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連載「つたえること・つたわるもの」(53)

臭いものに蓋をする、触らぬ神に祟りなし、見て見ぬふり。

連載 2018-11-27

 最近の不祥事では、芸能事務所社長が部下の社員(当時。その後退社)の顔を、沸騰する鍋の中に無理矢理突っ込ませるというパワハラ事件があった。記者会見のテレビ中継で、ある記者が元社員に対して「(録画では)あなた自身も、3・2・1とカウントダウンしていたよね」と、その場を盛り上げるために、自分の意志で鍋の中に顔を突っ込んだかのような、誘導質問を発していた。質問した記者に、大喝!

 パワハラといえば、この5月に起こった日大アメフト部、宮川泰介選手の悪質タックル事件だが、これを指示されたと主張する宮川選手と、指示していない(勝手に自分でそう思った)という内田正人監督・井上奨コーチ(いずれも当時)の言い分は、いまもまだ平行線(日大は監督・コーチ退職処分、警視庁は宮川選手を書類送検・監督・コーチは不起訴)である。この問題は相手チームの選手に怪我を負わせた宮川選手が、自ら記者会見で気持ちを正直に吐露しなければ、「闇から闇へ」葬られていたにちがいない。

 『空気の研究』(山本七平著、文春文庫、1983年)の冒頭に、教育雑誌の編集員から意見を求められた山本さんが、道徳教育についての考えをひと通り話したあと、「日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明からはじめればよいと思います」と述べると、編集員は「そ、そそ、そんなこと、そんなことを言ったら大変なことになります」とうろたえた。そして「第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」と答えた、などのやりとりが書かれている。

 大変面白いと思ったのは、そのときその編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意志決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてではなく、「空気」に適合しているからである。採否は「空気」がきめる。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。ひとは、空気を相手に議論するわけにいかないからである。(中略)至る所で人びとは、何かの最終決定者は「人でなく空気」である、と言っている。
(同書一四~一五ページ)

 昔から、本来はよい意味でないが、暮らしの方便として用いられた、臭いものに蓋をする、触らぬ神に祟りなし、見て見ぬふりだけでなく、長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰などの常套句もある。

 つまり、「人でなく空気」を大切にしてきた私たち日本人は、いつも「空気」の中に身を潜めながら、自らは責任を取らない、顔も名前もない傍観者のひとりとして生きてきた。弱い者や虐げられた者に対しては、陰で庇ったり援助したりしても、表立っては行動してこなかった。これからの時代は、きちんと自分の顔を出し、はっきりと名前を名乗って、きちんとものが言える人間が求められている。

 そのためには、いまの「空気」から一歩踏み出す、ほんの少しの「勇気」が必要である。

 『論語』(為政)にあった「義を見て為ざるは、勇無きなり」という言葉を、しっかり噛みしめる。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう) 
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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