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連載「つたえること・つたわるもの」(111)

近代オリンピックをむしばむ、商業主義の落とし穴

連載 2021-04-28

出版ジャーナリスト 原山建郎

 前々回(№109)は、一般市民に〈伝わりにくい〉医療用語を〈わかりやすく〉伝える一例として、国立国語研究所「病院の言葉」委員会の『「病院の言葉」を分かりやすくする提案』を、前回(№110)は、形式的で〈伝わりにくい〉お役所ことばを〈わかりやすく〉伝える先進的な取り組みとして、北海道富良野市、東京都港区、千葉県銚子市の具体的な改善例を紹介してきた。

 今回は、これまでの【〈伝わりにくい〉を、わかりやすく〈伝える〉】という文脈ではなく、新型コロナウイルスの第四波感染拡大にともない、4月25日から5月11日までの17日間、第3回目の緊急事態宣言が発令された状況にもかかわらず、今夏の東京オリンピック・パラリンピックを強行しようとする菅義偉首相と小池百合子都知事の〈伝わりにくい≒実は本当のことは伝えたくない?〉発言を、〈つたわりやすい〉言葉で、はっきり〈伝える≒真相を読み取る〉深読み作業をしてみたい。

☆「安全安心な大会を実現するため、IOC(国際オリンピック委員会)や各競技団体とも相談しながら、感染対策の具体的内容を検討しております。」(赤字強調は原山。以下同じ)

☆「バッハ会長とも東京五輪を必ず実現し、今後とも緊密に協力していくことで一致しており、引き続き東京都、大会組織委員会、IOCなどと緊密に連携して準備をしっかりと進めてまいります

☆「アスリートを含めて、感染症対策をしっかりと行うことにより、ワクチンを前提としなくても安全安心な大会を開催できるよう準備を進めています。また、必要な医療体制については地域医療に支障を生じないよう、東京都と組織委員会等と連携しながら準備を進めてまいります

 これは、1月20日の衆議院本会議で、立憲民主党・枝野幸男代表の質問に対する菅義偉首相の答弁である。さらに、今夏の五輪開催ができない場合の代替案(プランB)の質問にも、プランBに関する言及はない。国内のワクチン接種の状況とは関係なく、これまでと同様に五輪開催強行の姿勢を崩していない。

 それどころか、昨年5月25日、第1回目の非常事態宣言が解除されてから、もう1年が経とうとする現在もまだ、「ワクチンを前提としなくても安全安心な大会を開催できる」ための「感染対策の具体的内容」や、「必要な医療体制については地域医療に支障を生じない」ための「準備を進めてまいります」という政府や東京都の「プランA(基本対策)」について言えば、医療従事者や高齢者へのワクチン接種は東京五輪が開催される8月末までに終えたい、若年層も含めた全国民への接種は今秋にずれこむ見通し、新型コロナ重症感染者の受入れ病院が逼迫している、ワクチン接種を担当する医師・看護師スタッフが不足しているなど、どう考えても東京オリンピック・パラリンピックを今夏に開催できる状況にない。

 かてて加えて、一昨日(4月26日)の新規感染者35万2991人、死者2812人となったインドで検出された新型コロナウイルスの二重変異株や三重変異株(1つのウイルス内で2つ、または3つの変異が見られるもの)は、ブラジル型や南アフリカ型よりも感染力が強く、いま世界で接種されているワクチンの効果を弱める可能性があるそうで、一昨日(26日)には日本国内でも21例の新規感染者が確認された。

 新型コロナウイルスの感染が中国(武漢市)で初めて検出される数カ月前に上梓された書籍、『で、オリンピックやめませんか?』(天野恵一・鵜飼哲編、亜紀書房、2019年8月)にある「ナショナルイベントとしての東京五輪――祝賀資本主義と災害便乗資本主義」のなかに、次のような指摘がある。

 ジュールズ・ボイコフ(※元プロサッカー選手でアメリカのパシフィック大学教授)はオリンピックに関して「祝賀資本主義」という考え方を示しています。オリンピックがもたらす祝賀資本主義はネオリベラリズム(※新自由主義=個人の自由の尊重や市場原理に基づいて、政府による個人・市場への介入を最低限に留めるべきという考え方)とは異なる。祝賀資本主義には国家や公共団体の関わりが不可欠であるのに対し、ネオリベラリズムは本質的に民間主導だからです。ボイコフの図式では、まず祝賀資本主義が到来し、だまされた人びとが「お祝いだ」とはしゃいでいると、それが実は人災にほかならない災害であることが判明する。するとこんどはその災害を口実に、非常事態的なネオリベラリズム旋風が吹き荒れる。祝賀資本主義と災害便乗型資本主義はこのように相次いで襲来するのであり、ボイコフはこれを「ワン・ツー・パンチ」と表現しています。

 ところが東日本大震災以降の日本では、まず災害便乗型資本主義が「復興」を名目に展開され、その状況をテコにしてオリンピックが招致され、それからさらに「オリンピック災害」後の便乗型資本主義が用意されているのです。祝賀資本主義の前後に災害便乗型資本主義が配置されたこの「ワン・ツー・パンチ」という攻撃に、私たちはさらされています。
         (『で、オリンピックやめませんか?』108~109ページ)

 ここでいう災害便乗型資本主義とは、昨秋の本コラム(№100)でとりあげた〈ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)〉と同じ意味のことばである。同書が上梓されたあとに起こった新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)という惨事(災害)を加えるとすれば、「ワン(東日本大震災・復興)・ツー(東京五輪・招致)・スリー(コロナ禍・コロナワクチン)・パンチ」のようになるだろう。

