PAGE TOP

連載「つたえること・つたわるもの」(129)

オノマトペ(擬声・擬態語)、からだことばを楽しむ講座

連載 2022-01-25

出版ジャーナリスト 原山建郎

 ことし5月から始まる2022年度の社会人向け教養講座(文教大学オープンユニバーシティ)として、『遠藤周作の「病い」と「神さま」――その1(その2)』、『「やまとことば」でとらえる<ほとけごころ>講座Ⅲ』、『〈やまとことば〉のオノマトペ、からだことばを楽しむ』と題する三つの講座を提案した。

 一つ目の『遠藤周作の「病い」と「神さま」――その1(その2)』は、これまで代表作を中心に講じてきた遠藤周作シリーズをひとまず終えて、没後26年目を迎える遠藤さんの遺言ともいえるエッセイ『患者からのささやかな願い』(讀賣新聞)、『日本の「良医」に訴える』(『中央公論』)などの寄稿から始まった「心あたたかな医療」キャンペーン(遠藤ボランティアグループの誕生と活動、東大病院の入院案内の文言改訂アドバイス、メッセンジャーナース・村松静子さん、在宅ホスピス医・内藤いづみさん、大腸肛門病科の女医・山口トキコさん……)の40年間を検証する、元遠藤番記者(私)が見聞きした「語り部レポート」である。

 二つ目の『「やまとことば」でとらえる<ほとけごころ>講座Ⅲ』は、日本語の「からだ感覚」でアプローチする『<ほとけごころ>講座Ⅰ(①と(溶)く/ほど(解)く→と(融)ける/ほど(解)ける、②ゆる(許)す/ゆる(弛)む→ゆ(揺)れる/ゆる(緩)める、③たす(助)く/すく(救)ふ→ま(負)ける/まか(任)せる、④つつ(包)む/さら(晒)す→あら(洗)ふ/すす(濯)ぐ、⑤な(成)る/な(鳴)る/な(生)る→あ(生)る/あ(顯)る)』と、『<ほとけごころ>講座Ⅱ(①と(解)く→ほど(解)ける/ゆる(弛)める→ゆる(緩)む、②つか(掴)む→はな(放)つ/しがら(柵)む→す(捨)つ、③たす(助)く→すく(救)ふ/はから(計)ふ→みちび(導)く、④いつく(慈)しむ→はぐく(育)む/てら(照)す→やしな(養)ふ、⑤お(老)ゆ→や(病)む/し(死)ぬ→よみ(黄泉)かへ(還)る)』の続編である。

 秋学期に開講する予定の『〈ほとけごころ〉Ⅲ』では、①まよ(迷)ふ・なや(悩)む/あき(諦)らむ・わか(分)る、②こら(堪)へる・た(耐)へる/ゆる(弛)む・ほど(解)ける、③うら(恨)む・うらや(羨)む/いの(祈)る・ことほ(言祝)ぐ、④さば(裁)く・とが(咎)める/みと(認)める・まこと(全事)、⑤かみ(神)・ほとけ(仏)/しあ(幸)はせ・いき(生)かひ(甲斐)など、「やまとことば」の音韻(音の響き)と「古代漢字」の成立ちを手がかりに、いまを生きる私たちの〈ほとけごころ〉について考える。

 三つ目の『〈やまとことば〉のオノマトペ、からだことばを楽しむ』講座を提案したいと考えたのは、この正月に読んだ『からだことば――日本語から読み解く身体』(立川昭二著、ハヤカワ文庫、2002年)の第1話「からだことばが消えていく」の中に、ある日の新聞第一面の見出しにあった「目前」「王手」「条件面」という「ことば」を例に引きながら、「からだことば」の衰退について書かれていたからである。

 「からだことば」というのは、「手」とか「足」とか、からだの部位の名称を含んでいることばです。からだ語とか身体語ともいいます。たとえば「手」ですと、「手先」とか「相手」といった熟語、そして「手を抜く」とか「手が出る」などの慣用句――ふだん何気なく使ういいまわし――でよく使います。たんに「手が出る」だけでなく、おいしいものを見ると「のどから手が出る」ともいいますね。

 このように使う熟語や慣用句をからだことばといいます。もとより手足だけでなく、目とか鼻とか口とか眉、さらには汗とか血とか息まで含んだことばも、からだことばと考えてください。(中略)

 昔とくらべると、今は意外にからだことばが使われなくなっています。わたしたちがそれと気づかずに(※新聞の)見出しなどで多用する熟語化したものは、頻繁に使われているのですが、昔ながらのからだことばは、だんだん消えていきつつある。このことは、わたしたちの生活や文化にとって何を意味するのか、またわたしたちのからだそのものにとって何を意味するのか、それを考えてみたいのです。(中略)

 からだにかくされた歴史、からだに息づいている文化を甦らせるには、からだことばほどうってつけの手がかりはないのです。
(『からだことば――日本語から読み解く身体』7~10ページ)

 病理史学者の立川さんが「からだことば」と呼ぶ日本語(漢字かな交じり文)の熟語や慣用句は、私たちがそれを耳にすれば、そのことばが何を意味するのかが、からだ感覚レベルで理解できる。それは日本語話者にとっての暗黙知(経験的に使っているが、簡単に言葉で説明できない知識)ともいうべきもので、これまでの人生で獲得した経験知(エクスペリエンス)と、おもに乳幼児期における「お砂場遊び」や「おままごと」などの「からだ感覚」を介して刷りこまれた身体知(フィジカル・インテリジェンス)の中に含まれている。

