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連載「つたえること・つたわるもの」170

〈カタカナ〉の身体感覚。明治~昭和21/昭和22~令和の〈カタカナ〉事情。

連載 2023-10-10

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先週(10月2日)行った子育て講座『日本語の〈たまご〉――「いろは」と「あいうえお」――いま、〈ひらがな〉の詩がおもしろい!』の配布資料で「あいうえおうた」などの〈ひらがな〉詩をさがした。そして、来年の子育て講座のテーマ候補として、次に〈カタカナ〉詩をさがしたが、たくさんあった〈ひらがな〉詩のようにはいかず、やっと三つの〈カタカナ〉詩(まど・みちお、谷川俊太郎、宮澤賢治)を見つけた。

 ひとつは、まど・みちおの〈カタカナ〉詩「フユノヨル」。作品は左の〈カタカナ〉詩だが、試しにそれを右の〈ひらがな〉詩に置き換えてみた。(※著作権・引用の関係で、宮沢賢治以外の作品は、詩の前半部分のみ紹介。また、作品中の/は改行、//は一行空きを表す。以下同じ)

フユノヨル」                  「ふゆのよる」
シズカナ シズカナ フユ ノ ヨル、       しずかな しずかな ふゆ の よる、
テン カラ ユキ ハ フッテクル。        てん から ゆき は ふってくる。
レンガ ノ オウチ。ワラ ノ ウチ。       れんが の うおち。わら の うち。
オネンネ オネンネ シナサイ ネ。(後半省略)   おねんね おねんね しなさい ね。
(『赤ちゃんとお母さん』=まど・みちお著、童話屋、2007年)

 「漢字・カタカナ・ひらがな」の順で比較すると、「冬・フユ・ふゆ/夜・ヨル・よる/雪・ユキ・ゆき/煉瓦・レンガ・れんが/藁・ワラ・わら」の身体感覚は、それぞれ〈味わい〉が異なる。「漢字は硬く、カタカナはジャックナイフ、ひらがなは天平美人の眉」とは、詩人・草野心平の名言だが、これを原山流に表現すると、「四角い漢語は象形(かたち)で〈意味〉をあらわし、とんがったカタカナ語は抽象的な〈イメージ〉をつたえる、まあるい和語(やまとことば)はこころの〈思い〉をとどけてくれる。」となる。
やはり、まどの〈ひらがな〉詩「ちらちら ゆき」を、今度は〈カタカナ〉詩に置き換えてみる。

ちらちら ゆき」                 「チラチラ ユキ」
ちらちら/ゆき ゆき               チラチラ/ユキ ユキ
ちょうちょに なあれ/みみに とまれ//     チョウチョニ ナアレ/ミミニ トマレ//
ちらちら/ゆき ゆき               チラチラ/ユキ ユキ
おさとうに なあれ/くちに はいれ(後半省略)  オサトウニ ナアレ/クチニ ハイレ
(『まど・みちお全詩集』=まど・みちお著、理論社、1992年)

 この「チョウチョ・ちょうちょ/ミミニ トマレ・みみに とまれ/オサトウニ・おさとうに/クチニ・くちに/ハイレ・はいれ」が伝える〈カタカナ〉詩・〈ひらがな〉詩、それぞれのフィーリングは、たとえば肌に「ツンツン」伝わる、あるいは「ふわふわ」届く、肌への触れ具合、皮膚感覚の違いがある。

 もうひとつは、谷川俊太郎の〈カタカナ〉詩「フユノヨル」。これも、左に作品のオリジナルの〈カタカナ〉表記、右は〈ひらがな〉の表記だが、「ミライ/みらい」から伝わる身体感覚は大きく異なる。

ミライノコドモ」                「みらいのこども」
キョウハキノウノミライダヨ             きょうはきのうのみらいだよ
アシタハキョウミルユメナンダ            あしたはきょうみるゆめなんだ
ダレカガアオゾラヤクソクシテル           だれかがあおぞらやくそくしてる
ミドリノノハラモヤクソクシテル           みどりののはらもやくそくしてる
コレカラウマレルウタニアワセテ(中略)       これからうまれるうたにあわせて
ミライノコドモハ/オトウサンヲシカッテル      みらいのこどもは/おとうさんをしかってる
ミライオコドモハ/オカアサンアヤシテル(後半省略) みらいのこどもは/おかあさんをあやしてる
(『ミライノコドモ』=谷川俊太郎著、岩波書店、2013年)

 谷川の〈カタカナ〉詩といえば、愛知県立大学で開催(2016年6月4日)された学術講演会(※実際には講演形式でなく、ゲスト・谷川俊太郎と日本文化学部・宮崎真素美教授との対談形式で行われた)『「不安」から照らす「生」の諸相――ことば、こころ、肉体』を収録した『日本文化学部論集』に、〈カタカナ〉詩にもふれた「谷川俊太郎との対話」が載っている。

