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連載「つたえること・つたわるもの」145

「心あたたかな医療」を支える女性を支えた遠藤周作のことば。

連載 2022-09-27

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先週から始まった文教大学越谷校舎でのオンライン講座『遠藤周作の「病い」と「神さま」――その2 「心あたたかな医療」を支える女性たち』(全5回)では、生前の遠藤さんと深いご縁があった女性の医師、看護師、ソーシャルワーカーなど、遠藤さんからかけられた「ひと言」をきっかけに、それぞれの分野で「心あたたかな医療」を実践されている、すばらしいエピソードを紹介している。

☆「君たちのしていることは、すごいことなんだよ。(看護には)お金を出して、当たり前のことなんだ」

 現在、在宅看護研究センター代表をつとめる村松静子(せいこ)さんは、約四十年にわたって在宅看護をつづけてきたエキスパート・ナースである。その村松さんは、かつて勤務していた日赤医療センターICU看護婦長の要職を辞し、病院の外に出て訪問看護を有料で行うプロのナース集団を起業した。新聞や週刊誌などのマスコミは、これを「開業ナース」と名づけて大きく報道した。1986年3月のことである。

 その6年前、ICU看護婦長になった村松さんは、1982年に病院から出向のかたちで、日赤中央女子短大看護学科の講師となる。ちょうど、村松さんが退院後の療養に不安を訴える患者や家族の在宅看護の重要性に注目していたこともあり、翌年、「在宅ケア保障会」を結成して、主治医制での訪問看護ボランティアを開始した。このボランティアは、それから3年1カ月後に発足する「在宅看護研究センター」の看護実践の現場に、その精神が引き継がれることになるのだが……。その後、医師の紹介による新たな依頼が増えつづけ、勤務時間外に行う「訪問看護のボランティア」には、自ずと限界が見えてくるようになった。

 そのころ、自ら何度もの大病をわずらった体験から「心あたたかな医療」を提唱し、キャンペーンを展開していた作家、遠藤周作さんと雑誌で対談するチャンスがめぐってきた。

君たちのしていることは、すごいことなんだよ。(看護には)お金を出して、当たり前のことなんだ。このままボランティアでつづけることは、とても無理だよ。会社を作ったらいいじゃないか」
のちに株式会社セコム創業者の飯田亮会長(現最高顧問)の賛同を得るなど、応援の輪は少しずつ、着実に広がっていった。また、2011年に第43回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞されている。現在の村松さんは、医師(病院)と患者(家族)の懸け橋をめざす「メッセンジャーナース」認定制度に力を入れる在宅看護の草分け的存在である。

☆「医者というのは神父といっしょで、人間の魂に手を突っ込む仕事だ」

 都内の病院での研修後、大学病院の勤務医となった内藤いづみさんは、「私、家に帰りたい」と訴える女性の終末期患者を退院させ、大学病院には言わずに彼女の自宅まで往診していた。しばらくは家族と過ごす日々を喜んでいたが、ある日突然、彼女は亡くなってしまう。ちょうどそのころ、遠藤周作さんが讀賣新聞夕刊に寄稿した連載エッセイ『患者からのささやかな願い』を読んで、内藤さんは遠藤さんに新聞社気付で手紙を書いた。いまの医療システムではガンの患者への対応が納得できない、医者としてつらくて患者に向かい合えない、このまま医者の仕事をつづける自信がないという、悲痛な思いだった。

 しばらくして「電話乞う」というはがきを受け取った内藤さんは、すぐその番号に電話をかけた。それは、のちに在宅ホスピス医となる内藤さんにとって、その後の運命を決める電話となった。これがきっかけとなり、遠藤さんは新前ドクターの悩みに耳を傾け、筆まめな内藤さんはせっせと手紙を書きつづった。

「遠藤さんは、医者というのは神父といっしょで、人間の魂に手を突っ込む仕事だとおっしゃいました。相当の覚悟をもってとり組むべき仕事で、本来は宗教者もそうでしょうけれども、現場で苦しむ人々ときちんと向かい合える専門家がどれくらいいるでしょうか」

 1986年、英国人のピーターさんと結婚した内藤さんは、英国北部、スコットランドで新しい生活を始める。ちょうど、英国ではホスピス運動が盛んになる時期であった。早速、内藤さんは新しくオープンしたデイホスピスケアの医師としてのボランティア活動を開始した。その7年後、日本にも英国で学んだホスピスの考え方を伝えたい、そのためには再び日本で医師として働きたいという思いが、日増しに強くなった。

 夫のピーターさんは、妻の願いを全面的に聞き入れ、一家で内藤さんの故郷・山梨県の甲府に移住することになった。帰国の翌年、甲府市の病院の勤務医になった内藤さんが、地元紙・山梨日日新聞に英国のホスピス事情を連載したことをきっかけに、有志が集まり「山梨ホスピス研究会」が発足した。

