であり、その介護の現場が在宅であっても、介護施設であっても、疼痛緩和以外の治療をしないホスピスであっても、介護が目指す究極のゴールは「穏やかな死」に向けられている。「看(みる)」と「介(たすける)」の字を組み合わせた「看取り介護」という言葉がある。これは高齢者や病人(※病院では患者と呼ばれるが、在宅の療養では病人となる)の死を看取るターミナルケア(終末期介護)をいう。病状がかなり進行した病人、身体機能が著しく低下した高齢者、認知機能が著しく低下した「認知症の人」にとっては、さらにつらい苦しい「積極的治療(治癒)」を続けるより、たとえわずかでも苦しさから遠ざかることができる「消極的安楽(快適)」が感じられる見守り、つまり「何もしないケア」が求められている。

 そして、「認知症の人」は「穏やかな死」に向って、「認知症の人」の人生を、きょうという一日、今という瞬間を「生きて」いる。「認知症の人」という、世界に一つだけの物語にやさしく寄り添いながら、その人の物語をいつか完成(完結)させるために、ケアギバー(介護者)は何ができるのだろうか。

 前回のコラム№172でも紹介した『バリデーション』(藤澤嘉勝監訳、篠崎人理・高橋誠一訳、筒井書房、2001年)の著者で、アメリカのソーシャルワーカーである、ナオミ・フェイルは、人生の最終章にさしかかった「認知症の人」には、まだ解決しなければならない「人生の課題」が残っているという仮説を立て、そこから「バリデーションセラピー(超コミュニケーション法)」という実践的なテクニックを生み出した。

 ナオミ・フェイルには、「認知症の患者(ペイシェント:patient)」という意識はない。「認知症の人(ピープル:people)」と呼ぶ。たいていの場合、認知症という病名をつけられた「患者」は、狭義の意味での治療(キュア:cure)対象となる。治療の主導権を握るのは医師であり、患者は医師の指示に従うよう求められる。patient(患者)の語源には、ギリシア語のパテイン(pathein:to suffer=苦しむ)があり、「患者」には注射や手術、薬剤投与など侵襲的(生体を傷つける)治療にじっと耐えるイメージがつきまとう。

 ナオミ・フェイルの仮説では、「認知症の人」の混乱した行動の裏には必ず理由がある。その行動は単に脳の構造上の機能的変化だけでなく、加齢によって長い人生の中で起こる身体的、社会的そして精神・心理的変化を反映する。そして、共感と受容は信頼を築き、心配を減らし、尊厳をとり戻す。認知症の人の状況を心から理解すれば、その人に対する介護の心構えが強くなり、さまざまな改善が期待できるという。

 たとえば、『バリデーション』第2章「バリデーションの概念とテクニック」(60~61ページ)に載っている「解決にいたる4つのステージの特徴」(お年寄りが若いころ、人生の中で成し遂げておかなければならない大切な課題を十分やり終えることができなかったとすると、そのお年寄りが「穏やかな死」を迎えるために、そのやり残した課題を解決しなければならないと感じるときがやってくる。その課題を解決するために知っておきたい4つのステージとその解決法)の解説から、重要なポイントを要約して紹介しよう。

第1段階「認知の混乱」
☆オリエンテーション(見当識) 時間感覚はほぼ保たれている。現実に対する認識は比較的保たれている。自分自身が混乱した状態にあることを自覚している。/★基本的介護の姿勢 Who、What、Where、Whenのような質問は使えるが、Whyは使用しないようにする。からだにふれるのは最小限にする。まだ保たれている部分も多いので、必要以上にその人の心に立ち入ったり、なれなれしくしすぎないように注意する。/■視線 目はくもりなく、はっきりしている。相手にはっきり焦点を合わせられ、アイコンタクトもしっかりできる。

第2段階「日時、季節の混乱」
☆オリエンテーション(見当識) 時間どおり行うことはできなくなる。実際にあったこと、名前、場所さえ忘れる。新しく名前を覚えることが難しくなる。/★基本的介護の姿勢 「感じる」という言葉を使う。たとえば、「あなたの気持ちがわかります」「あなたのさみしい気持ちは、よく理解できます」など。やさしくふれたり、アイコンタクトを使う。/■視線 瞳ははっきりしているが、焦点は合いにくくなる。伏し目がちでアイコンタクトが認識のきっかけになる。

