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連載「つたえること・つたわるもの」147

からだがゆるされて動いているか! こころの呪縛を解き放つ。

連載 2022-10-25

出版ジャーナリスト 原山建郎

今夏から、「少人数制 ヨガ&気功」教室(市川市・国府台市民体育館、週1回)を受講している。

 インストラクターの豆澤慎司さんは、ハッピネス(幸福)=「ハピ」と、コロリ(ある日、苦しまずにコロッと最後を迎える)=「コロ」を提唱する「ハピコロヨガ普及会」会長で、ヨガインストラクター、少林寺気功師、中医師(中国政府の認定を受けた中国伝統医学の治療師)などの資格をもっている。

 前半は「動功(からだを動かすことで気を循環させる気功=外気功)」で気のエネルギーを練り、後半は「ヨガ」の呼吸動作でからだをゆるめ、そして最後は「静功(からだを動かさずに気をイメージでコントロールする気功=内気功。座禅、瞑想)」を行って、からだとこころをほどよく調える75分間のエクササイズである。

 かつて西野塾(西野流呼吸法を学ぶ稽古場)の塾生であった私は、教室がはじまる前の10分間、「華輪(からだをゆるめる準備体操)」と「天遊(足裏から吸った息を、背骨を通して頭のてっぺんまで吸いあげ、その息を丹田に収めたのち、再び足裏に吐き下ろす足芯呼吸)」を実習し、息(呼吸)と身(からだ)を調える。

 今回の「ヨガ&気功」を〝気〟のエネルギーを巡らせるイメージで行うと、手のひらが温かくなり、手のひらに「気」のボールが乗っている感覚がある。西野流呼吸法の創始者・西野皓三さんが「手は〝気〟のセンサーである。呼吸法を通して〝気〟を感知する手をつくる」と言われたことを思い出した。つまり、自分の力で〝気〟を出すのではなく、足裏(足芯)から吸いあげた(地の)〝気〟と、頭のてっぺん(百会)に降りそそぐ(天の)〝気〟のエネルギーが、滞りなく循環する「手(=からだ)」をつくる。私たち人間(あらゆる植物も動物も)は、天と地を循環するエネルギーによって生きている。「呼吸」を通して〝気〟のエネルギーをチャージして、いまここに「息(生き)」ている、その幸せを改めて感じることができた。

 ヨガ実習の最後は、究極のリラックス法である「死体のポーズ(シャヴァアーサナ)」の実習。仰向けになり、両手をからだの脇に伸ばす。手のひらを天井に向け、肩の力を抜き、あごを引いて軽く目を閉じる。からだ全体の重さを地(地球)に任せ、鼻から自然呼吸をしながら、全身をゆるめる。このとき、CDプレーヤーから、鳥のさえずり、森の葉擦れの音が流れ、自然とひとつになった「私という自然」がそこにいる。

 「私という自然」をなんとかイメージしようと力んでいた私のこころに、野口体操の創始者・野口三千三さんが名著『野口体操 からだに貞(き)く』(柏樹社、1977年)で放った名言、「お前は自分のからだが本当にゆるされて動いているかな、と対話しながら……」ということばが浮かんだ。野口さんは、からだの動きと「やまとことば(日本の話しことば=からだことば)」の発音体感から、「ゆるめる」から「ゆるす」を、「ほぐす」から「ほどけ(ほとけ)」のはたらきに注目している。

 ヤマトコトバには固有の文字がない。(中略)
それはともかく、私たちの先祖は、漢字が入ってきて初めて文字を持ちました。(中略)
そのようにして漢字が入ってきて、それから、ひらがな、片仮名がつくり出された。この能力がまたすばらしいと思います。漢文訓読なんていう、外国語を外国文字で書いたものを、そのまま日本語にして読んでしまう方法の発明なんて、どんなウルトラCよりも飛び離れた離れ技です。そんなわけで、古代からのヤマトコトバを一応記録することができるようになった。この記録されたヤマトコトバがまた面白いんです。からだとの対話にはどうしてもこれをやらなくてはならない。
たとえば、からだを「ほぐす」というコトバを使う。「ゆるめる」「ゆるす」というコトバを使う。「ゆする」というのがある。

 ゆする、ゆるめる、ゆるす。これは語頭に「ゆ」があるのが共通で、次が違っているけれども、ヤマトコトバでいうと同根なんです。「ゆるす」――お前は自分のからだが本当にゆるされて動いているかな
(※太字表記は原山。以下同)と対話しながら、ゆるすという感じを味わうわけです。そうすると、ゆする、ゆるめるという感じのつながりも当然見えてくるんです。「さらす→じゃれる→しゃれる」なんて面白いですね。私の体操(※野口体操)の大事なイメージの一つです。
(『野口体操 からだに貞く』「Ⅲ からだとことばの探検」89・91ページ)