 その後、「ぜいたくは言わない、借金はしない」という方針で開設したふじ内科クリニックには、その考え方に賛同する看護師の応援や、同志のような患者たちの力を得て、甲府市を拠点として活動する在宅ホスピス医・内藤さんは、今日も「心あたたかな医療」の輪を広げている。

☆「どうだ、トキちゃん、肛門科の女医にならんか」

『日本ではじめての「女性」による「痔」の専門医』――これは山口トキコさんが院長をつとめる、マリーゴールドクリニックのホームページに書かれたキャッチコピーである。小学校3年生のときの作文に「医者になりたい」と書いた山口さんは、1982年春、東京女子医科大学に進学。そして、日夜勉学にいそしむ医学生の山口さんに、作家の遠藤周作さんと巡り合うチャンスが訪れる。そのきっかけは、「(芝居を)やる人天国、見る人地獄」で知られる素人劇団「樹座」(遠藤周作座長)の座員募集の告知を見た山口さんの母が娘に無断で、樹座のオーディションを申し込んだことにあった。
しかし、審査日の直前に山口さんが高熱で体調を崩したために、オーディションを受けられなかった。すでに、便箋に書いた履歴書と、大学のセミナーハウスで撮った写真は送付済。そこで、山口さんは樹座のスタッフに電話を入れて、急な高熱でやむなく欠席した理由を告げた。

 それから何日か経って、山口さんに突然、「遠藤だけど……」という電話が入る。思わず「どちらの遠藤さんですか?」と聞き返すと、「キミ、オーディションを休んだね」という声は、なんと遠藤座長その人だった。「赤坂見附の貸しホールで(樹座の)練習があるが、見にこないか」と誘われて、それから間もなく樹座の稽古場で、遠藤さんに会うことになった。遠藤さんは、まだ医学生だった山口さんにこう質問した。

「いま(女子医大で)、あなたはどんな勉強をしているの?」
「親は皮膚科か外科の医者になってほしいようですが、まだはっきりしていません」

 そのとき、まだ専門分野を決めていなかった山口さんは、正直に自分の気持ちを述べた。

 翌年、遠藤さんは東京・南青山の平田肛門科医院で痔(血栓性外痔核)の日帰り手術を受けたのだが、その待合室での様子を山口さんに次のように語ってくれた。

 「待合室には、若い女性が円座クッション(お尻の痛みを和らげる、中央に穴の開いたドーナツ型クッション)に座って、恥ずかしそうにうつむいていたよ。私はジロジロ見ていたわけじゃないが、かわいそうな話だ。どうだ、トキちゃん、肛門科の女医にならんか」
「若い女性が……、そうなんですか! えー、私が肛門科の医者に、ですか」

 その当時は、将来自分が肛門科医になるとは夢にも思わなかった山口さんは、遠藤さんのやさしい心に感動しつつも、最後の言葉だけは突然の提案でもあり、何となく聞き流していた。
やがて、大学の医局での臨床経験を積んだ山口さんは、外科のなかでも脳外科や心臓外科ではなく、肛門科(大腸肛門科)の専門医をめざす決意を固める。そして、2000年、東京・赤坂見附に、マリーゴールドクリニック(肛門科、胃腸科、内科)がオープンした。肛門科の女性医師、山口トキコ院長の誕生である。
キク科の花、マリーゴールドは「聖母マリアの黄金の花」の意味で、黄色いマリーゴールドの花言葉は「健康」、また肛門の外見が「菊の花」によく似ており、女性患者が受診しやすいクリニック名である。

☆「奥川の心臓病は神様の贈り物だよ。心臓の手術をしていなかったら、いまの仕事には就いていなかっただろう?」

 1982年、遠藤さんが讀賣新聞に寄稿した連載エッセイ「患者からのささやかな願い」の第5回目(5月4日)に、「心あたたかな医療」の柱となってほしいと願う「病院ボランティア」への参加を呼びかけた。

 病人の愚痴や嘆きを、じっと「聞いてあげる」ボランティアになってくださる人はいませんか(男、女を問いません)。しかしこれは多少の勉強がいるので、そのことをお含みください。この試みは試行錯誤なので色々、研究しながら改めていかねばならぬものですから。  (讀賣新聞「患者からのささやかな願い」)

その後の経過について、遠藤ボランティアグループ議事録に次のように記されている。

 昭和五七(1982)年六月二三日(水)午前一〇時、聖路加国際病院に参集したのは、次の六名であった。
白須、高岡、谷口、水野、畑、小椋  昭和五七年五月四日付の讀賣新聞夕刊に、遠藤周作氏の《心あたたかな病院》が掲載された。その記事で「病人の愚痴や嘆きをじっと〝聞いてあげる〟ボランティア」を呼びかけられた。それに応募した者に(遠藤氏から)返信があり、それに従って聖路加国際病院ボランティア係に連絡すると、リーダーを紹介された。その指示に従って集まったものである。
 しかし、遠藤氏と病院側の連絡が不充分で、
(※遠藤氏からの)返信にあったような(※適性)テストや教育も受けられないことが判明した。ボランティアの内容も当方の志すものと異なっていたので、ぜひ遠藤氏と話し合う必要があるということになり、白須が折衝することになった。