第3段階「繰り返し動作」
☆オリエンテーション(見当識) ほとんど外界からの刺激を受けつけなくなる。本人独自の時間感覚になる。/★基本的介護の姿勢 やさしくふれたり、アイコンタクトを使う。ゆっくりと本人に合わせたペースを保つ。本人と同じような感情や行動をする(※ミラーリングMirroring:鏡に映っているように、心の動きや行動を本人と同じくし、本人の気持ちを理解する)。/■視線 目を閉じていることが多くなる。

第4段階「植物状態」
☆オリエンテーション(見当識) 家族、訪問者、古くからの友人、スタッフのことが判別できなくなる。時間の感覚がなくなる。/★基本的介護の姿勢 やさしくふれたり、髪を撫でたりといった感覚的刺激を用いる。音楽の理由は比較的有効である。/■視線 目はほとんど閉じている(顔はくもり、表情はなくなる)。ボーッとして焦点は合っていない。

 ※「解決にいたる4つのステージ」の表(マトリクス)には、上記項目のほかに「身体状態」「声の調子」「感情」「自己管理」「コミュニケーション」「知的機能」「ユーモア」がある。

 この「解決にいたる4つのステージの特徴」を踏まえた上で、ケアギバー(家族介護者)、医療・介護施設のケアワーカー(介護福祉士、介護士)が行うべき14種類のバリデーション・テクニックが示されている。

センタリング(Centering:「介護者自身の精神の統一、集中」には、約3分間が必要)
事実に基づいた言葉を使う(「Why(なぜ)」の質問は避け、事実を聞く質問に集中する)
リフレージング(Rephrasing:本人の言葉を繰り返して、本人の自信を取り戻させる)
極端な表現を使う(最悪、最善の事態を想像させて、心配事をやわらげる手助けをする)
反対のことを想像する(若いころに苦しみや困難から立ち直った方法を思い出させる)
レミニシング(Reminiscing:「思い出話」をさせて、昔の記憶から解決方法を引き出す)
真心をこめたアイコンタクトを保つ(精神を集中し、相手の目を心をこめて見つめる)
曖昧な表現を使う(「それ」「彼ら」などで、意味のわからない言葉を置き換える)
はっきりとした低い、優しい声で話す(思いやりをこめた口調は、ストレスを減らす)
ミラーリング(Mirroring:鏡に映すように相手の動きや感情に合わせ、信頼感を築く)
満たされていない人間的欲求と行動を結びつける(行動を人間的欲求の視点で見る)
好きな感覚を用いる(昔の体験を考えたり、そのことを話してもらう)
タッチング(Touching:「ふれる」ことで、楽しかった子どものころの記憶を呼び起こす)
音楽を使う(言葉を失ったときでも、若いころよく歌ったメロディーが蘇る)
(『バリデーション』第2章「バリデーションの概念とテクニック」62~74ページの要約)

 たとえば、バリデーションで最初に行う、①の「センタリング(介護者自身の精神の統一、集中)」は、ヨーガのような呼吸法である。センタリングの主眼はあくまでも「精神の集中」に置かれ、補助的に「呼吸法」の力を用いて意識を変革(気分のリラックス)させる、つまり「精神の集中」によって「精神のリラックス」を達成しようとする、「頭脳知(brain work:頭で考える知恵)」主導のストレスマネジメントである。この「センタリング」は自分の呼吸に意識を集中させる、つまり意識を一時的に呼吸に振り向けて、ネガティブな感情(怒りやイライラ)を追い出すイメージ療法、催眠療法に近いものである。

 ケアギバー(※介護者)は精神の集中を行うため、自分自身の呼吸に焦点を合わせ、できる限り「怒り」や「イライラ」を身体の中から追い出します。自分自身が「怒り」や「イライラ」から解放されることによって、コミュニケーションをとろうとする相手の気持ちを心から感じとることができます。共感と同意をもって聞くことができるようになるためには、自分の感情を完全に解き放つことが大切です。
ですから、すべてのバリデーションのセッションは、このセンタリングから始まります。センタリングには約3分が必要です。だんだん気分がよくなり、リラックスします。
(1)下腹(ウエストから下5㎝)に神経を集中させます。
(2)鼻からゆっくり息を吸い込み、身体を新鮮な空気で満たします。ゆっくり口から息を吐き出します。
(3)すべての息を止め、あなたの呼吸にすべての意識を集中させます。
(4)この手順を、ゆっくり8回繰り返します。

(『バリデーション』第2章「バリデーションのテクニック」62~63ページ)

