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連載「つたえること・つたわるもの」(162)

ラポールをもてる人、自然体の良医、徳永進さんのホスピスケア。

連載 2023-06-14

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先週(6月9日)の文教大学(湘南校舎)オープン・ユニバーシティ『遠藤周作の遺言――「心あたたかな病院」がほしい その1』第4回講座では、何度もの手術と長期入院を余儀なくされた作家、遠藤さんが『中央公論』(1982年7月号)に寄稿した『日本の「良医」に訴える』のなかから、次の六項目をとり上げた。

1.医師は診察の折、患者の病気の背景にはその人生を考えてほしい
2.患者は、普通の心理状態にないことを知ってほしい
3.無意味な屈辱や苦痛を患者に与えてくださるな
4.入院している患者の、夜の心理をもっと考慮してほしい
5.心療科の医師を、医療スタッフに加えてほしい
6.患者の家族の宿泊所や休憩所がほしい

 これらの訴えは、患者のプロを自認する遠藤さんの実体験から出たものだが、それはキュア(治療)やケア(看護・介護)される側(患者とその家族)から、患者をキュア・ケアする側(医師や看護師をはじめとする病院スタッフ)に向けられた「してほしい」という「願い(要望)」の視点である。そしてたとえば、患者をキュア・ケアする側(医師や看護師、病院)からの視点については、やはり読売新聞夕刊(1982年4月1日号)に寄稿した『患者からのささやかな願い』のなかで、ある医師から聞いたことばを紹介している。

 私の知っている一人の医者は医師に風あたりが強かった一時期、こう、しみじみと私につぶやきました。
「でもねえ、遠藤さん。医者のよろこびがわかりますか。それは自分が治療した患者が全快して、家族に連れられ退院していくのを窓から見おろしている時です。――ああ、よかったというあのよろこびは、医師でないと味わえないのですよ」
私もそうだろうと思いました。

(「患者からのささやかな願い」第1回、『讀賣新聞』1982年4月1日掲載)

 この医師のいう「医者のよろこび」そのものにはもちろん、異論はない。しかし、その病気が治る患者の主治医ではなくて、それが治らないかもしれないがんや重い慢性疾患の患者の主治医であったら、この医師がつぶやく「医者のよろこび」ではなく、「医者のかなしみ」になってしまうのではないだろうか。
かつて「全快(病気の治癒)」こそが医師(近代医学)の「勝利」であり、「死(究極の悪化)」は医師(近代医学)の「敗北」である、と考えられていた時代があった。しかし、いま、「治らないかもしれない(がんや難病)」患者のターミナルキュア&ケアを「よろこんで」引き受けてくれるホスピスケア(大きな病院のホスピス緩和ケア病棟に入院するのではなく、医師や訪問看護師が自宅に訪問し、患者の苦痛状態をやわらげたり、精神的支援や環境の整備を行ったりするケアのこと)が求められる時代になった。

 鳥取市にある、ホスピスケアを行う有床診療所、「野の花診療所」を2001年に開設した徳永進さんが、まだ勤務医(鳥取赤十字病院の内科部長)だったころ、かつて私が在籍していた『わたしの健康』(1983年1~12月号)に、医療コラム『形のない家族』(のちに思想の科学社から出版)を書いていただいたことがある。あれから40年後のいま、もう一度、その原稿を読み直してみると、その当時、すでに「キュア・ケアする側」から「キュア・ケアされる側」に向けられる、いわば一方通行の医療(キュア・ケア)ではない、患者とその家族だけでなく、医療者(医師や看護師など)も含めて、まるごと包み込んだ「形のない家族」という、医療におけるラポール(患者と医療者の間に形成される信頼関係)の世界が広がっていたことがわかる。

 40年前といえば、遠藤周作さんが1982年に提唱した「心あたたかな病院(医療)がほしい」キャンペーンが始まった翌年であり、私の心はいま「あのとき、遠藤さんと徳永さんとの対談をやっておけばよかった」という後悔の念に駆られている。たとえば、徳永さんがいま「野の花診療所」の二階(19床のホスピスベッド)と午後からの訪問診療という、二本立てホスピスケアこそが、遠藤さんが求めていた『日本の「良医」』が実践する「心あたたかな病院(医療)」のひとつである、ということにいま、改めて気づかされた。

 この半月の間に、徳永さんの著書を23冊(4冊の蔵書+市川市図書館から17冊+松戸市図書館から2冊)、一気に読んだ。その一冊、一冊から、その一行、一行から、「がんなどの治らない病い」を抱えた終末期の患者、その家族との間に「心あたたかなラポール」を築いた医師、看護婦などの医療者が双方向に向き合う、ターミナル臨床における徳永さんたち医療チームの緊迫した息づかい、やさしい思いが伝わってくる。
徳永さんの著書23冊のなかから、私の心を揺さぶったエッセイの一部を、いくつか抜粋してみよう。