 その対応に苦慮した遠藤さんは、当時、自分が座長を務める素人劇団「樹座」のメンバーで、老人医療専門病院(現東京都健康長寿医療センター)の医療ソーシャルワーカーだった奥川幸子さんを呼びだした。奥川さんは、遠藤さんの「心あたたかな医療」運動は少し知ってはいたが、まさか、その日が遠藤ボランティア発足の助走日になるとは思ってもいなかった。遠藤ボランティアグループ発足までの準備期間に、奥川さんは次のことを行った。

○遠藤さんが呼びかけてくれ、手を挙げた医療機関への訪問/○聖路加国際病院ボランティアグループ活動の実態/○「患者の話を聴くボランティア活動」への戦略的実践への取り組み/○新たに参加したメンバーが探してきてくれた活動先/○準備段階における勉強会/○河北総合病院(東京都杉並区)、東京衛生病院(東京都杉並区)から活動開始。/○グループ(1982年9月、正式名称〝遠藤ボランティアグループ〟と決まる)の初代代表は和波その子さん/○その後も勉強会は続ける:新たに参加希望メンバーへの面接と会員条件としての講座。

 このあと、遠藤ボランティアグループは、メンバー間で自主的にグループの運営、講座実施などを行うようになり、奥川さんは勉強会の講師を担当するなど、後方支援の役割に徹する。さらに、病院勤務職員としてのソーシャルワーカーを辞めて、フリーのスーパーヴァイザー(対人援助職トレーナー)となる。それは、ソーシャルワーカーやケアマネージャーなど、患者や利用者、クライエント(相談者)を「支える人」(対人援助職)たちを対象に、奥川さんの医療や心理学の専門知識と豊富な実践体験をもとに「支える人(対人援助職トレーナー)」として、奥川さんはその指導と活動の場を全国に広げていった。

とても悲しいことに、奥川さんは2018年9月に亡くなられたが、遠藤さんからの素敵な「ひと言」があったことが、『ピープルズ・ネットワーク』誌(1999年)に寄稿したエッセイに書かれている。

 奥川の心臓病は神様の贈り物だよ」と2年前に亡くなった作家の遠藤周作さんがいってくれた。そのことばを15年後のいま、ふたたび思いかえしている。
「奥川は、大学時代に心臓の手術をしていなかったら、いまの仕事には就いていなかっただろう?もちろん活発だからなにかをやってはいただろうかで、少なくともいまのような仕事には巡り合っていなかったよな」
 遠藤さんも結核をはじめとしてさまざまな病気をされてきた方だ。私は当時、彼のまわりに集まっていた数多くの≪遊び友だち≫のはじっこにいただけだが、遠藤さんには『病気友だち』的な親近感を抱いていた。
(中略)(※遠藤ボランティアグループの発足には)遠藤さんに頼まれて(というより強引に押しつけられて)創設時から専門職としての知識と技術を提供するボランティアの立場でかかわってきた。(中略)創設当初から組織がしっかりできあがるまでのあいだは密にかかわってきた。現在ではメンバーが自在に活動しておられるので、私は裏に控えているだけの存在である。この活動組織も遠藤さんが遺してくださった「魂の贈りもの」となった。メンバーたちも私も、この病院ボランティア活動をとおして精神的な体力と生きる力を養わせていただいたと、つくづく感じている。
(『ピープルズ・ネットワーク』「CARE design」65ページ)

 医師や看護師、ソーシャルワーカーなど医療や心理学の専門家の仕事を、よく「プロの仕事」と呼ぶ。正確には英語「プロフェショナル(professional)」の語源はラテン語のprofess(動詞)で、pro(前に)+fess(言う)から、「神の前で宣誓する」の意がある。とくに専門性の高い仕事に携わる宗教家や法律家、医師の場合、その行動が倫理的に正しいかどうかは簡単には判定できないので、「怪しいことはしないと神に誓うことが求められた」という挿話からきている。

 群馬大学医学部教授、調憲(しらべけん)さんの『教授コラム』「プロフェッショナルの語源」(Vol.7)によれば、アメリカ外科学会には「プロフェッショナルとしての行動規範(code of professional conduct)」が定められているが、その8番目に「信頼はレンガを一つひとつ積むようにしか得られない(Trust is built brick by brick.)」という言葉がある。40年目を迎えた「心あたたかな医療」キャンペーンも、やはり、一つひとつのレンガ(brick)を積んでいく丁寧な作業に支えられている。

 村松静子さん、内藤いづみさん、山口トキコさん、奥川幸子さん――「心あたたかな医療」キャンペーンを始めた遠藤周作さんが、心あたたかな励ましの「ひと言」を贈り、最も「信頼」してやまなかった4人の女性たち――は、「心あたたかな医療」というレンガをやさしく積んでいく、真のプロフェッショナルである。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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