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連載「つたえること・つたわるもの」(166)

ロシアのウクライナ侵攻ーーハンチントンが予言した「文明の衝突」

連載 2023-08-08

出版ジャーナリスト 原山建郎

 今夏、78回目となる原爆の日(広島・8月6日、長崎・8月9日)を迎えた。
 この5月には、G7(主要7カ国)広島サミット2023が開催され、各国首脳による史上初の原爆資料館見学があったばかりだが、ロシアのメドベージェフ元大統領は7月30日、「ウクライナの反攻が成功すれば、ロシアは核兵器の使用を余儀なくされる可能性がある」と述べ、戦術核兵器(対象を敵の軍事拠点などに限定する形で、低出力の核攻撃をしかける兵器。広島・長崎に投下された原爆の5~10倍の威力がある)の使用をちらつかせている。
 もし、ロシアがウクライナに対して戦術核兵器を使用すれば、ウクライナを支援する西側諸国(EUやアメリカなど)もロシアに対する直接的な攻撃を行うことになり、最悪の場合はアルマゲドン(世界最終戦争)に突入する可能性も否定できない。ロシアは先のG7広島サミット2023には参加していない(2014年のクリミア半島併合に対抗して、西側諸国はそれまでのG8からロシアの参加を停止。現在はG7)ので、プーチン大統領やラブロフ外相は原爆被害の惨状を伝える原爆資料館を見学する機会を得られなかった。

 広島や長崎の被爆者の高齢化に伴い、被爆体験を後世に伝える「語り部」がどんどん減っているなかで、先日、友人の歯科医Sさんの(やはり歯科医師である)父上が、20年ほど前、歯科医の学会で講演されたときの草稿(「日本海軍歯科医官の歴史」)を見せていただいた。その内容を読み進むうちに、これはとても貴重な「語り部」資料だと考えたので、Sさんの了解を得て、その一部を紹介させていただく。

 私は昭和十九年九月に、本当なら四年間のところを半年の繰り上げ卒業で歯科医師の免状が取れました。在学中記憶にあるのは、昭和十七年の国民医療法制定の際の医歯一元論(※医学と歯学の一体化)です。まだその歴史的経過もよく知らないが、(※やはり歯科医師である)親父たちが大騒ぎしていて、学生の間でもいろいろ意見を戦わせていた。現実にその後、戦局の緊迫化が進むうちに、どうしても歯科医を医師の分野で補助的役割を課さなくてはやむをえなくなってきて、私たちの一年上級者は半年の講習らしき教育を受けて医師免状を取得している。私の親父もその頃既に五十歳を過ぎていたが、終戦間近になって千葉大医学部に講習に通っていた。また私たち海軍歯科医官になった者も、現実的には歯科の業務よりも医科の補助的業務が課せられた。戦後、当時の教官に、君たちは連合国軍の本土上陸に際しての医療特攻隊的役割を果たすために教育していたのだと聞かされました。(中略)
 昭和十七年四月、二年生になった年、ドーリットルの米軍機(※太平洋上の航空母艦から発進した双発の爆撃機)による初めての本土空襲を、学校の庭で東のほうから西に向かって飛んでいく姿をはっきりと見た。飛び去ってから高射砲が空で破裂しているのが、間が抜けた感じでした。そんな空襲はまだ序の口だったのを、知りませんでした。
 戦時下の教育はたったの三年半、それも軍事教練やら勤労奉仕にその何分の一かをとられて、それで卒業したのだからなんとも申し訳なく思っています。現在の代々木公園には、軍事教練で飯田橋から歩いてよく行進した。また野外訓練で富士山麓などへ、一週間ぐらい泊まり込んで演習に行った。
(中略)
 その他にも数え切れない多くの歯科医師が戦争という大きな奔流に巻き込まれ、嫌おうなしに生命をかけて戦いの場におもむき、あるものは戦死していきました。最近の戦争は国民総力戦です。戦場になれば軍人も民間人も一緒に戦うしかありません。連合国の東京大空襲だって、民間人を別にしない無差別爆撃で十数万人の国民が死にました。広島、長崎の原爆投下にしても然りです。
 私も一年は徴兵延期されましたが、結局陸軍に入り、その後、海軍の歯科医科士官になって広島の原爆投下の夜、救援活動で広島市内に入り、人類が始めて体験した原子爆弾の惨劇の現場に踏み込む羽目になってしまったのです。三日間、広島の市内を医療救援にさまよいました。真っ暗ななかから被爆者の手が伸び出て、腕をつかまれます。かすかな声で「助けてください」とつかんだ、その火傷の皮膚がぬるりと剥げてまとわりつきます。あちらこちらに、地獄の劫火のような火が燃え盛っていました。無数の死体と添い寝もして眠りました。今になって我々の医療の努力も果たして役にたったのかわかりませんが、あれからもう六十年たって一緒に広島に行った戦友たちも大分死んでしまい、残り少なくなりました。

