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連載「つたえること・つたわるもの」(119)

生身の〈からだ〉を通って、生き生きと届く〈話しことば〉。

連載 2021-08-24

出版ジャーナリスト 原山建郎
 このところ、官僚が用意した作文を、コメントとして読み上げる菅義偉総理大臣に、平和式典(広島市)でのスピーチ原稿「読み飛ばし」や、記者会見での「棒読み」、「読み違い」など、うっかりミスが多発している。その原因の一つには、どうも事前の読み合わせ、予行演習をしていないことではないか? つまり、それらの〈ことば〉たちを、いったん菅総理の生身の〈からだ〉を通すことで、スピーチ・コメント原稿(書きことば)への理解が深まり、そしてはじめて相手に届くコメント(話しことば)となるはずなのだが。もとは〈書きことば〉として官僚が作成した「である調」スピーチ原稿を、語尾だけを「ですます調」に置き換えた〈話しことば〉として、そのまま話しているように思えてならない。

 今回のコラムは、菅総理の揚げ足取りではなく、私たち自身の「人の振り見て、わが振り直せ」である。

 ともすると私たちも陥りやすい、スピーチやプレゼンテーションでありがちな「棒読み」や「読み違い」はなぜ起こるのか、〈書きことば〉と〈話しことば〉はどう違うのか、そして、その〈ことば〉たちを伝える――生身の〈からだ〉――生き生きとした〈からだ〉とはどういうものなのか、について考えてみたい。

 〈話しことば〉は「口語(口頭言語)」、〈書きことば〉は「文語(文字言語)」のことである。文末が「です。」「ます。」「でした。」「ました。」で終わる「です・ます」調の文体は、読む人がやわらかな丁寧さを感じる。一方、文末が「である。」「だ。」で終わる「である」調の文体は、堅苦しく改まった感じを受ける。

 また、日本語の文体は、大きく普通体(常体)および丁寧体(敬体)の二種類に分かれる。小池百合子都知事の記者会見のコメント、「外出を控えてください。今日もたくさんの人が出ておられますが、大雨もコロナも同じです。災害になります。よろしくお願いします」などは、「ですます調」の丁寧体である。

 日本語を母語としている私たちは、無意識に日常生活のなかで二つの文体を適宜使い分けている。「文体」の意味を広辞苑で引くと、「文章のスタイル。語彙・語法・修辞など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色」とある。「文体」を理解するキーワードは、書き手の熱意、本気度を伝える「らしさ」である。

 同じ著者が書いた文章でも、「文体」が変わるだけで、「らしさ」の伝わり方が大きく違ってくる。

 『野の花ホスピスだより』(新潮文庫、2009年)の著者、徳永進さんは鳥取赤十字病院内科の勤務医を経て、2004年、鳥取市内にホスピスケアのある「野の花診療所」を開設した。徳永さんの〈書きことば〉には、無言のせりふ「……」、余韻や悲鳴の「ー(長音)」を用いて、それぞれの人の想いを語らせている。

★〈書きことば〉(せりふ入り)
 朝、呼ばれて病室へ行く。明君、天井を斜めににらんでいる。
 「頭、痛い?」「……」「熱、出た?」「……」「けいれんですか?」「ハイ」
 抗けいれん薬を打つとすぐにおさまった、てな具合。
 別の日、ナースが「様子が変」と駆けつけた。「寒いですか?」「……」「けいれんですか?」「……」「便ですか?」「ハイ」。摘便でドッサリ、てな具合。

  (『野の花ホスピスだより』「Ⅰ 野の花の人々」27ページ)

★「書きことば」(ー:長音の考察)
 病棟にはいろんな声がある。「おーい、おーい」「かんごふさーん、かんごふさーん」「死なしてー」「助けてー」「ありがとー」
 ぼくは、この伸びる音「ー」のことを考えずにいた。棒みたいな記号だから〈棒音〉かと思ったが、辞書にはなかった。長音という。「ー」に共通しているのは、感情が乗っているということだろう。
 「あいつー」の憎しみにしろ、「あーあ」の落胆にしろ、それぞれの感情が「ー」に乗り、乗ると思いはさらに増幅するようだ。「ー」は感情の増幅装置。コミュニケーションの本質は「ー」にあるのか、と最近思う。

(『野の花ホスピスだより』「Ⅱ 野の花通信から」168ページ)

 野の花診療所HPの『在宅ホスピスQ&A』は「話しことば」だ。質問者(患者とその家族)の「あのー」と、回答者(徳永医師)の「えっとー」が、素敵なハーモニーを奏でている。質問と回答のワン・センテンスを、3・4回改行することで、やりとりする〈ことば〉の微妙な息づかいが伝わってくる。

☆〈話しことば〉(※質問と答え)
1.あのー
 「在宅ホスピス」って何ですか?
 えっとー、
 家で親しい人に囲まれ、訪問ナースたちのケアを受け、
 おだやかに死を迎えていくことを言います。
(※2~7のQ&Aは省略)
8.あのー
 やさしい看護婦さん、来てくれますか? 
 えっとー、
 それそれ。くるんです。やさしい看護婦さんが
 ヘルパーさんも、鍼灸師も、医師も。
 現場でやさしさを学んだ人たち。

(野の花診療所HP・『在宅ホスピスQ&A』)

