連載「つたえること・つたわるもの」(70)
遠藤周作の『深い河』創作日記・病状日記、1992年2月21日。
連載 2019-07-23
遠藤さんの小説は、その題名にダブルミーニング、トリプルミーニングが込められている。たとえば『わたしが・棄てた・女』のタイトルが『わたしが・棄てた・キリスト』という二重の意味をあらわしているように、『深い河 ディープ・リバー』では、悲しみを象徴的する三つの「深い河」をあらわしている。
一つ目は、作品のおもな舞台であるインドのガンジス河。現地の人々にガンガー(ヒンドゥ教に伝わる、ガンジス河を神格化した女神)と呼ばれる母なるガンガーは、あらゆる宗教、人種に関係なく、また現世で行ったどんな罪も問わず、すべてを許し、包み込んで、ゆるやかな流れを見せている。
二つ目は、有名な黒人霊歌の「ディープ・リバー(Deep River)」(♪深い河、故郷はヨルダン川の向こう岸。深い河、主よ、河を渡り、集いの地へ行かん)で歌われている「深い河」。この歌の「ディープ・リバー」は、ヨルダン川のことで、「集いの地」とはカナン、つまり聖書で神がアブラハムの子孫に与えると約束した「約束の地」のことである。しかし、この歌にはさらにダブル・ミーニング(二つの意味)がある。「ヨルダン川」を現世において象徴するディープ・リバー、それが北米大陸を南北に貫いて流れる「ミシシッピ川」であり、集いの地とは「北部」または「天国」だと考えることができる。人種差別の厳しかった「南部」の黒人奴隷にとって、比較的差別意識の軽かった北部への逃亡こそが現実的な希望でしたが、それを阻んでいたのが目の前に横たわる広く深い河、ミシシッピ川なのである。
人間の弱さと哀しみを包んで流れる『深い河 ディープ・リバー』が出版(1993年6月8日)される2週間前、手術直後のはげしい痛みに耐えながら、遠藤さんはこの作品の推敲にとりかかるのだった。
五月二十五日(口述筆記) 今まで五回にわたって手術を受けたが、今日の手術(※腹膜透析を行うために、透析液を出し入れする専用カテーテルをお腹に埋め込む手術)ほど痛く、辛く、堪えられぬものはなかった。途中でこのまま殺してほしいと何度も思った。(中略)痛みをまぎらわすため、『深い河』の一節を思い出し、あそこはこう書くべきだったと考えるのも小説家の性(さが)であり、今のぞむのはあの小説の出来上がりだ。早く表紙をなでてみたい。この小説のために文字通り骨身をけずり、今日の痛みをしのがねばならなかったのか。女房はほとんど眠っていないという。おたがい十日ぐらいするとどっと疲れが出るのではないか、そういう心配がある。
(「病状日記」137・138ページ)
【プロフィール】
原山 建郎(はらやま たつろう)
出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。
2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。
おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。
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