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連載「つたえること・つたわるもの」151

「ようこそ」⇒「めんそーれ」「んみゃーち」「おーりとーり」

連載 2022-12-28

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先日、二泊三日の「宮古島五島めぐり」ツアーに、妻と二人で参加した。いちばん大きな宮古島、南西部の来間大橋(1992年開通、1,425メートル)経由で来間(くるま)島、北西部の伊良部大橋(2015年開通、3,540メートル)経由で伊良部島と下地(しもじ)島、北部の池間大橋(1995年開通、1,690メートル)経由で池間島をめぐる観光バス周遊の旅は、あいにくの曇り空だったが、それでもエメラルドグリーンの海の色と白い珊瑚礁、目の前に広がる美しい砂浜など、南国情緒あふれる景色を楽しむことができた。

 さて、初日の観光バス。東京からの添乗員Mさんが「沖縄本島では歓迎の〝ようこそ(ウエルカム)〟は〝めんそーれ〟ですが、ここ宮古島の〝ようこそ〟は表現が違うんです」と挨拶して、観光バスの地元女性ガイドYさんにバトンタッチ。そして、Yさんが宮古語(方言)で歓迎の挨拶をしたのだが、初めての宮古方言は私の耳にはチンプンカンプン。あとで沖縄方言の資料を調べてみると、〝んみゃーち〟であった。同じ資料に石垣島など八重山地方では、これが〝おーりとーり〟となると書かれていた。〝めんそーれ〟の語源には諸説があるが、日本の古語(日本祖語、日琉祖語ともいう)から分岐したもので、本土方言の「参り召(め)しおはれ」、「参り候(そうら)へ」をあらわす琉球方言である〝めんそーれ〟の、〝めん〟は「召す」、〝そーれ〟は「候(そうら)へ」が訛った形であるとする説が有力らしい。

 沖縄の人は自分たちを〝うちなんちゅ〟と言い、日本本土の人を〝やまとんちゅ〟と呼ぶ、あるいは奄美群島から琉球諸島にかけて歌われる民謡を「島唄」という、くらいは知っていた(つもりだった)。

 しかし、先週、市川中央図書館から借りてきた『沖縄語をさかのぼる』(島袋盛世著、白水社、2021年)をひもとくと、たとえば沖縄本島の〝めんそーれ〟だけでなく、宮古島の〝んみゃーち〟、石垣島の〝おーりとーり〟も同じ意味を持つ沖縄方言のひとつであることが、とてもよくわかった。同書には、「沖縄の人」「日本本土の人」の沖縄語表現や微妙な発音が、わかりやすく解説されている。

 沖縄語では「人」を「っちゅ」cchuという。「海んちゅ」【漁師】や「やまとぅんちゅ」【日本本土の人】、「うちなーんちゅ」【沖縄の人】などという表現を聞いたことがあるのではないだろうか。他の語に続いて「~の人」とする場合、「っちゅ」cchuの語頭の「っ」は発音せず、「ちゅ」chuとなる。沖縄を訪れる観光客を歓迎しようということで、最近メディアで「ウェルカムんちゅ」という表現をよく聞く。名詞に「んちゅ」を加えると簡単に新語ができあがるというわけである。
(『沖縄語をさかのぼる』第2章「琉球諸語の多様性」82~83ページ)

 また、「島唄」の「しま(島)」は、島嶼(island)のほかに、村落(village)や縄張り(territory)の意があって、それぞれの「しま」で伝えられてきたことばを「しまぐち(島口)」といい、「しまぐち」で歌われる「うた(唄)」が、本来の「島唄」(島嶼の歌でなく、村落=しま社会の歌である)の意味であるという。なるほど、「しま」が違えば、ことば(しまぐち)も変わる。(※)は原山の補足説明(以下同じ)。

 沖縄では集落や部落のことを「しま」というが、「しま」の数だけ「ことば」があるといっても過言ではない。
 かつて沖縄には多くの「しま」があった。「いったー しまーまーやが?」【君の故郷はどこか?】という会話が日常でよく聞かれた。「しま」には独特のことばが話されており、それを「しまくとぅば」または、一般に「方言」という。「しま」が違えば「くとぅば
(※ことば)」も違うといわれるほどの多様性があった。社会が大きく変化した今日では「しま」の統合や人口の流動を経て消えてしまった「しま」もあるが、「しまくとぅば」の多様性は今日でもみられ、非常に興味深い。
(『沖縄語をさかのぼる』第2章「琉球諸語の多様性」63ページ)