 『教師のためのからだとことば考』(ちくま学芸文庫、1999年)、『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社学術文庫、1990年)の著書がある演出家、竹内敏晴さんの〈話しことば〉も〈書きことば〉も、ともに長めのセンテンスだが、とくにお茶の水女子大学教授・宮原修さんとの対談では、語り手である竹内さんの息継ぎを意識した、長いワン・センテンス(句読点の多用)、息づかいのリズム感が伝わってくる。

☆〈話しことば〉(対談:ですます調)
 竹内 (前半部分は省略)わたしにとってのことばっていうのは、そういうふうにまず第一に、ほんとうに人が人に働きかけられるかという、一つの、なんて言うのかな、証しであって、こういう話をしてしまえば、結論っていうか、はっきりするわけだけれども、わたしにとっては、ことばっていうのは文章ではなくて、まず第一に話しことばなわけです。しかしそれも、話しことばというのも、文としての話しことばではなくて、声そのもの、相手にふれていくかふれていかないかという、声そのものの問題で。
(『教師のためのからだとことば考』「働きかけとしてのことば」190ページ)

★〈書きことば〉(である調)
 〈声とことばのレッスン〉は、生活の中での力あることば、人が人に触れ、変え、変わる力をもつことばを目指す。いわゆるキレイな発声や発音や滑らかな口調は目指さない。出発点は〈話しかけのレッスン〉で聞き手になってみることである。声とことばがどんなふうにからだに触れてくるかに気づくことが、全部のレッスンの基礎だからである。     
(『「からだ」と「ことば」のレッスン』「声とことばのレッスン」119~120ページ)

 『木のいのち 木のこころ』(西岡常一・小川三夫・塩野米松著、新潮文庫、2005年)、『法隆寺を支えた木』(西岡常一・小原二郎著、NHKブックス、1978年)などの著書がある西岡常一さんは、祖父も父もそしてご本人も三代続いた法隆寺棟梁(宮大工)である。

 「法隆寺の棟梁がずっと受け継いできたもんです。文字にして伝えるんではなく、口伝(くでん)です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といい、人柄といい、この人こそが棟梁の資格があるという人にだけ、口を持って伝えます」という西岡さんの〈話しことば〉(口述筆記:聞き書き)をそのまま起こした「独特の語り口」と、それを「ですます調」にまとめ直した「標準語(東京弁にリライト)」とでは、こんなにも違うものかと、われとわが目を疑ってしまう。

☆〈話しことば〉(聞き書き、語り口尊重)
 昔はおじいさんが家を建てたらそのとき木を植えましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや。今の人にそんな時間の感覚がありますかいな。もう目先のことばかり、すこしでも早く、でっしゃろ。それでいて「森を大事に、自然を大切に」ですものな。木は本来きちんと使い、きちんと植えさえすれば、ずっと使える資源なんでっせ。鉄や石油のように掘って使ってしまったらなくなるいうもんやないんです。植えた木が育つまで持たせる、使い捨てにしないという考えが、ほんのこのあいだまでありました。本来持っている木の性質を生かして、無駄なく使ってやる、これは当たり前のことです。この当たり前のことをしなくなったですな。     
(『木のいのち 木のこころ』〈天〉23~24ページ)

★〈書きことば〉(聞き書き、ですます調まとめ)
 法隆寺の建物は、ほとんどヒノキ材で、主要なところは、すべて樹齢一千年以上のヒノキが使われています。そのヒノキが、もう千三百年を生きてビクともしません。建物の柱など、表面は長い間の風化によって灰色になり、いくらか朽ちて腐蝕したように見えますが、その表面をカンナで二~三ミリも削ってみると、驚くではありませんか、まだヒノキ特有の芳香がただよってきます。そうして薄く剥いだヒノキの肌色は、吉野のヒノキに似て赤みを帯びた褐色です。千三百年前に第二の生き場所を得た法隆寺のヒノキは、人間なら壮年の働き盛りの姿で生きているのです。
(『法隆寺を支えた木』「Ⅰ 飛鳥と木」53~54ページ)

 〈書きことば〉であれ、〈話しことば〉であれ、それを支える思いの本気度、深さはもちろんだが、それら〈ことば〉の送信者である、私という生身の〈からだ〉をいったん通過して、向こうに届く〈ことば〉たちが、はじめて受信者の〈からだ〉のなかで、新しいコミュニケーション(相互交流)の花を咲かせる。

 演出家の竹内さんは、〈からだ〉という土台がしっかりしていなければ、生き生きした表現としての〈話しことば〉にはならない、生身の〈からだ〉と一緒に〈ことば〉を動かすことが必要だ、と述べている。

 話しことばはからだの動きと一つになって生きる。しかし、世の常の訓練や授業では、ほとんど、ことばはことばだけ、からだの動きはからだの動きだけ、それぞれに独立して行われている。それは人としての表現の、ある部分を明確にしたり、美しくしたりする役には立つけれども、人のからだ全体が、大きく脈うち、深く息づいて見るものに迫る、つまりこころの動きが鮮やかに現れることにはなりません。
 だから、朗読を、ただ音声の発し方のやりくりで教えるのでなく、むしろ音声が発する土台たるからだを動かすことによって、生き生きした表現にいたることができる。

(『教師のためのからだとことば考』「アクションの能力について」119~120ページ)

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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