 私はかつて、西野流呼吸法の創始者、西野皓三さんから「足芯呼吸」など呼吸法の指導を受けていた。西野さんは「人間は勝手に生きている。心臓も胃腸も勝手に動いている。だから素晴らしい。人間にとって絶対的な真実はただひとつ、それは自分が今、生きているということだ。常識的な頭脳の知(知識としての知)だけでは、真の自己を活かすことはできない。人間の能力を最大限に活かして生きるには、いざというときに発揮される、からだのもつ潜在的な知、すなわち身体知(Physical Intelligence)が不可欠である」と述べている。「身体知」が生き生きと発現するからだの獲得こそが、西野流呼吸法の大きな目標なのである。

 バリデーション・テクニックで実践する「センタリング」では、精神の「集中」ばかりを意識し過ぎると、「からだ」がこわばり、「こころ」が固まってしまう。ぜひとも、そこに「からだをゆるめ、こころをほぐす――身体知の呼吸法」のエクササイズを加味してほしいものである。

 ナオミ・フェイルの提言をひと言で表現すると、「認知症の人を変えることはできない」が、家族である「自分」、つまり「介護者(Caregiver)自身を変えることはできる」ということである。相手(認知症の人)を「(自分が介護しやすいように)変える」のではなく、介護者である自分が「(認知症の人を理解し、真の介助ができるように)変わる」ことが求められている。

 ところで、さきに「認知症の人」という、世界に一つだけの物語にやさしく寄り添いながら、その人の物語をいつか完成(完結)させるための「介護ケア」の方法が、この「バリデーション・テクニック」であると述べた。たとえば、「認知症の人」が〈生きてきた・生きている・生きていく〉世界に一つだけの物語を桜の花(花びら)だとすると、〈生きてきた・生きている・生きていく〉「認知症の人のいのち」は、そのおおもとの桜の樹である。毎年、春になると満開の桜が咲き競うが、やがて、その花びらは花吹雪となって舞い散る。しかし、翌春には、同じ桜の樹の枝から再び桜の蕾が膨らみ、あの美しい花を咲かせる。私たちは、もしかすると「認知症の人」を、そのおおもとの<いのち>である桜の大樹としてではなく、散りゆく桜の「花びら(身体機能や認知機能が衰えた状態)」と見ることしかできていないのかもしれない。

 2004年、東京大学で開催された公開シンポジウム『死の臨床と死生観』において、「人間は人生という物語を生きている」と問題提起したパネリストの一人、ノンフィクション作家の柳田邦男さんに、コーディネーターをつとめた倫理学者の竹内整一さんが、「こちらの世界の完成・完結ということと、あちらの世界への眼差しのようなものはどうつなげて考えているのか、いないのか」と質問したことを、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一著、ちくま新書、2009年)に書いている。

 佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』の死—―生の意味についての話と「色即是空」のイメージの話はきわめて示唆的でした。柳田さんは、こう言われました。

 ――自分は小さい時から「色即是空」という言葉がずっと気になって、その言葉にとらえられてきた、と。これは『般若心経』のなかの言葉で、死んであの世に行くのは漠然と、「空なる世界に戻っていくんだ」というようなものとして理解していたが、それがたとえば、この『100万回生きたねこ』の絵本を見ることによってある種の納得がえられた、というわけです。

 『100万回生きたねこ』とは、ご存知の方も多いでしょうが、こういう話です。――ある雄ねこがいて、そのねこは一〇〇万回死んで一〇〇万回生き返ってきたと。ところがそれが、ある雌ねこを愛して、そしていっぱいの子どもをつくる。しかし、その雌ねこに死なれて泣きに泣いて、自分も泣き明かして結局死んでしまうが、今度は生き返らなかった、と。

 絵本は最後、名もない野の花と草むらの自然のありふれた風景の場面で終わっているが、柳田さんは、その最後の風景が、自分にとっての「色即是空」のイメージに重なってとらえられたと言っていました。

(『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』第2章 死の臨床と死生観 42・43ページ)

 柳田さんが『100万回生きたねこ』の最後の場面に感じたという「色即是空」のイメージに重ねて連想すれば、浄土真宗の僧侶であった、金子大榮(一八八一~一九七六)が、「色即是空、空即是色」をこう訳していたことが思い起こされます。

花びらは散る
花は散らない

 ここで「空」とは岸本
(※岸本英夫:宗教学者)の言い方に当てはめれば、「徹底した」「全面的」、「全体的」な「別れ」ということですが、それを解することにおいて、たとえ「花びらは散」ろうとも、散らない「花」が咲くということです。
(『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』第8章「さようなら」としての死 193ページ)

 花びらは散る、花は散らない。散らない花をきょうも生きる。「認知症の人」がつたえる〈いのち〉の物語。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)

 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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