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連載「つたえること・つたわるもの」(164)

ナラティブ・セラピーーー徳永進さんの「〈自分史〉ハイライト」を読む。

連載 2023-07-11

出版ジャーナリスト 原山建郎

 日本の「良医」を代表するひとり、鳥取市・野の花診療所院長・徳永進さんは、40数冊あまりの著書があるノンフィクション作家でもある。かつて健康雑誌『わたしの健康』の編集記者だった私は、1982年2月に上梓された『死の中の笑み』(徳永進著、ゆみる出版)を読んだ。そして当時、鳥取赤十字病院内科部長だった徳永さんをお訪ねして、1983年『わたしの健康』1~12月号までの1年間、医療コラム『形のない家族』の執筆をお願いした。初めての著書『死の中の笑み』は、1982年の第4回講談社ノンフィクション賞を受賞している。ちなみに、その第1回(1979年)では、『がん回廊の朝』(柳田邦男著、講談社)、『日本共産党の研究 上下』(立花隆、講談社)が受賞しており、ノンフィクション作家の登竜門ともいえる文学賞である。
 徳永さんが綴る文章は、生身のからだ(身心)からあふれ出る〈思い〉、医療現場でかわされる〈いのち〉のことば、その一つひとつが、それを読むすべての医療者(医師、看護師、鍼灸師、介護士、薬剤師、栄養士、理学療法士、検査技師など医療・介護にかかわるすべての対人援助職=ケア・ギバー)、そして患者とその家族の、からだ(身体)とこころ(心)、たましい(魂)に、じんわり沁みわたる。

 前回のコラムで、「医師になろうと思ったのは、自分のどもり(吃音)がいちばんの理由です」という神山五郎さんの〈自分史〉ハイライトが、そのままナラティブ・アプローチのバックグランド(背景)となっており、そのことを「かつては吃音に悩んだ神山少年だったが、いまその同じ吃音が温厚篤実な神山医師をつくり出した。神山さんが自分の人生を語り、その言葉に私たちが耳を傾ける。このことこそが、まさにナラティブ・アプローチの神髄なのであるまいか。」と書いた。そこで、今回は、徳永進さんの〈自分史〉ハイライトをいくつか、何冊かの著書から抜き出してみたい。

 じつは、今週(7月13日)、第5回目(最終回)を迎える、文教大学オープン・ユニバーシティ(越谷)「エピソードで綴る〈自分史〉ハイライト」講座で『「物語」編集力』について話をする。イシス編集学校を主宰する松岡正剛さんが自著『物語編集力』(ダイヤモンド社、2007年)でとり上げた神話学者ジョセフ・キャンベルの「英雄伝説の型(パターン)」に、日本昔ばなし「桃太郎」の物語を当てはめて考えてみよう。

◇セパレーション(分離・出立・家出)=きっかけ(導入部)
 桃太郎は、おじいさんとおばあさんに旅立ちを告げ、鬼退治に出かける。セパレーションには、誕生(母胎からの分離=出生)、旅立ち(卒業や就職=出立)、結婚(新居=家出)など、故郷(温もり)を離れ、未知の旅(きびしさ)に出る、などのパターンがある。=できごとの始まりには、必ず「きっかけ」がある。なぜ、この物語を話そうと思ったのか、それをとり上げた動機、できごとの発端となったのは、「大きな桃から生まれた」、「鬼退治に出かけた」、この二つがきっかけである。
☆イニシエーション(試練、苦難、戦い)=できごと(おもな話題、展開)
 通過儀礼とも訳されるイニシエーションは、たとえば人生における試練、苦難、戦いを意味する。英雄物語には、必ず主人公を困らせる敵が出くる。桃太郎は鬼が島で敵(悪い鬼)との戦いに遭遇するが、おばあさんが持たせたキビ団子や、旅の途中で加わった仲間の助けを借りて、みごとに鬼退治を成し遂げる。=ここでは「旅の途中で仲間が加わった」、「悪い鬼のいる、鬼が島に攻め込んだ」、この二つがおもな話題。
○リターン(帰還)=どうなったか(結末、成果)→再び、次のきっかけ(導入部)へ
 桃太郎は鬼が島に留まらず、たくさんの宝を車に積んで、おじいさんおばあさんが住むわが家に帰還する。苦難の末に成功をおさめた彼は、その成果を故郷(人々のもと)へと持ち帰る、これが英雄伝説の型(帰結)である。=「桃太郎」物語では、「故郷のわが家にもどりました。おしまい」となるが、ハッピーエンドだけでなく、もちろん失敗や挫折の物語もある。しかし、その失敗や挫折の体験は、次の新たな物語の「きっかけ(チャンス)」となる。