 『話しことばの看護論――ターミナルにいあわせて』(徳永進著、看護の科学社、1988年)の「ラポール」を読む前に、「ナースコール」の回数によっては、悪魔にも天使にもなるという「あとがき」の話から。

話し言葉は耳にやさしく響きながら、意外とことの本質や本音をズバッと表現できるのだな、と感じた。
「誰でも天使なんですよ、ナースコールが三回までなら。でもほんとは、悪魔なんです。ナースコールが一〇回もなったら。臨床にいると、そのことが誰にもわかる」。

(『話しことばの看護論』「あとがき」223ページ)

ラポール
 神にはなれなくても、目の前に立っているあるいは横たわっている患者さんに、できるだけのことをしてあげたいと医療者であるぼくらは思いますね。でもそのことがなかなかできないんですね。今まで見も知らなかった人に対して、ただ病気をしているという理由だけでは、ぼくらの心も素直に流れていくというわけにはいかない。

 でも不思議なことに、素直に流れない心がスーッと流れることがあるんですね。病室でゆっくりと座って話し合ったということがきっかけになることもあるし、地縁や血縁ということもあるし、一目見てということもあるし、ひとつの言葉でということもあるわけですね。そして何がきっかけであっても、それからは、お互いの心が流れ合って、いい雰囲気ができあがっていく。末期医療のときなどには、そのことがとても大切になります。

 その心の流れ、信頼、そのことをラポールというのだそうですね。ラポールがもてるかどうか、医療者はそのことを問われているのでしょうが、いまだに問いとして心のなかにあり続けています。目の前にいるどんな人もラポールをもてる人が神なのかもしれませんね。目の前にいるどんな病人にもラポールをもてる人を医療者と人びとは呼ぼうとしているのかもしれませんね。でも、医療の場で実際に働いている者としては、病棟の患者さんのうちのたとえひとりに対してでもラポールを感じたいとおもっているというふうにしかいえませんね。

 病棟に五〇人の患者さんがいるとしたら、五〇分の一の神になることができたらというのが本音ですね。「愛されることなしに、愛することができる」、まるで片思いの定義のようにも思える定義が、神を定義しているところが面白いですね。医療者は神に一番近い所で、毎日仕事をしているのかもしれませんね。ただ、そのことに気がつかないだけでね。

(『話しことばの看護論』第一章「臨床現場に光る形容詞」26~27ページ)

 やはり『話しことばの看護論』に、医療者が患者さんを励ましながら、じつは励まされたのは医療者だったというパラドックス、「急がば回れ」「負けるが勝ち」という、矛盾するように見える二つのことが、じつは二つとも正しいことであるように、医療者はターミナルの臨床を通して「成長」するのだ、と書かれている。

成長する
 患者さんを励ましながら、結局、教えられ、支えられ、励まされたのは医療者であったというパラドックスを大切にする。そういうパラドックスのなかで医療者は成長する。

「成長」というのは、ぼくらのテーマです。成長というのは身長が伸びることではなく、年齢が増すことでもないですね。成長とは何でしょうね。ひとつは、受容力が伸びることでしょうか。現場でいろいろなことが起こっている、そのことの全体がみえて、その人が悲しい顔からうれしい顔に変われるようにしていける力というのが、ぼくたちの成長でしょうね。

 成長を可能にするのは何かというと、ほかの人とのかかわりが必須ですね。部屋を閉め切ってベッドに寝ていて五〇年たって自分は成長するのかというと、それでは成長しない。人間がヒヤシンスと違うところでしょうね。成長するためには窓を開け戸を開けて外に出て人と交わっていく。つまり国でいえば貿易でしょう。貿易をしない限り、ぼくたちは成長しないと思います。そのためにずい分傷つき、痛めつけられるということになるかもしれない。そしてもうひとつ、成長というのは自分が自分を面白いというふうに思えていくことでしょうね。成長というのは医療者のそしてケアそのもののテーマなんです。でも、成長とは何かというと、やっぱりぼくには全体像がまだとらえられていないっていう感じですね。

(『話しことばの看護論――ターミナルにいあわせて』「ターミナルの言葉」22~24ページ)

『看取るあなたへ――終末期医療の最前線で見えたこと』(徳永進ほか著、河出書房新社、2017年)には、 高校時代から気に入っていた、中国の詩人、陶淵明の漢詩「人生無根帶 飄如陌上塵」(人のいのちなんて、しっかりとした根があるわけでもなく、ちょっとした風にも散ってしまう路上の塵のようなものさ、の意)の無常感に惹かれた徳永さんが、「死生観」と「死生感」は違う――と書いている。

「死生観」と「死生感」(前半省略)
 死生観が全くないわけではないが、自分でもそれって当てにならない、と思う。死生観って、戦争を体験せず、平和の中を生きることを可能にさせられた他人まかせの世代(※徳永さんは1948年生まれ)にとっては、そんなもんではないか。ただ、死生感となると少し違ってくる。四三年間臨床にいて、目の前の、一人一人が違う死から、それぞれのことを感じ、教えられてきた。しっかりとした死生観を持っておられるが故に、揺らぐことなく、死をくぐり抜けられた人もある。死生観なんぞおくびにも出さない人でも時に飄々と、時に堂々と死をくぐっていかれる人もある。それぞれの死が一つ一つのことを教えてくれた、と思う。そのことでぼくの死生感は養われた。養われはしたがそれで何かが出来上がった、ということにはならなかった。