 やはり同書によれば、鹿児島県の奄美群島から沖縄諸島、先島諸島(宮古諸島、八重山諸島、最南端は与那国島)まで、〝ありがとう(ございます)〟の方言(しまぐち)は、それぞれ次のようになる。

○奄美語 奄美大島 おぼこりょーた(「ありがたさま」「ありょーた」とも)/喜界島 うーがんでた/徳之島 おぼらだれん
○国頭語 沖永良部島 みへでぃろ/与論島 とーとぅがなし
○沖縄語 今帰仁(なきじん:沖縄本島北部) かふーし(「にへーでーびる」とも)/伊江島(沖縄本島北西部の島) にふぇでーびる/那覇(沖縄本島南部) にふぇーれーびる
○宮古語 来間島(くるまじま) たんでぃがーたんでぃ/多良間島 すでぃがぷー
○八重山語 石垣島 にふぁいゆー/竹富島 みーはいゆー
○与那国語 与那国島 ふがらさ

(『沖縄語をさかのぼる』第2章「琉球諸語の多様性」64ページ)

 この中では、沖縄語の伊江島(にふぇでーびる)と那覇(にふぇーれーびる)、八重山語の石垣島(にふぁいゆー)と竹富島(みーはいゆー)では類似語句を用いた表現となっている。しかし、宮古語においては、宮古島・来間島(たんでぃがーたんでぃ)と多良間島(すでぃがぷー)では異なった表現が用いられており、それを宮古島・来間島と67キロメートル離れた多良間島の「しまぐち」の違いとみるか、あるいは宮古島、多良間島それぞれが育んできた文化の多様性のあらわれとみるか、とても興味深い問題である。

 もうひとつ、観光バスの車内で、バスガイドのYさんが「みなさんよくご存じの、沖縄を代表する歌です。手拍子とともにご唱和ください」と言って、「安里屋ユンタ」を歌い始めた。私も少しだけ知っている歌だったので、Yさんの手踊りにあわせて手拍子を打ちながら、リズムを合わせて、いっしょに歌った。

 私たちがよく耳にする「安里屋(※あさとや)ユンタ」は標準語(やまとんちゅ)で書かれた歌詞で、1934年、八重山の詩人・星克(ほしかつ)さんが標準語で作詞し、やはり八重山出身の作曲家・宮良長包(みやらちょうほう)さんが前奏を加えて編曲して、日本コロンビアからレコード化されたもの。その元歌は、八重山地方の竹富島に伝わる歌詞(八重山語)が純正版(地元版)「安里屋(※あさどぅや)ユンタ」である。沖縄県立芸術大学音楽学部名誉教授・金城厚(かねしろあつみ)さんは、高著『沖縄音楽入門』(音楽の友社、2006年)の中で、新旧「安里屋ユンタ」における歌詞の語調(音数)や歌い方を比較して書いている。

《安里屋ユンタ》
 君は野中の いばらの花か(七・七)
   サーユイユイ
 暮れて帰れば ヤレホニ 引き留める(七・五)
   マタハーリヌ チンダラカヌシャマヨ
沖縄の民謡として日本じゅうでいちばん知られている曲といえば、これだろう。観光みやげの置物やのれんにも歌詞が染めてある。戦前から全国的に広まって親しまれていたというから、歴史的にも先駆者である。

ところで、この歌の歌詞はご覧の通り全くの標準語で、沖縄の方言ではない。歌詞の字数も純日本風というか、七七七五調の都々逸の形式である。

(『沖縄音楽入門』第四章「島々の歌」112ページ)

 元歌の「安里屋ユンタ」は、琉球王国時代に竹富島に実在した絶世の美女、安里屋クヤマ(1722年~ 1799年)に、目差主(下級役人)が現地妻になれと言ったが、クヤマはそれを断った。琉球王府から派遣され、クヤマにひと目惚れした下級役人とのやりとりを面白おかしく唄ったもので、もともとは農作業の中で歌われた労働歌だという。さて、八重山に古くから伝わる純正「安里屋ユンタ」の前半部分をみてみよう。