 つまり、それは物語のパターン◇セパレーション→☆イニシエーション→○リターンから⇒新たな物語のパターン◆セパレーション→★イニシエーション→●リターンへと続く「はてしない物語(ネバーエンディングストーリー)」である。そして、徳永さんの〈自分史〉ハイライトが、じつは1982年に上梓された二冊の著書、『死の中の笑み』(同年2月刊)、『隔離――らいを病んだ故郷の人たち』(同年12月刊。後にいくつかの論稿を加えて改題した『増補 隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』として2019年刊行)の中に、その物語のすべて(次の物語を生み出す、最初のスタートとゴール)があったことも、私にとってはとてもうれしい発見のひとつだった。

◇幼くて 癩病むいわれ 問いつめて 母を泣かせし 夜の天の川
 徳永さんは高校時代、国語の授業で教師が紹介した短歌から、初めて「らい(ハンセン病)」を知る。『増補 隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』(岩波書店、2019年)の序文にある「〈自分史〉ハイライト」。

幼くて 癩病むいわれ 問いつめて
母を泣かせし 夜の天の川 

 「祭りかなんかあったでしょうね。笛の音が遠くに聞こえ、友だちがお母さんやお父さんと楽しそうにしている声が聞えるんでしょう。「なあ、お母ちゃん。どうしてぼくだけが祭りに行ったらいけんだ。なあ、なあ」って言ってるんでしょうね」と教師がその歌を説明し、教室はシーンとなり、ぼくの頬に寒いぼがでたのを覚えている。このとき初めて、強い印象で「らい」という言葉を聞いた。
 大学生になって、ぼくは京都に下宿していた。同じ下宿に、
(中略)日曜日の夕方に下宿に帰ってきて真っ赤な小便を水洗便所に残し、バッタンと倒れるように眠っては、日曜日にまたどこかへ出かける先輩がいた。ある日ぼくは、その人がやっているサークルに顔を出した。そしてそのサークルでのかかわりを通して、ぼくは生まれて初めてらい療養所を訪ねた。昭和四十三年の秋のことだった。
 らい者が受けてきた差別のことを直接に聞き、らい者が身に刻んだ変形を初めて見た。そして何よりぼくの心を奪ったのは、ぼくと故郷を同じくする人たちが、大勢この島に住んでいるという事実だった。
(中略)
 ぼくの好きな故郷というのは、例えばらい者を、故郷から放り出すということで快い故郷であったのか、と思った。多数の幸福のために少数に犠牲を強制し、それによって故郷が平和であったのか、と思った。そんな故郷も、そんな平和もいらない。ぼくにとって故郷はさまざまな問題を解決するだけの力を持ち、さまざまな問題をかかえた少数の人たちにとってもいい所であり、共に暮らしあえる所であってほしいと思った。
 ぼくの故郷でらいをわずらったひとたちは、どんな仕打ちを受けてきたのか、ぼくの故郷は、そこでらいをわずらった人たちに対して何をしてきたのか、その事実を知りたいと思った。そう思ってぼくは、ぼくと故郷を同じくするらい者の人たちを訪ね歩きはじめた。昭和四十七年に、初めて故郷を同じくする人から聞き書きをした。