 今回、第3回目の非常事態宣言が、コロナ対策専門委員の「最低でも4週間、28日間」という提言を17日間に短縮して、ゴールデンウイーク後の5月11日としたのは、5月17日に来日するバッハ会長との五者会談に間に合わせるためではないかという憶測があるが、おそらく図星、それが真実だと思う。

 IOC、東京都、JOCの三者が締結した開催都市契約第66条に「開催中止」に関する規定がある。戦争状態、内乱、ボイコット、またはIOCがその単独の裁量で、本大会参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠がある場合に、大会を中止できると定めている。日本側(東京都、JOC)には「開催中止」の権限がなく、仮にコロナ禍を理由とした開催中止の意向を示した場合には、そのこと(中止)で生じた1兆円近い賠償金を請求される可能性も否定できない。したがって、今回は生殺与奪の権限を有するバッハ会長の意向を忖度したスケジュール調整ということになる。

 それにしても、東京オリンピックの開催と延期にかかる経費はどんどんふくれあがっている。昨年末に発表された経費概算によると、招致時の計画予算7340億円をはるかに超えて、経費総額は3兆2600億円(東京都7170億円、組織委員会7060億円、国1兆600億円、東京都の五輪関係経費7770億円)となり、これに新たなコロナ対策経費が追加される場合は4兆円近い経費がのしかかってくる。それに対して、IOCの負担金はわずか850億円のみである。

 9年前、東京五輪招致決定前に上梓された『オリンピックと商業主義』(小川勝著、集英社新書、2012年6月)のなかで、著者のスポーツライター、小川勝さんは「オリンピックの運営経費が104年の間に6385倍も金のかかる巨大イベントになってしまった」ことについて、次のように書いている。

 なぜ、オリンピックは、これほど金がかかるイベントになってしまったのだろうか。
オリンピックに対して、我々には二つの立場が提供されている。


 一つは――こちらが多数派だが――オリンピックを、古代オリンピックから続くアスリートの崇高な祭典ととらえ、舞台裏の事情はさておいて、テレビの前に(あるいは観客席に)座るという立場である。

 もう一つは、舞台裏の事情に目を向け、オリンピックにまつわる利権のシステムを追求し、国さえオリンピック委員会(IOC)が掲げている理念との馬鹿馬鹿しいほどの乖離を指摘して、近代オリンピックを批判するという立場である。(中略)

 前者の世界においては、オリンピックの存在価値に疑問が呈されることはない。オリンピックに出ること、オリンピックでメダルを取ることは、留保なしに素晴らしいことで、国民の「感動を呼ぶこと」だというふうに規定されている。

 一方、後者の世界においては、オリンピックの存在価値はもはや失われている。オリンピックはIOC貴族と一部多国籍企業の玩具(おもちゃ)であって、これに夢中になっている世界中の観客は、支配者たちに騙された世間知らずの哀れな人々ということになる。

 この二つの立場が、議論のテーブルにつくことはほとんどない。前者の数が余りに多いため、後者の声はメディアの片隅に追いやられている。前者は、後者の声を無視するか、あるいは軽い一瞥のあと、部屋に紛れ込んだ虫でも払いのけるように排除してしまう。一方、聞く者が少なければ、後者の声はどうしても過激になる。気功としない者たちに対して冷笑的になっていく。そしてますます、両者の距離は遠のいていくように見える。(中略)

 IOCは、我々から税金を徴収しているわけではない。したがって、納税者が政府を監視するような意味で、我々がIOCを監視する必然性はない。

 だが、よく知られているように、我々の圧倒的多数がテレビを通して観戦することによって、IOCは莫大な収入を得ている。ここでいう収入とは、テレビの放映権料だけではない。スポンサー企業が巨額のスポンサー料をIOCに払うのも、我得我がテレビで(あるいは現地に足を運んで)オリンピックを観戦するからである。オリンピックに対する我々の関心が、オリンピックの巨大化を支えているのだ。その逆ではない。
(『オリンピックと商業主義』12~16ページ)

 先週(4月21日)、新型コロナウイルスの感染拡大のため、愛媛県松山市で行われる予定だった聖火リレーは公道での実施が見送られ、聖火ランナーが走らない初のケースとなった。城山公園でのセレモニーで、中村時広愛媛県知事が、「走るのを楽しみにしていた皆さまにその機会を与えることができず、すみません」と言って泣き出し、「ぎりぎりまで悩んだが、人の命を守ることが最大の使命とリレー中止を決めた」と理解を求めたニュースが流れた。直後のSNS上には、「よく中止を決断した」の書き込みや、「予定走者がかわいそう」という同情の声も見られた。

 しかし、「聖火」の意味を辞書で引くと「神に捧げる神聖な火」と書かれているように、聖火リレーはトーチを掲げて走るランナーのためにあるのではなく、かつて古代オリンピックでゼウスの祭壇の聖火の故事にならって始まった、祝祭的なセレモニーだったはずである。それが、いつのころからかアマチュア規定を廃止して、プロ選手の出場によるスポーツのショーとなった観のある、近代オリンピックの商業化によって、その聖火を捧げる対象は「全能の神」、ゼウスではなくなり、莫大な放映権料を支払うテレビ局、CMを提供するスポンサーという「マネーの神」になってしまった。

 さきに、ボイコフの「まず祝賀資本主義が到来し、だまされた人びとが「お祝いだ」とはしゃいでいると、それが実は人災にほかならない災害であることが判明する。」という指摘が、今回のコロナ禍による東京オリンピック・パラリンピック2020の「延期」によって、より明らかになったのではないだろうか。

 そろそろ、近代オリンピック開催そのものが、すでに再検討の時期にきているように思う。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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