 臨床での死に出会うたびに、違ったことを教わる。その都度、死生感は違った世界に足を踏み入れる。いや、違った世界へぼくを運んでくれる。その繰り返しだ。死生観は確立されないまま、死生感が海の中の海草のように揺らぐ。それでいいか。どのいのちにも、死ねる力があるのは、ほんとうのことだから。

(『看取るあなたへ』「死生観と死生感」127ページ)

いちばん驚いたのは、『野の道往診』(徳永進著、NHK出版、2005年)にあった、教会や神社ではなく、本来は医療施設である野の花診療所で挙げた、終末期患者の息子の「結婚式」。もちろん、実話である。

 安田ツトムさん、59歳。肺がんで骨転移、肝転移、皮膚転移がある。彼の奥さんから、「北陸の小松にいる二男に好きな人がいて、結婚を決めているのですが、夫のいのちはそんなに長くないと思うので、早めに挙式をしたいと思っています」と相談を受けた徳永さんは、「確かに早いほうがいい」と答える。

 その二週間後の日曜日、診療所二階にあるラウンジに、安田さんの奥さん、小松から二男の運転する車でやってきたフィアンセとその両親と姉が集まって、結婚式の日取りを相談している。徳永さんは、「今日が結納の日なので、8月下旬の大安の日曜日、大丈夫でしょうか」と、奥さんから相談を受ける。そこまで安田さんが生きていられるのは難しい、と思った徳永さんは「なるべく早いほうが…」と答えた。

 すると奥さんは、「もう少し皆で相談してみる」と、みんながいるラウンジに戻った。

 ぐるっと回診をすませた徳永さんが、再びラウンジに戻ってみると……、

「シーツの道」(前半省略)
「先生、決めました。結婚式、きょうすることに」と奥さん。「どこで?」と聞くと、「ここで」と先方のご両親。「いいですよ」とぼく。「何時から?」と尋ねると、昼食を皆で一緒にして、貸衣装屋さんが友だちだから、「2時、午後2時から」と奥さん。

 このニュースはすぐに詰所のナースに届いた。「えっ、結婚式? ここで? すごーいい! すてき! よーし、やろ、やろ」

 看護師さんたちの表情は一変した。動きが急に機敏になった。ティッシュペーパーで花飾りをつくり、ラウンジのカーテンをきれいにアレンジし、テーブルクロスを用意し、花吹雪をつくり、ロウソクを用意し、そうだ、ピアノの演奏者に連絡してと、そうそうウエディングケーキを注文しなきゃあ、それにお花、これは先生に頼んじゃおっ、てな具合だった。いつもこれくらい動いてくれたら、なんて思わないわけじゃなかったけど、みんな、勝手に豹変していった。
(中略)
2時が来た。

 ピアノ曲がラウンジから流れ始めた。日曜日で見舞客が多く、廊下はまるで祭の日の沿道のようなにぎわいとなった。結婚行進曲が流れ始めた。エレベーターのドアがあいた。純白のウェディングドレスの花嫁。灰色の縞模様に身を固めて好青年の新郎。看護師さんがベッド用シーツを折りたたんで、何枚かつなぎ合わせたバージンロードを二人が歩って来た。花吹雪が舞う。ラウンジにはすでに安田ツトムさんがベッドのまま運ばれて待ち受けている。

 曲がりなりにも神前結婚。三々九度も「誓いの言葉」もケーキ入刀もあった。みんなで『夏の思い出』を歌った。新婦のご両親も突然の結婚式に感謝の気持ちを述べられた。看護師さんたちは異口同音に述べた。「この場で、この時を共に過ごせることがうれしい」。いじわるなぼくは、「いつもはどうだっていうんだよ!」と独り言。

 ツトムさんが聞き取りにくい声だったがお礼を一言。「みなさん、ありがとう。これからも、未熟な、二人を、よろしく」。会場、そして沿道から拍手が起こった。花束を手に新郎新婦は再びバージンロードを歩き、そしてエレベーターに乗らず、お父さんの病室へ向かった。

 先に病室に戻っていた安田ツトムさんは泣いていた。安田さんの目に、息子と花嫁の美しい姿はくっきりと残ったようだった。

 不思議な結婚式だった。自然に発生した結婚式。二人が歩った自然にできたシーツの道。二人はシーツの道を忘れないだろう。安田ツトムさん、10日後、他界。

 (『野の道往診』「シーツの道」99~103ページ)

 遠藤周作さんが「病院はチャペル(新しい教会)である」と願った、光り輝く天上の世界に向って、看護師さんたちがベッド用シーツで作った真っ白な「シーツの道」は、どこまでも真っすぐにつづいている。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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