(講演草稿より抜粋)

 さて、最近のウクライナ反転攻勢、ロシアの戦術核使用の可能性が気になって、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが1996年に著した『文明の衝突(上下巻)』(サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳、集英社、1998年→集英社文庫、2017年)を、市川市中央図書館から借りてきた。ちょうど1989年から1991年にかけてソ連が崩壊し、冷戦が終結するという出来事のあとに書かれた原著は『The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order(文明化の衝突と世界秩序の再創造)』(Simon & Schuster、1996年)である。ハンチントンは現代の主要文明として、次の8つを挙げている。

 中華文明(中国はもちろん、東南アジアなど中国以外の土地の中国人社会と共通の分化、さらにはヴェトナムや朝鮮の関連する文化を適切に表現している。)/日本文明(一部の学者は日本の文化を極東文明という見出しでひとくくりにしている。だが、ほとんどの学者はそうせずに、日本を固有の文明として認識し、中国文明から派生して西暦一〇〇年ないし四〇〇年の時期にあらわれたと見ている。)/ヒンドゥー文明(中略)イスラム文明(中略)西欧文明(西欧文明はふつう西暦七〇〇年ないし八〇〇年にあらわれたとされる。一般に学者たちは、そこにヨーロッパ、北アメリカ、ラテンアメリカの三つの主要な構成要素があると見ている。)/東方正教会文明(一部の学者は、ロシアを中心とし、ビザンティン文明を親とする正教会文明を西欧のキリスト教文明とは異なる別個の文明であると区別している。明らかに異なった宗教をもち、二〇〇年にわたるトルコの支配と官僚的専制主義を特徴とするうえ、ルネサンス、宗教改革、啓蒙思想など成功の根幹をなす歴史的経験からはごくかぎられた影響しか受けていないからである。)/ラテンアメリカ文明(中略)アフリカ文明(存在すると考えた場合)
(『文明の衝突』第一部「さまざまな文明からなる世界」66~72ページから抜粋)

 「文明」の英語civilization(シビリゼーション)は、「都市」や「国家」を意味するラテン語civitasに由来し、ローマ時代の文明は「都市化/都市生活」を意味していたという。たとえば、「文明開化」や「文明の利器」という四字熟語があるように、市民生活をより便利・快適にするための「発明(機械化→AI化)」、「効率化(費用対効果の追究)」など、「工業/進歩/向上/発展」といった意味合いが強い。
 また、「文化」の英語culture(カルチャー)は、「耕す」を意味するラテン語colereに由来し、初めは土地を耕す意味で用いられていた。たとえば、「伝統文化」「文化遺産」という四字熟語があるように、先祖代々暮らしてきた土地(土と空気)に根ざした「習慣/伝統/伝承/慣行」のような意味合いが強い。
 ハンチントンは、「日本文明」と「日本文化」の特徴を次のように述べている。

