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連載「つたえること・つたわるもの」(107)

不要不急と必要火急の間、無限の欲望拡大で失った大事なもの

連載 2021-02-23

出版ジャーナリスト 原山建郎

 昨年2月3日、横浜港沖に停泊した大型クルーズ船・ダイヤモンドプリンセス号が、ただちに日本政府の検疫下におかれ、発熱など新型コロナウイルス感染が疑われる症状がある乗客、乗員が確認された。これが日本におけるコロナ禍の始まりである。3月11日にWHOがパンデミック(爆発的感染拡大)を宣言し、4月7日には第1回目の緊急事態宣言が発出された。そして、先月7日に第2回目の緊急事態宣言が発出されて今日に至っている。ようやくワクチン接種が医療従事者を対象に始まったが、一般の国民にワクチン接種が始まるのは数カ月先で、3月7日に緊急事態宣言が解除されるかはいまだ不明である。

 コロナ禍の1年間、政府や地方自治体が「三密回避」対策の切り札とした「不要不急」(外出・営業自粛)について、改めて考えてみたい。まず、これらの用語の意味を『広辞苑』で調べてみた。

 ☆「不要」(明治時代に造られた語)【必要でないこと。いらないこと。】/☆「不急」【急を要しないこと。さし当って用のないこと。】

 括弧内の注釈にあるように、「必要」という語は明治時代の造語(新漢語)で、江戸時代までは☆「不用」【いらないこと。用のないこと。役に立たないこと。無駄なこと。】という語が用いられていた。

 また、「不要不急」の反対語は「必要火急」である。それぞれの語を『広辞苑』で引いてみる。

 ☆「必要」(幕末・明治期に造られた語)【必ず要すること。欠くことのできないこと。なくてはならぬこと。】/☆「火急」【火が燃えひろがるように急なこと。非常にさし迫っていること。】

 これも括弧内の注釈のように、「必要」という語も「不要」と同じく近代日本(明治時代)の造語であるようだ。「必用」と、その同義語の「必須」も調べてみる。☆「必用」【必ず用いるべきこと。なくてはならぬこと=必要。】/☆「必須」【必ず須(もち)いるべきこと。必ずなくてはならぬこと。】とある。

 たとえば、「不要不急」を「さしあたって用のない、必要でないこと」、「必要火急」を「非常にさし迫っている、欠くことのできないこと」とすると、その行為(行動)がどちらの場合に当てはまるのかは、それぞれの立場によって判断が異なる主観的な問題である。「あなたの外出は、本当に必要な外出ですか?」と問われたときに、「これは不要不急の外出だから、自粛(自分で自分の行いをつつしむ)せざるをえない」と判断すべき客観的な物差しはない。営業時間の短縮や自主休業も同様である。しかし、政府は新型コロナ対策特措法を、「正当な理由なく要請に従わない事業者に対し、営業時間の変更などを命令できる」として、現在のような「緊急事態宣言下で命令に従わない場合、30万円以下の過料」と改正した。

 新型コロナウイルスの感染拡大を収束に向かわせるには、ある程度の規制措置は仕方ないのかもしれない、が、しかし――などと思い始めた矢先、インターネット検索で見つけた昨年末の朝日新聞コラム「異論のススメスペシャル」で、京都大学名誉教授・佐伯啓思さんの「コロナ禍、見えたものは――不要不急と必要の間。経済成長で得られぬ生を充実させるもの」(掲載紙面のPDF版)を読んだ。佐伯さんは『経済学の犯罪――希少性の経済から過剰性の経済へ――』(講談社新書、2012年)という著書がある経済学者である。同書には、「希少性の原理(経済)」は「無限に膨らむ人間の欲望に対して資源は有限である。したがって、市場競争によって資源配分の効率性を高め、また、技術進歩などによって経済成長を生み出すことが必要となる」であり、また「過剰性の原理(経済)」とは「成熟社会においては、潜在的な生産能力が生み出すものを吸引するだけの欲望が形成されない。それゆえ、この社会では生産能力の過剰性をいかに処理するかが問題となってくる」であると解説されている。