 やはり年末に図書館から借り出した『「擬音語・擬態語」使い分け帳』(山口仲美・佐藤有紀著、三海堂、2006年)を読んでみると、経験的に使っていることばだが、簡単に説明できない暗黙知のことばである「からだことば」について、オノマトペの用例(文学作品)も含めて、「ナルホド、そうか!」と思える解説があった。講座の料作りを始める前に、その予告編として同書からオノマトペ比較の一部を抜き書きしてみよう。

 ●「どきどき」と「はらはら」。どんな違いがあるのでしょうか。どちらも気持ちが高ぶる様子を表します。でも、「どきどき」は、心臓が烈しく鼓動する音を表し、「はらはら」は、そばで見ていて心配でたまらない様子を表します。(中略)「嬉しさが込み上げて来て、胸がドキドキする」(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 一方の「はらはら」は、他人のことで心をもむ様子です。「万一、あなたに知れたら大変だと思うもんだから、ハラハラしていた」(谷崎潤一郎『痴人の愛』)の「はらはら」は、そばで見ていて、困ったことになりはしないか、心配でたまらない様子です。
(『「擬音語・擬態語」使い分け帳』59~60ページ)

 ●「むかっ」と「かちん」、一体どんな違いがあるのでしょうか。「むかっ」も「かちん」も、ともに怒りの感情が起こる様子を表します。でも、その怒りの質や原因に違いがあります。「むかっ」は、「バッシング報道にムカッ!」(週間女性94・7・5号)のように使います。胃の辺りからこみ上げてくる怒りです。(中略)また、「むかっ」は、怒りの原因がかならずしも明確でないことが多いのです。「お母さんたちの笑い声が、どっと起って、私は、なんだか、むかっとなった」(太宰治『女生徒』)のように。

 一方、「かちん」は、必ず相手の言動に対しての怒りであり、原因ははっきりしています。たとえば「女性がカチンとくる言葉は『まだ一人?』」(SPA!88・7・14号)にみるように、「かちん」とくる原因は「まだ一人?」という相手の発言です。「むかっ」のように原因が特定できないということはありません。 
 (『「擬音語・擬態語」使い分け帳』41~42ページ)

 ●「しくしく」と「きりきり」、一体どんな違いがあるのでしょうか。「しくしく」も「きりきり」も、ともに痛む様子を表しますが、「きりきり」は「錐(きり)」などの刃物がいきなり揉みこまれたかのような、鋭く強烈な痛みが襲って来る様子です。「高志はキリキリと腹が痛んで海老のように体を曲げ、どうにかうなり声を耐え抜くと」(野坂昭如『ラ・クンパルシータ』)のように使います。

 「しくしく」は、鋭い痛みが一定期間をあけて続けて起こる様子です。「初めはしくしくと痛んだ。そのうち……激痛が走るようになった」(朝日新聞89・3・21)のように使います。「きりきり」のような耐えがたい痛みではありませんが、重篤な病気の前触れ的な痛みであることがあります。
(『「擬音語・擬態語」使い分け帳』123~124ページ)

 昨日から読み始めた『からだ言葉の本――付“からだことば”拾彙』(秦恒平著、筑摩書房、1984年)の表紙カバーには、たくさんの「からだことば」が書かれている。たとえば……

 お鼻が高い 木で鼻をくくる 小鼻をうごめかす 出鼻をくじく 鼻息が荒い 鼻毛を数える 鼻先でせせら笑う 鼻っ柱 鼻つまみ 鼻の下が長い 鼻持ちならない 鼻を明かす 鼻をつままれる 鼻をつまらせる 鼻を鳴らす 鼻の先 目鼻をつける/開いた口がふさがらない 軽口を叩く 口八丁手八丁 人の口に戸が立てられぬ へな猪口 良薬は口に苦し/足跡をくらます 足が地につかない 足が出る 足下に付け入る 後足で砂をかける馬の足 手足となって働く

 これらの慣用句のなかで、いまでもよく使われる「からだことば」はいったいいくつあるだろう。たとえば、生まれたときからパソコン・インターネット環境で育った「Z世代」の若者には、辞書を引いて理解することはできても、日常会話のなかで用いる機会はほとんどないかもしれない。なるほど! 立川さんが危惧する「からだことばが消えていく」現象は、暗黙知における日本文化の急激な衰退を暗示しているようだ。

 ところで、「〈やまとことば〉のオノマトペ」といえば、慣用句としての標準的なオノマトペではなく、独特な感性から生まれたオノマトペ表現で知られる宮澤賢治の作品群がある。『宮澤賢治のオノマトペ集』(宮澤賢治著、栗原敦監修、杉田淳子編、ちくま文庫、2014年)から、宮澤賢治のオノマトペを紹介しよう。

にかにかにかにか
 今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑ってゐます。
「イーハトーボ農学校の春」より


ごとんごとん
 風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
「注文の多い料理店」より
どっどどどどうど どどうど どどう
 どっどどどどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ すっぱいくゎりんもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう「風の又三郎」より
(『宮澤賢治のオノマトペ集』198・199/306・307/326・327ページ)

 そういえば、森山良子さんが歌った『さとうきび畑』(寺島尚彦作詞・作曲)に、「ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ……」というオノマトペの歌詞がある。作詞者の寺島さんは、さとうきび畑が風に吹かれる音と、その下に眠る沖縄戦の戦死者を悼む音、このダブルミーニング(二通りの解釈)を「ざわわ ざわわ ざわわ」という「からだことば」に込めたのだという。

 昭和・平成の時代を経て、令和を迎えた「からだことば」たち、これからどこへ向かって行くのだろう。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

人気連載

  • マーケット
  • ゴム業界の常識
  • 海から考えるカーボンニュートラル
  • つたえること・つたわるもの
  • ベルギー
  • 気になったので聞いてみた
  • とある市場の天然ゴム先物