(『増補 隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』「序」3~5ページ)

☆故郷に待つ人は、誰もいないですから。
 1982年2月、徳永さんが40人のハンセン病者から聞き書きした「傾聴」の記録、『隔離――らいを病んだ故郷の人たち』(ゆみる出版)が出版された。その32年後(2014年)、東京・東村山市の国立ハンセン病資料館を見学したときのことを、当時の連載コラム「Book Therapy」№30に、『隔離――らいを病んだ故郷の人たち』を引用しながら、次のように書いた。(引用文は青字表記。何カ所か※で、簡単な説明を加筆)

「九十年の漆黒の闇、深い悲しみの底。」
武蔵野大学非常勤講師 原山建郎
 先月、遠藤ボランティアグループで、東京・東村山市の国立ハンセン病資料館を見学した。(中略)
 一九〇七(明治四〇)年に成立した旧らい予防法は、一九九六(平成八)年に廃止された。わずか十八年前のことである。今回の見学では、ハンセン病者を終生・強制によって隔離(※岡山県瀬戸内市にある国立療養所長島愛生園)した九十年にもおよぶ漆黒の闇、深い悲しみの底を覗いた。
 徳永進さん(鳥取市・野の花診療所院長)が四十人のハンセン病者から聞き書きした「傾聴」の記録、『隔離――らいを病んだ故郷の人たち』(ゆみる出版、一九八二年)はすでに読んでいたが、その後、「終章」を加筆して文庫化された『隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』(岩波現代文庫、二〇〇一年)を市川市中央図書館から借りてきた。「私は鬼でした」では、戦後間もなくらい(ハンセン病)を発症し実家に戻された女性が、戦地から戻った夫が再婚することになって、自ら「母を捨てる」覚悟を、わが子に告げる。

 私はつらかったけど決心して息子に言いました。(中略)「私はあなたを育ててきたけど、あなたのほんとのお母さんではない。あなたのお母さんは病気で遠くの病院に長いこと入院しておられた。今度帰ってこられるその人(※離婚した夫の再婚相手)が、あなたのほんとのお母さんだよ」
 私は鬼でした。心が張り裂けようでした。私はそれっきり親子の縁を切りました。
(同書、一三一ページ)

 母であることを奪われ、瀬戸内の小島に強制隔離され、永久に冷凍された心。
 いまその思いは、次の言葉で語られている。

 戦前・戦中・戦後と外の社会ではいやなことばっかりでした。だから今でも外に出ようという気になりません。私はずっと島(※離婚した夫の再婚相手)にいます。故郷に待つ人は、誰もいないですから。
(同書、一三三ページ)

 約三時間の見学プログラムには、ガイダンスビデオの視聴、展示解説室の見学、ハンセン病回復者である佐川修さん(語り部)の講演があった。ビデオのインタビューでは、男性回復者が受けた強制断種のいまわしい体験を語りながら、術前に陰毛を剃る看護婦の含み笑いがいまも聞こえると、顔をゆがめた。語り部の佐川さんは、屈辱のハンセン病史、故郷から棄てられた回復者の悲しみを語り、小刻みに両の肩を震わせた。
 人間とは、悲しいものだ。

 「故郷の誰も迎えに来なかった。結局、故郷に帰ることができなかった」と彼らは言っている。収容から五十年以上経った今も、故郷に帰れないという意味で、彼らは今なお見えない隔離のなかにいる。
(同書、三二四ページ)
(『出版ニュース』2014年6月中旬号、Book Therapy no.30)

 今回、図書館から借りてきた『増補 隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』には、「私は鬼でした」の語り手(石井さん)を取材したあと、徳永さんの静かな悲しみが記された一文がある。