 文明の衝突というテーゼ(※命題)は、日本にとって重要な二つの意味がある。第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである。オズワルド・シュペングラー(※ドイツの文化哲学者)を含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろ(※古墳時代)だったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世紀(※十九世紀)に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれとは異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にならなかったのである。(中略)
 第二に、世界のすべての主要な文明には、二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的なつながりをもたない。(中略)そのために、日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されことになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。(※十九世紀以降の日本が)国際的な存在になって以来、日本は世界の問題に支配的な力をもつと思われる国と手を結ぶのが自国の国益にかなうと考えてきた。第一次世界大戦以前のイギリス、大戦間の時代におけるファッシスト国家(※日独伊三国同盟)、第二次世界大戦後のアメリカである。
(『文明の衝突』「日本語版への序文」11~13ページ)

 これら地政学的かつ政治力学的な考察は、「ハンチントン仮説」と呼ばれるものであるが、たとえば、ウクライナとロシアは、同じスラブ民族同士で「文明の衝突」をたびたび引き起こしていた歴史の解説とともに、「ウクライナは異なる二つの文化からなる分裂国だ」なるハンチントン仮説を披歴している。

 ロシアを別とすれば、旧ソ連の共和国のなかで人口が最大で最も重要な国は、ウクライナである。歴史上、ウクライナが独立国だったことは何度もある。だが、近代の大半はモスクワが政治的に支配する地域の一つだった。決定的な出来事は一六五四年に起きた。ポーランドの支配にたいするコサック人の反乱を指揮したボクダン・フメリニツキーが、(※ロシア)皇帝に忠誠を誓うことに同意し、その見返りとしてポーランドにたいする反乱の支援を受けたのだ。そのときから一九九一年までのあいだ、一九一七年から一九二〇年の短い期間に独立共和国だった以外は、いまのウクライナにあたる地域は政治的にモスクワの支配下にあった。だが、ウクライナは異なる二つの文化からなる分裂国だ。西欧文明と東方正教会系の文明を隔てる断層線(※フォルト・ライン)がウクライナの中心部を走っており、しかもその状態は何世紀もつづいている。かつてウクライ西部は、ときにはポーランドやリトアニアやオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったこともあった。国民の多くは東方帰一教会(※ウクライナ東方カトリック教会)の信者であり、東方正教会の儀式を行うが、ローマ教皇の権威をみとめている。
 歴史的に、西部のウクライナ人はウクライナ語を話し、民族主義的な考え方をする傾向が強い。他方、東部のウクライナ人は圧倒的多数が東方正教会系であり、大部分がロシア語を話す。一九九〇年代前半には、ウクライナ人の全人口の二二パーセントをロシア人が占め、ロシア語を母語とする人びとが三一パーセントを占めや。小中学校も、ロシア語で教育をしているところが多数を占めた。クリミアは圧倒的多数がロシア人であり、一九五四年までロシア連邦の一部だったが、その年にフルシチョフがウクライナに帰属させた。建前のうえでは三〇〇年前のフメリニッキーの決意を認めたということである。
 ウクライナの東部と西部のちがいは、そこに住む人びとの意識に如実にあらわれている。たとえば一九九二年末に、ウクライナ西部のロシア人の三分の一がロシアに対する敵意に苦しんでいると答えたが、キエフでそう答えたのはわずか一〇パーセントだった。東西の分裂が劇的にあらわれたのは、一九九四年七月の大統領選挙だった。現職のレオニード・クラフチェクは、ロシアの指導者と緊密に協力しあいながらもみずからを民族主義者と称していたが、西ウクライナの一三州で勝ち、得票率が九〇パーセントを超えたところもあった。
            (『文明の衝突』第三部「文明の秩序の出現」292~293ページ)

 このように、ウクライナ東部と西部では、ウクライナ人とロシア人の間で「文明の衝突」が何度も繰り返されてきたが、その都度、小さな紛争はあったものの、決定的な武力衝突までにはいたらなかった。