 豆澤さんは、私たち(受講者の多くは高齢者)に対して、つねに「決して無理をしないでください。気持ちがよいと感じる範囲内で動いてください」と声をかける。ひとつは、できれば楽をしたい「からだ」に無理を強いるのは、少々つらくても上手なポーズをと欲張る「こころ」の命令であり、もうひとつは気持ちよいと感じる「からだ」の感覚、痛いことが嫌いな「からだ」の声に耳を傾ける「こころ」のやさしさである。

 やはり、野口三千三語録に「(自分の)からだはいちばん身近な自然」がある。人間(自分)と自然(地球環境)との関係は、たとえば「自然と人間との共存」というステレオタイプの対立概念ではなく、「私という自然」が「地球環境という自然」と相関連動(相互にかかわり、つらなってうごく)・相関相補(相互にかかわり、相互に補いあう)しながら、ひとつの宇宙(地球環境)のなかで融け合うことではないだろうか。

 「お前は自分のからだが本当にゆるされて動いているか」ということばは、より強く豊かな生活をめざす「向上心」という名の「こころ」が、気持ちのよい息(自然呼吸)によって「私という自然」な生き方をしたい「からだ」をがんじがらめに絡めとり、身動きのとれない状態になってはいないかという問いである。

 学芸総合誌『環』(vol.7、藤原書店、2001年)の特集「歴史としての身体」に、「身体感覚をとり戻す」(演出家・竹内敏晴/小児科医・山田真/教育学&身体論・斎藤孝。問題提起と討論)が載っている。サブタイトルには、「身体の何が問題なのか? 何が失われているのか? それをいかにとり戻すことはできるのか?」という問いがあり、「私という自然≒ナチュラルな身体感覚」をとり戻す試みがテーマになっている。
そのなかから二つ、「ことばを話すことがからだの問題」(竹内敏晴)と「医療における身体」(山田真)に書かれている、「失われている身体感覚」の例をいくつか紹介しよう。

 まず、「子どものからだがかなり追いこまれている」と危惧する竹内さんの問題提起、「哺乳類で四つんばいの姿勢をとると、本来ぶら下がるはずの背中が、子どもたちのからだでは、どの背中も持ち上がっているのはなぜか?」「歯を閉じたまましゃべる子が増えているのはなぜか?」という二つの問いから。

 二つ気になっていることがあります。ここ十年ばかりやっているんですが、若い学生に四つんばいになってもらい、背中がどうなっているかを見ています。先日もある高等学校で授業をしたのですが、そのときにも彼らの背中を見てみました。人間は哺乳類ですから、本来、四つんばいになると背中はぶらさがる。ところが彼らの背中は持ち上がっているんです。背中が持ち上がっているのは、十年ぐらい前だと、女の人だと十人に一人か二人、男で二、三人いたかなというぐらいだった。ところが二年前ぐらい前にある大学にレッスンに行ったときには、全員背中が持ち上がっていた。先日の高校生も、まだ一年生なのに、だいたい六割までが背中が持ち上がっている。

 原因はいくつか考えられると思いますが、立って生活するときには、まっすぐ上へ伸び、四つんばいのときにはすっと力が抜けて、背中はぶら下がって、背骨はケーブルみたいになるはずなのが、前屈みに固まっている。ということは、単純にいえば、対人関係において不断に身構えている姿勢が固定化している、ということだろう。この十年のあいだに、背中が丸まっている子どもが、これだけ急速に増えてきている。

 もう一つ気になるのが、歯を閉じたまましゃべる子が増えている。そういう子がかなり目につく。気になりはじめたのは五、六年前からです。唇は少し開ける。ところが歯のあいだを開けない。これはやってみればわかりますが、からだのなかで脈打っている息づかいが外に出てくることがない。だから情動が現れない。簡単にいえば、自分をここで嚙み殺している。

 要するに、これらの現象は、子どものからだがかなり追いこまれているということだと思うんです。

(『環』「ことばを話すことがからだの問題」74ページ)

 次は、子どもの「からだ」を診ている山田さんの問いは、「なぜ、子どもに肩凝りが増えているのか?」である。まだ幼い子どものからだに、「頭痛」「肩凝り」という異変が起きている。

 結局、からだを問うというのは、文化を問うということになると思う。(中略)子どもたちのからだをみても硬くなっていることは確かだと思います。だいたい頭痛を訴える子どもが非常に増えました。頭痛はほとんどが肩凝りからの延長線であるのは知られた事実ですが、ぼくも針をやったり、漢方も使ったりする。東洋医学も上野にいたころに少し覚えたものですから、東洋医学もやります。