 少し長い朝日新聞コラムの引用だが、重要な問題提起が含まれているので、お許しいただきたい。

 新型コロナウイルスに始まったこの1年もやがて暮れようとしている。(中略)この騒動の中で様々な言葉が飛び交ったが、気になったひとつは「不要不急」の4文字であった。「不要不急の外出自粛」である。ところが「不要不急」を自粛すると今度は経済が回らない。そこで、「旅行に出よ」「食事に出よ」と「不要不急の外出」を奨励する政府に即座に反応して、この秋には、都市の中心部や観光地に人々は押し寄せた。一方、コロナ禍の中で事業の継続が困難となり、失職して明日の生活にも苦労する困窮者たちが出現する。にぎやかな旅行者の群れと生活困窮者が同時に現れる。(中略)

 いうまでもなく「不要不急」の反対は、いわば「必要火急」である。それがなければ人間の生存が脅かされる絶対的必要とすれば、「不要不急」は、生命に維持には直接関わらない。「生命の維持」からすれば、それは無駄なもの、過剰なものであろう。ところが、この無駄を止めた途端に、「必要火急」が切迫し、「生命の維持」さえも危機に陥ることになった。

 となれば、現代社会において、われわれの生命や生存は「不要不急」なもの、過剰なものによって支えられているということになる。
(中略)市場経済は「不要不急」と「必要」を区別することなく、いっさいを「必要」とみなすほかはない。なぜなら、人々の欲望は無限であり、資源は有限である限り、市場で提供されるものはすべて人々が求めるものだからである。それを言い換えれば、経済とは「希少性を処理する方法」ということになる。(中略)「必要」と「不要不急」の区別は見えにくくなり、「必要」をはるかに超えて、ますます「過剰なもの(不要不急)」は生産され続け、人はそれを追い求め、経済を拡大する。(中略)「不要不急とは何か」、あるいは「何が不要不急なのか」という問いはきわめて重要なのである。生存の確保だけではなく、いかなる生、いかなる社会をわれわれは望ましいと考え、いかなる文化を残すかという価値をめぐる問いがそこにある。(中略)人は最低限の「必要」だけで生きているわけではない。しかしまた、「不要不急」の無限の拡大は、人の生から本当に必要なものを奪い去りかねない。そしてわれわれは「必要なもの」と「不要なもの」の間に、実は、「大事なもの」があることを知った。

 信頼できる人間関係、安心できる場所、地域の生活空間、なじみの店、医療や介護の体制、公共交通、大切な書物や音楽、安心できる街路、四季の風景、澄んだ大気、大切な思い出。(中略)「必要」も「不要不急」も、この「大事なもの」によって支えられ、またそれを支えるべきものである。
(「異論のススメスペシャル」令和2年12月26日、朝日新聞掲載)

 近年の大量生産・大量消費経済社会、使い捨て・使い放題・食べ放題文化に警鐘を鳴らすジャーナリスト、ナオミ・クラインは、近著『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーンニューディールの提言』(大月書店、2020年11月)で、「消費者であることしか知らない私たち」と題して、気候変動に対処するためには消費を減らす「必要」があると指摘した。これこそ「必要火急」の提案であろう。

 気候変動に対処するためには消費を減らす必要がある。しかし、私たちは消費者であることしか知らない。気候変動問題は、消費行動を変えるだけでは解決できない。SUVをハイブリッド車に買換え、飛行機に乗ったらまた別の場所でその排出量に見合う量を削減して相殺する(カーボン・オフセット)だけではだめなのだ。比較的裕福な人々の過剰消費がこの危機の中心にある。つまり世界でもっとも熱狂的な消費者たちが消費を減らす必要があるのだ。そうすることで、他の人が生活するのに十分な資源を確保することができるようになる。

 「人間の本性」がそうさせるのだ、とはよく言われるが、問題は人間の本性ではない。私たちは、こんなにたくさんの買い物をするように生れついてはいない。人類の歴史の中でも、つい最近までは、現在よりかなり少ない消費でも十分に幸福(多くの場合、現在よりもっと幸福)だったのだ。しかし、ある時期に、消費が果たす役割が誇張されたことが問題だった。