《安里屋ユンタ》(地元版)
一、男 サー安里屋(あさどぅや)ぬ くやまに ヨ(五・四)   →安里屋家のクヤマは
  女 サーユイユイ
  男 あん美(ちゅら)さ 生(ま)りばし ヨ(五・四)    →あんなに美人しく生まれた
  女 マタハーリヌ
(※お囃子ことば)
  男 ツィンダラ(※かわいい) カヌシャマ(※愛しい人) (※二番の歌詞は省略)
三、男 サー目差主(めさししゅ)ぬ 乞(く)よたら ヨ(五・四)→目差さま(下級役人)が求婚したら
  女 サーユイユイ
  男 与人親(あたりょ)やぬ 望(ぬず)みょた ヨ
(五・四) →更に上の役職(与人親)を望んだ
  女 マタハーリヌ
  男 ツィンダラ カヌシャマ ヨ
(※同書では、四番以降の歌詞は省略されている)
 まず、言葉が標準語と方言とで違い、音数も七七七五調と五四調とで全く違う。広く知られた新民謡の「君は野中の……」では三線(さんしん)の伴奏があり、歌い手一人が主要な部分をすべて歌ってしまい、繰り返し部分だけハヤシ手が加わる。また、前奏や間奏もある。これに対して、地元で昔から歌われている「安里屋のくやまに……」では、三線は使わず歌声だけで歌う。また、大勢で声を揃えて歌っているが、細かく言えば二グループに分かれて交互に歌い合っている。(中略)
 ここには、「みんなで歌う歌」「みんながいっしょに協力・分担してはじめて歌える歌」から、「ひとりだけがかっこよく歌う歌」への変化がある。生活の場の歌としての民謡から、舞台の上でスポットライトを浴びながら歌う大衆歌曲への変質がある。八重山諸島の歌には、こうした歌の音楽的発展とか社会的変質の問題が凝縮された形で現れている。
(『沖縄音楽入門』第四章「島々の歌」113~116ページ)

 さて、宮古島ツアーの最終日は、宮古島最東端に位置する平安名崎(へんなざき)灯台。東側に太平洋、東に東シナ海、360度の眺望がすばらしい。しかし、もっと驚かされたのは「マムヤの墓」と呼ばれる津波岩。この岩は1771年4月24日(明和八年3月10日)、石垣島近くで発生した地震による「明和の大津波」によって、海面から(標高)20メートルの高さまで打ち上げられた巨岩である。

 そして、「マムヤの墓」には、「安里屋ユンタ」のクマヤと同じような伝説がある。東平安名崎近くの保良村(ぼらそん)に住んでいたマムヤは、宮古上布の機織りも上手な美女だった。当時の宮古島は按司(あじ)と呼ばれる豪族が権力を握っていた時代で、すでに妻子のいる「崎山の坊」という按司の第二の妻となったマムヤだったが、最終的には捨てられてしまう。絶望したマムヤは、「神さま、私が美しかったゆえに、こんなつらい苦しい思いをしました。どうかこの保良の村の娘にこんな悲しい思いをさせないように、美しい娘が生まれないようにしてください」と祈ると、平安名崎の岬の断崖から身を投げたという悲しい物語である。

 バスガイドのYさんはまた、少し厳しい表情で「宮古島の人たちの心配の種は、干ばつと台風です。雨は梅雨の時期と台風のときだけ、いちどきに降ります。あとの期間は日照り、渇水が続きます。宮古島は平たんな地形で、降った雨はすぐ海に流れてしまいます。雨をもたらす点では少し助かりますが、瞬間最大風速70メートル、1時間降水量50ミリメートル、台風の被害は本当に怖いです。かつての先島諸島(※沖縄本島の先にある島々。宮古列島と八重山列島)は、人頭税(※15歳から50歳までの人たち全てに課せられた税。男性は穀物を、女性は織物を決められた数、納めなければならない)に苦しめられてきました」と言ったあとで、「でも、いまの宮古島には3本の大橋がかかり、5つの島がつながりました。旱魃対策としては世界初の地下ダムが完成しました」と誇らしげに語って、少し表情をやわらげた。

 沖縄の本土復帰、1972年5月15日から50年7カ月、私たち「やまとぅんちゅ」は、はたして沖縄諸島の「うちなーんちゅ」たちが大切に伝えてきた、〈しまぐち(沖縄方言)〉や〈しまうた(沖縄の民謡や労働歌)〉などに代表される沖縄(琉球)文化のダイバーシティ(多様性)をきちんと受け止めているだろうか。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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