 谷川が「ミライノコドモ」を朗読したあと、宮崎教授から「(谷川さんに)カタカナ詩はそんなに多くないですよね?」「カタカナとひらがなの違いって、創作されるときに何かあるんですか」という問いに、「ひらがなというのは、なんか日本語の昔のものを伝えていて身についてる感じがするんで、詩もできればひらがな的なもので書きたいというのがずっと底にあるんですよ」と答えたあと、お二人の対話。

谷川 カタカナはまたちょっとひらがなと違って、むしろ抽象化したいときに使うことがありますよね。西洋の用語は全部カタカナになってるけどね。言葉の持ってるニュアンスとか、そういうのを削って書けるみたいな、そんな感じがあるんですよね。
宮崎 谷川さんが多分お子さんだった頃は、国語の教科書はカタカナですよね?
谷川 カタカナ。「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」。
宮崎 サクラ読本(※「小學國語讀本」昭和8~昭和15年)ですよね?
谷川 いま(※小学一年生の国語教科書)はそうじゃないんですね? ひらがなからなんでしょ?
宮崎 今はひらがなからです。
谷川 だから、カタカナを知らない子がいるみたいね。
宮崎 なんだか外国語的な感じですよね? 「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」みたいな感じは残っていらっしゃるんですかね?
谷川 意識はしていないけど、体に(※身体感覚として)残っているんじゃないですかね。
宮崎 あの頃は『コドモノクニ』(※大正11~昭和19年に出版された児童雑誌。執筆は巌谷小波、北原白秋、野口雨情ほか、挿し絵は竹下夢二、東山魁夷ほか)とか、そういうのも全部カタカナですよね?
谷川 はい。
(愛知県立大学日本文化学部論集第8号、2016年)

 なるほど! 昭和6(1931)年生まれの谷川俊太郎は、「サイタ サイタ/サクラ ガ サイタ」で始まる『尋常小學國語讀本』巻一(※一年生の教科書)【昭和8(1933)~昭和15(1940)年】を、明治42(1909)年生まれのまど・みちおは、「ハタ、タコ、コマ」で始まる『尋常小學國語讀本』巻一【明治43(1910)~大正6(1917)年】を開いて、最初に目にしたのが〈ひらがな〉ではなくて〈カタカナ〉だったことから、さきの対話のように「意識はしていないけど、体に残っている」身体感覚をもった詩人なのである。

 また、漢字交りの〈カタカナ〉書きで「雨ニモマケズ」を書いた、明治29(1896)年生まれの宮澤賢治も、おそらく「ハ。ハナ。フナ。ハリ。」で始まる國定教科書『尋常小學國語讀本』巻一【明治33(1900)~明治36(1903)年】で学んだであろう、日本を代表する童話作家のひとりである。宮澤の没後に発見された遺作のメモ、「雨ニモマケズ」(漢字カタカナ交じり文、旧字旧仮名遣)と、もうひとつ漢字交じりの〈ひらがな〉書きにしたものを比較して、〈カナ〉と〈かな〉それぞれの身体感覚の違いを味わってみよう。

雨ニモマケズ』(※漢字カタカナ交じり文)   『雨にもまけず』(※漢字ひらがな交じり文)
雨ニモマケズ/風ニモマケズ           雨にもまけず/風にもまけず
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ  雪にも夏ノ暑さにもまけぬ/丈夫なからだをもち
慾ハナク/決シテ瞋ラズ             慾はなく/決して瞋(いか)らず
イツモシヅカニワラッテヰル           いつもしづかにわらってゐる
一日ニ玄米四合ト/味噲ト少シノ野菜ヲタベ    一日に玄米四合と/味噲と少しの野菜をたべ
アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ  あらゆることを/じぶんをかんじょうに入れずに
ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ       よくみききしわかり/そしてわすれず
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ  野原の松の林の蔭の/小さな萱ぶきの小屋にゐて
東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ   東に病気のこどもあれば/行って看病してやり
西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ  西につかれた母あれば/行ってその稲の束を負ひ
南ニ死ニサウナ人アレバ             南に死にさうな人あれば
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ        行ってこはがらなくてもいいといひ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ         北にけんくゎ(喧嘩)やそしょう(訴訟)があれば
ツマラナイカラヤメロトイヒ           つまらないからやめろといひ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ          ひでりのときはなみだをながし
サムサノナツハオロオロアルキ          さむさのなつはおろおろあるき
ミンナニデクノボートヨバレ           みんなにでくのぼーとよばれ
ホメラレモセズ/クニモサレズ          ほめられもせず/くにもされず
サウイフモノニ/ワタシハナリタイ        さういふものに/わたしはなりたい