 東洋医学というのはからだにさわる医学で、西洋医学はほとんどからだにさわらない医学になり果ててしまっている。からだにさわらない医学をやっていれば、からだに興味をもてるはずもない。検査の数値とか画像、レントゲンを通してみえるからだには関心をもつが、生のからだをじっくりみることはなくなってしまった。いわば生のからだの表面には興味がなくて、からだの内側に興味があるというふうになっている。

 そういうなかで医者にからだに対する関心が出てこないのも当然の傾向だと思いますが、肩が凝っている子どもが非常に多い。それは単に座ることが多くなって、要するにおとなの生活と子どもの生活が非常に近いものになってしまったためだと思います。ほとんど室内の生活だし、座ってできる範囲の生活で、上半身だけを動かせばからだ全体を動かさなくてもすむ、そういう生活を強いられる状態のなかで、肩が凝るようになった。それからある種、防衛する身体というか、何かから自分を守っている、いつも身構えている、子どもたちをみていると、リラックスできないからだというのを感じることがあります。

(『環』「ことばを話すことがからだの問題」78ページ)

 かつてはドイツ語の医学用語で書いていたが、いまは英語をまじえて書くようになったカルテ(診療記録) を、自分は日本語(※問診で訴える患者の「からだことば」)でしか書かないという山田医師は、「からだを問うというのは、文化を問うということ」と考える理由について、次のように述べている。

山田 医学用語なんかほとんどドイツ語の翻訳語ですから、よくないですね。ぼくはここ十数年、カルテは日本語でしか書かない。それで最近はっと気づいたんですが、日本語で書いていると、カルテの公開なんていうのはちゃんちゃらおかしく思えてくる。というのは、書いているところを患者さんが見てますから。日本語だとそのまま書ける。僕の親父はただの町医者だったんですが、患者さんが言っていることを別の言い方で書いちゃいかんのだと言っていた。ぼくは岐阜の出身なんですが、あのへんでは「痛い」というのが、「痛い」と「やめる」と二つある。「やめる」というのは、とにかくずっと痛いというか、しんしんと痛いというか陰性な痛みで、「痛い」というのはわりあい陽性な痛み。だから患者さんが「やめる」と言ったのを「痛い」に変えたら、ニュアンスが違うんだから絶対にだめだと親父は言っていた。いまはそれをすべて「頭痛」とかに変えてしまって、それでは「痛い」とか「やめる」とか、そういう語感はなくなってしまう。

しかしそもそもカルテを自国語以外で書いている国というのは他にあるんでしょうか。

竹内 そりゃそうだね、考えてみれば。

斎藤 確かに奇妙な話ですね。

山田 奇妙でしょう、ものすごく。

斎藤 ねじれていますね。病気のときというのは、一番切実な身体感覚を伝える必要があるわけですよね。

山田 だからものすごく変なんです。患者さんの思いが全然伝わらないカルテが作られている。裁判なんかでも、看護日誌は役に立っても、カルテは役に立たないと言われています。看護婦さんは自分のことばで書いているんですね。患者さんのその時の状態を、自分でさわったりいろいろやって書いている。看護婦さんはまだ患者のからだをみているけれども、医者はもうからだをみていない。

(『環』「自国語以外で書かれるカルテ」89ページ)

「自分のからだが本当にゆるされて動いているか」という問いに対する答えのひとつは、「からだ」をゆるさない「こころ」の呪縛を解きほぐすこと。たとえば、「気功」や「ヨガ」、「座禅」や「瞑想」のエクササイズを通して、いちばん身近な自然である「からだ」が発するかすかなささやき(からだのメッセージ)に、「からだ」を縛りつけている無理やがんばりをとり払った「こころ」がその耳を傾ける。「からだ」をゆるすとは、「からだ」をゆすって・ゆるゆる・ゆったり・ゆるめることに他ならない。「からだ」が本当にゆるめば、たちまち「こころ」の呪縛はとける・ほどける、「からだ」も「こころ」もほぐれる・やわらぐ……。

 「こころ」に描くイメージで「からだ」をゆるめる呼吸法。からだの末端(手首・足首)から中心(肩・腰)に向かって、ひとつずつ順番にゆるめる原山流「瞬間脱力法(呼吸と連動した脱力動作)」を紹介しよう。

☆下半身のゆるめ方:足首をゆるめる/膝をゆるめる/腰をゆるめる
☆上半身のゆるめ方:手首をゆるめる/肘をゆるめる/肩をゆるめる

 気持ちよく瞬間脱力を行うには、からだの緊張(息を吸う・息を止める)と弛緩(一気に息を吐く)を切り替えるタイミングにある。まず鼻から息を吸って溜めておき、ゆるめる瞬間に口から一気に息を吐く。からだを動かすときは、息を吐きながら(呼気で)動けば、やわらかく動いて、気持ちよくゆるむ。
これも、決して無理をしない。気持ちがよいと感じる範囲内で動くこと。「ゆるめる・ほぐす・やわらげる」とイメージしながら……。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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