 後期資本主義の社会では、消費者としての選択を通して自己を形成させることを教えられる。つまり、何をどのように買うかということが、みずからのアイデンティティを形成し、自分のコミュニティを見つけ、自己を表現する方法であると。だから、地球を支えるシステムへの負荷が過剰になっているから、これ以上好き放題に買い物はできないと伝えることは、ある意味、自分自身になることへの攻撃と捉えられてしまう。これが、環境保護運動が提案した当初の三つのR――Reduce(削減)、Reuse(再利用)、Recycle(リサイクル)――のうち、リサイクルだけが人々にやる気を起こさせた理由だろう。なぜなら、「リサイクル」と書かれた箱に、要らなくなった物を入れれば、また買い物を続けられるからだ。他の二つのRは、消費の削減を求められるため、提案とほぼ同時に消滅した。

(同書「消費者であることしか知らない私たち」144~145ページ)

 昨秋、発足した菅義偉首相の目玉政策は、グリーン社会(脱炭素社会、経済と環境の好循環)とデジタル社会(究極の効率化社会)であるが、佐伯啓思さんが指摘する「必要なもの」と「不要なもの」の間にある「大事なもの」を「不要不急」の無限の拡大によって失いつつあること、また、ナオミ・クラインが問題提起した「世界でもっとも熱狂的な消費者たちが消費を減らす必要がある」ことに対して、いま私たちは真剣に向き合わなければならない時代に直面している。そして、キーワードは「必要なものを・必要なときに・必要なだけ」を求める〈小欲知足〉の智恵、生き方である。

 ここで、もうひとつ、宗教人類学者・植島啓司さんが『偶然のチカラ』(集英社新書、2007年)でとりあげた、人生を三極(幸運/普通(つつがなく)/不運)の座標軸で考えるという提案を思い出した。

 このところしばしば考えるのだが、もし飛行機が空港に着くときに事故にあったら、われわれはそれを「不運」と呼び、どうしてそういうことになったのか原因を知りたがることだろう(いや、死んでしまったらそれどころではないが)。だがここでよく考えてほしい。では飛行機が無事に着いたとして、われわれはそれを「幸運」と思うだろうか。たしかにホッとすることはあっても、きっと幸運とまでは思うまい。つまり、ひとつの行為の結果がプラスで「当たり前」、マイナスで「不運」というのはいかにも不公平ではないかということである。

 われわれは人生の座標軸を、
 ①幸運
 ②普通(つつがなく)
 ③不運
 という三極で考えるべきなのではないか。

 すると、その比率は5%、90%、5%くらいになるはずだ。ところが、普通(つつがなく)の90%は通常は見えにくくなっている。普通(つつがなく)は本来は感謝すべきことなのに、だれもがそれを忘れてしまっている。それに気がつくのは、病気をしたり、監獄に入れられたり、死が近づいているのを実感したときだけ。われわれはいつも不運だけをクローズアップしてしまうのだ。「なぜ自分はこんなに不運なのだろうか」と。

(同書「カイロの男の夢」208~209ページ)

 今回のコラムを執筆中、偶然、アメリカから飛行機事故のニュースが飛び込んできた。先週末(2月20日)に、アメリカでコロラド州デンバー発ホノルル行きのユナイテッド航空の旅客機が、離陸直後に右側エンジンが故障し、エンジンを蔽うカバーの一部が住宅地に落下するトラブルが発生した。すぐに同機はデンバー空港に戻り、無事着陸した。乗客231人、乗員10人に怪我はなかった。着陸に成功した機内では、乗客・乗員が全員墜落死という「不運」を免れ、全員生還した「幸運」を喜び合ったはずである。

 一般的には「必要なもの」としての「幸運」、「不要なもの」としての「不運」と考えることが多い。しかし、「幸運」と「不運」の間にある「普通(つつがなく)」という、ごくありふれた日常の出来事、たとえば佐伯さんが挙げた「信頼できる人間関係、安心できる場所、地域の生活空間、なじみの店、……」などが、「幸運であること」や「不運でないこと」よりも、「必要なもの」と「不要なもの」の間にあって、私たちの「生」を支えてくれている、いちばん「大事なもの」なのである。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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