 この分裂のために、ウクライナとロシアの関係には三通りの発展の可能性が考えられた。一九九〇年代前半、両国のあいだには決定的に重要な問題が存在した。それは核兵器をめぐる問題であり、クリミア問題であり、またウクライナに住むロシア人の権利や、黒海艦隊や経済的な関係の問題であった。多くの人びとが武力衝突を予想し、そのために西欧の評論家のなかには、西欧はウクライナの核兵器保有を指示してロシアの侵略を防ぐべきだと主張する者もいた。しかし、重要なのが文明であるなら、ウクライナ人とロシア人とのあいだに武力衝突が起こるとは考えられない。両者ともスラブ人で、大半が正教会系であり、何世紀にもわたって緊密な関係を保ち、両者のあいだの結婚もごく普通に行われている。
 大いに論争を呼ぶ問題をかかえ、どちらの国にも過激な民族主義者の圧力がかかっているにもかかわらず、両国の指導者は努力を重ねて、こうした紛争の鎮圧におおむね成功している。一九九四年半ばのウクライナの選挙で、ロシア志向を明確にした大統領が選ばれたことにより、両国間の対立が激化する可能性はさらに低くなった。旧ソ連の他の地域ではイスラム教徒とキリスト教徒のあいだに深刻な争いが起こって、ロシアとバルト三国のあいだでも緊張が高まり、戦闘も勃発している一方で、一九九五年現在、ロシアとウクライナのあいだには武力衝突は事実上一度も起こっていない。
 二つ目の、もっとも実現の可能性のある道は、ウクライナが断層線
(※フォルト・ライン)にそって分裂し、二つの独立した存在となって東側がロシアに吸収されるというものだ。分離問題が最初にもちあがったのは、クリミアに関してだった。クリミア共和国は人口の七〇パーセントがロシア人であり、一九九一年十二月の国民投票では、ウクライナのソ連からの独立にたいする支持率がかなり高かった。一九九二年五月にクリミア議会はウクライナからの独立を宣言することを決議したが、ウクライナの圧力でその決議を撤回した。しかしロシア議会は、一九五四年のウクライナへのクリミア割譲を撤回すると決議した。一九九四年一月、クリミアでは「ロシアとの統合」を主張していた候補者が大統領に当選した。(中略)一九九四年五月、クリミア議会が一九九二年の憲法の復活を決議し、ふたたび媚しい局面を迎えた。その憲法は、事実上ウクライナからのクリミア独立を認めるものだったのだ。だが、このときもロシアとウクライナ双方の指導者が自制して、この問題が暴力に発展するのを防ぎ、二カ月後にロシア寄りのクチマがウクライナの(※第2代)大統領に選ばれたことにより、クリミアの分離運動はおさまった。(中略)
 三つ目のさらに可能性の高いシナリオは、ウクライナが統一を保ち、分裂国でありつづけ、独立を維持し、おおむねロシアと緊密に協力し合うというものだ。核兵器と軍隊の移転の問題が解決すれば、最も深刻な長期的問題は経済に関するものとなり、部分的に共有する文化と緊密な個人的人間関係によって、その問題の解決がうながされるだろう。ロシアとウクライナ関係が東欧にもたらすものは、ジョン・モリソンが指摘したように、フランスとドイツの関係が西欧にもたらすものと同じだ。校舎が欧州連合の核をなすのとちょうど同じように、前者は正教会系の世界の統一に不可欠な核なのである。
(『文明の衝突』第三部「文明の秩序の出現」294~297ページ)

 フォルトライン(faultline)とは、fault(断層)とⅼine(線)からなる言葉で、ハンチントンは「文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)での紛争が激化しやすい」と主張している。近年、「一路一帯」路線の推進、「台湾併合(一つの中国化)」、尖閣諸島の中国領有権主張(台湾も領有権を主張)、東シナ海への海洋進出を目論む中国(中華人民共和国)と、島根県竹島(韓国名は独島)を実効支配する韓国や、日本のEEZ(排他的経済水域)周辺に長距離ミサイルを毎月のように打ち込んでくる北朝鮮、そして日本の北方領土を戦後78年の現在もなお一方的に領有・占拠しているロシア、もちろん2022年2月、特別軍事作戦と称してウクライナに侵攻したロシアの暴挙についても、27年前、ハンチントンが予言した『文明の衝突』(ハンチントン仮説)を、現在の世界情勢に照らし合わせながら再読してみたい。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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