 これもまた、明治生まれの「意識はしていないけど、体に残っている」身体感覚がよく伝わってくる。

 ちなみに、戦前の旧漢字旧仮名遣い時代の「尋常小學國語讀本」巻一は、★「イ(イス)、エ(エダ)、ス(スズメ)、(イ)シ」【明治37(1904)~明治42(1909)年】/★「ハト マメ マス ミノ カサ カラカサ」【大正7(1918)~昭和7(1932)年】と、いずれも最初に学ぶ日本語は〈ひらがな〉ではなく〈カタカナ〉であった。

 ところで、戦後の国語教科書はどうなったのだろう。安田女子大学教授・安田裕久の『戦後初期における入門期国語教科書の改革』という論文(「考察」)には、次のように書かれている。

 1947(昭和22)年、新教育にふさわしい小学校国語教科書として文部省編纂の『国語』(各学年2冊、全12冊)が発行された。その第1学年上巻として編纂された『こくご一』は、「おはなをかざる みんないいこ きれいなことば みんないいこ なかよしこよし みんないいこ」というリズミカルな表現、内容的にも民主的・平和的で、新教育にふさわしい斬新な国語教科書として高く評価された。
(『戦後初期における入門期国語教科書の改革』安田女子大学紀要、2019年)

 その後の国語教科書は、たとえば光村図書出版から「はい せんせい せんせい」(昭和40年度版)、「あさ あさ あかるい あさ」(昭和49年度版)、「きこえる きこえる なみのおと」(昭和52年度版)が出版されている。それまでの〈カタカナ〉コトバではなく、まあるい〈ひらがな〉ことばで書かれている。

あさ
あさ あさ あかるい あさ/うみがひかる やまがひかる そらがひかる/おはよう おはよう/さあいこう みんななかよし さあいこう
【昭和49(1974)年度、小学一年生国語教科書上巻、光村図書出版)】

 戦後の国語教科書をめぐる議論のひとつに、漢字や〈ひらがな・カタカナ〉を廃止して、すべて〈ローマ字〉表記すべしという意見があった。しかし、小学一年生が初めて開く国語教科書が〈ひらがな〉で本当によかった。〈ローマ字(アルファベット)〉の身体感覚は、あくまでも欧米人のものだが、その〈ローマ字〉KOTOBAも〈カタカナ〉で表記することで、はじめて私たち日本人の〈からだ〉にしっかり伝わってくる。

 明治時代の文明開化からはや155年、英語やフランス語など〈カタカナ〉で表記するおなじみの〈カタカナ〉語はもはや外国語ではなく、日本語(カタカナ語)のひとつとして私たちの暮らしの中にある。

 たとえば、国立国語研究所「外来語委員会」が、2006(平成18)年にまとめた『「外来語」言い換え提案 ―—分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いの工夫』の用例を読めば、それがよくわかる。

 ★アイデンティティー(identity) 言い換え語 (1)独自性(2)自己認識  用例 (1)アジア社会の文化や歴史を、政治、経済、法律を、そのアイデンティティー(独自性)を尊重しつつ真摯な態度で学ぼうとする姿勢がうかがわれる。(2)青少年のアイデンティティー(自己認識)の喪失による思いもかけぬ事件の数々や。  意味説明他者とは違う独自の性質。また,自分を他者とは違うものと考える明確な意識。

 ★アクセス(access)言い換え語 (1)接続 (2)交通手段 (3)参入  用例1)携帯電話を使ったインターネットへのアクセス(接続)は日本が先行している。(2)空港ビルやアクセス(交通手段)の整備に相当な期間を要する。(3)中小企業は大企業と比べて企業の経営内容について情報開示が限定的であり、資本市場へのアクセス(参入)にも限界があるため。  意味説明(1)情報に接近し利用すること (2)交通や連絡の便 (3)市場に入り込むこと。

 ★シェア(share) 言い換え語(1)占有率 (2)分かち合う、分け合う。  用例(1)発泡酒・ビールの合計消費量のうち発泡酒のシェア(占有率)は3割程度とみられる。(2)生きることの喜び,音楽の喜びをシェアし(分かち合っ)てもらいに,何度でも通いたいと思っている。 保育園の送迎など子育てのしんどい部分もきちんと妻とシェアし(分け合っ)てきた生活者としての言葉が,なにより説得力を持つからだ。  意味説明 (1)商品の市場全体に占める割合 (2)一つのものを分かち合い共有すること。また、一つのものを何人かで分けること。

 ★デフォルト(default) 言い換え語(1)債務不履行 (2)初期設定  用例 (1)経済危機で国債は実質的にデフォルト(債務不履行)に陥り,債券相場は暴落した。(2)デフォルト(初期設定)では黒色に表示されます。  意味説明 (1)債務が履行できない状態 (2)コンピューターなどで,利用者が特に設定を行わない場合に採られる,あらかじめ用意されている設定。

 四角い漢語は象形(かたち)で〈意味〉をあらわし、とんがったカタカナ語は抽象的な〈イメージ〉をつたえる、まあるい和語(やまとことば)はこころの〈思い〉をとどけてくれる。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)

 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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