連載「つたえること・つたわるもの」(37)
気持よく挨拶を交わす、贈与と返礼、よきパッサーでありたい
連載 2018-03-27
出版ジャーナリスト 原山建郎
私たちがよく使う挨拶に、「おはよう(ございます)」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」などがある。これらは、敬語分類では「丁寧語」の表現であり、上司や顧客だけでなく、同僚・後輩社員に対して同じ挨拶を返しても何ら問題はない。もちろん、気の置けない相手(同僚や後輩)であれば、水平のベクトル(方向)の挨拶、「おはようっす」「おっはー」「ようっ」「こんちは」「さいなら」であってもよい。
高校の教科書『精選 現代文B』(大修館書店)に、神戸女学院大学名誉教授・内田樹さんの「『贈り物』としてのノブレス・オブリージュ(※「身分の高い者にはそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある」という意味のフランス語)」という一文が載っている。一般的に、私たちは「贈り物」という言葉からは、お中元やお歳暮のような、かたちのあるもの、価値のあるもの、実用性のある(※生活に役立つ)ものを連想する。ところが内田さんは、【贈り物とは「価値のあるものを贈る」ことではない、そうではなくて、「これは贈り物だ」と思った人が、そう思った瞬間に、初めて(※贈り物としての)価値が生まれるのだ】という。『精選 現代文B〔評論(一)〕』にある、内田さんの文章を抜き書きしてみよう。
例えば、挨拶というのはある種の贈り物です。「おはよう」と誰かに呼びかけられる。私たちはそれを聴くとこちらも「おはよう」と言わなければならないという強い返礼義務を感じます。負債感と言ってもいい。同じ言葉を返さないと気持ちが片づかない。挨拶した方もそうです。挨拶したけれど返礼がないということになると、気持ちが片づかない。片づかないどころか、心に傷を負います。
どうしてでしょう。たしかに「おはよう」というのは「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という予祝の意味を持つ言葉です。でも、よく考えると、そんな意味は「おはよう」という語そのものには含まれていません。「おはよう」はただ「時間が早い」という認知的な意味しか持ちません。「こんにちは」も「こんばんは」も同じです。それらは単なる単語です。十全な意味を伝えるセンテンスをなしていない。でも、私たちはその単語に、口にされなかった語を補ってそれを予祝の言葉と解釈している。
(「『贈り物』としてのノブレス・オブリージュ」)
「与祝(よしゅく)」には、「与(あらかじめ)・祝(いはふ)」意がある。農耕社会であった上古代の日本では、たとえば小正月(陰暦1月15日)に「(年間の農作業のしぐさを真似た)庭田植え」、「(木の枝に餅などをつけて実りを表した)繭玉、花餅」、「(害獣を追うしぐさ)鳥追い」をして、その一年間の豊穣を祝い願う「予祝儀礼」が行われており、その風習はいまも全国各地の祭礼、民俗儀礼として受け継がれている。
この民俗学的な「与祝」という言葉を、現代風に解釈すると、「その願いがすでに成就したとイメージして、前もって祝って(言葉で感謝して)しまうこと」となるだろう。たとえば、JR駅構内のトイレでは、張り紙が「トイレをきれいに使いましょう(奨励)」や「トイレを汚してはいけません(禁止)」ではなく、「いつもトイレをきれいにお使いいただきありがとうございます(感謝の先払い)」と書かれている。前二者では、「いちいち言われなくても、わかってるよ」と文句も言いたくなるが、先にお礼を言われる(贈与)と、思わず「どういたしまして、こちらこそいつもお世話になっています」と心の中で呟いて(返礼)しまう。
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