白耳義通信 第84回
「フードミル」
連載 2023-09-19
鍵盤楽器奏者 末次 克史
皆さんは passe-vite(パッス・ヴィット)という調理器具をご存知だろうか。フランスでは、moulin à légume(ムラン・ア・レギュム)と呼ばれる。これは、茹でたジャガイモなどをピューレ状にする手で回す裏ごし器で、日本のネットショッピングでは、「手動フードミル」「裏ごし器」などと呼ばれている。実はこれ、ベルギーで誕生したもの。今月は、この調理器具の歴史を遡ってみたい。
登場するのはヴィクトール・シモン Victor Simon 夫妻。ベルギーのエノー州の学校の料理人であったシモン夫人は、毎日せっせと子供たちのために大きな鍋でスープを作っていました。しかし、何百人といる子供たちが食べる量をすりこぎで潰すのは容易ではありません。ある晩、家に帰るとイライラしながら夫に「もうやってられないよ…」と、訴えました。
エンジニアであった夫は直ぐにノートにスケッチを開始します。彼は、粉砕するときに使用する力を垂直方向ではなく水平方向に使用した方がはるかに便利であると考えました。プッシャーを押す代わりに、シリンダーを回すのもいいかもしれない。夫人が大切に残していた図面には、後に彼女が “passe-vite” と名付けた最初のプロトタイプが示されていました。
試作品は、隣人の金属技術者であったリシャール・デニス Richard Dennis によって作られました。台所で第一号器を試したところ、ジャガイモがあっという間にピューレ状に。「これは世の女性を救うに違いない」と確信した夫妻は、デニス氏に製作を依頼。1928年、ブリュッセルの見本市に登録し、人々に知って貰おうと、10個の passe-vite を持ってグランプラスに立ちます。
当時では革新的なこの調理器具はあっという間に完売し、数百件の追加注文を受けます。遂には、夫妻とデニス氏は、シモン・エ・デニス Simon & Dennis という会社を立ち上げます。最終的に彼らは500万個の passe-vite を生み出しました。
順調かに見えた経営でしたが、特許を取っていたにも関わらず、いくつかの企業が模造品を作り始めます。国内外で訴訟が相次ぎ、販売競争にも破れ、1978年に会社は倒産。これは1950年代にハンドブレンダーなどの電化製品が台頭してきたことも関係しているでしょう。
現在でもプロ御用達のキッチン器具取扱店へいけば、passe-vite を簡単に見つけることができます。ブリュッセルのラーケン地区には “passe-vite” という名前のキッチン用品店もあるくらいです。夫人がこの調理器具に込めた名前の由来は「はやく」vite 「通す」paase ということです。
フードプロセッサーやミキサーで料理をするのが当たり前の現代でも、手動フードミルや裏ごし器で作ったピューレやスープの舌触りには叶いません。passe-vite の時代から更にはやく便利になった現代だからこそ、ゆっくり丁寧にいきたいものですね。
【プロフィール】
末次 克史(すえつぐ かつふみ)
山口県出身、ベルギー在住。武蔵野音楽大学器楽部ピアノ科卒業後、ベルギーへ渡る。王立モンス音楽院で、チェンバロと室内楽を学ぶ。在学中からベルギーはもとよりヨーロッパ各地、日本に於いてチェンバリスト、通奏低音奏者として活動。現在はピアニストとしても演奏活動の他、後進の指導に当たっている。ベルギー・フランダース政府観光局公認ガイドでもある。
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