 石井さんは細面の小柄な女性だ。隣に療養所に来てから結婚されたご主人がおられる。もう何回となく聞いて知りつくしているのであろう石井さんの話をじいっと聞いている。自分も具体的なこととしては違っていても、同じような悲しみのなかをくぐってこられたであろうに、改めて石井さんの話を聞きながら、ほんとにこれが事実なんですから、と言わんばかりの表情でぼくの方をみる。もっと細々としたことを聞きたいと思うぼくは、いつもらい者によって話された信じがたい事実の前に次の言葉を失う。出されたお菓子とお茶をもらって、話したくもないことを話していただいたことに頭を下げて、石井さんの家を出る。
(『増補 隔離――故郷を追われたハンセン病者たち』、133ページ)

☆いい加減な良心は簡単につぶされる
 1974年、京都大学医学部を卒業し、医師免許を取得した徳永さんは、大学の医局に残るという道を選ばなかった。『死の中の笑み』(ゆみる出版、1982年)に、なぜそうしようと思ったのか、その理由と決意が書かれている。生と死が目まぐるしく交錯する地域の小さな診療所で、心に思い描いた理想のかたちと医療現場のきびしい現実とのギャップの中で、2001年に開業することになる、19床のホスピスベッドのある野の花診療所のアウトラインがうっすらと、ときにスイッチバックを繰り返しながら、かたちづくられていった。

 そのころぼくは、将来の自分の医者としての姿を決めていた。田舎の谷あいの診療所の医者として農村を走りまわろうと思っていた。その研修のためには、特に大学病院である必要はなかった。ぼくは国立京都病院で研修した。いずれ鳥取に帰ったとき、少なくともこの技術は身につけておかねばならないと思い、ひとつひとつの医療技術を習った。
 研修の二年が終わったあと、大阪、吹田の同和地区診療所で働いた。医者はぼくだけだった。将来の自分の診療所のための経験に……という気持ちもあった。また、同和地区の人たちに信頼され、鍛えられる医者になるためにという気持ちもあった。この地区診療所で働いた二年間はぼくにとって貴重だったが、その反省をまとめると、住民の信頼を得る医療はいい加減な良心だけでは作れない、いい加減な良心は簡単につぶされるということだった。
 ぼくはこうして、ひとりで勝手に歩いていたが、いい加減のことでは人の信頼は得られないし、いい加減なことではいい医療技術も身につかない、ということが頭に残った。

(『死のなかの笑み』Ⅲ「医療者の中の真実」255ページ)

○⇔◇「ぼくのラポール」
 すでに本コラム(№62)でも、『話しことばの看護論――ターミナルにいあわせて』(看護の科学社、1988年)を引用しながら、「ラポールをもてる人、自然体の良医・徳永進さんのホスピスケア」を紹介したが、最初の著書『死のなかの笑み』の中に、徳永さんの生身のからだがとらえた医療感(観念的な医療観ではなく、皮膚感覚のフィーリング)から発する「ラポール」の原点を見つけた。これはある意味で、○リターン(帰還)=どうなったか(結末、成果)⇔再び、次のきっかけ◇セパレーション(導入部)へ、という二つの要素を併せもっている。同書を41年ぶりに改めて読み直し、医療者としての徳永さんがその当時から、患者とその家族との間の「ラポール」をこのように感じていたことを知って、心の底からうれしく、ありがたいと思った。

 娘さんはぼくの高校の一年先輩で、S看護大学を卒業したあと、ある劇団にはいり、その後大阪で保健婦をしている人だった。母の看護のために、ふたりの小さな子供たちを、ひとりは姉の家へ、もうひとりをおばの家へ預け、自分の家庭を一時崩壊させているのだった。
 自分の家庭を崩壊させたこの保健婦さんを、ぼくはりっぱだと思ったし、それを支えた兄弟、縁者、職場の人たちに、ぼくは快い気持ちを感じた。そこに全くきどりのない「愛」を感じたからだ。ぼくら医療者はそういうものに触れるとき、改めて逃げられないのを感じるし、自発的な責任を感じる。
 患者が医療者を信頼し、医療者が自発的な責任を感じ、そこに「愛」がある。そんな出会いを「ラポール」と言うとするなら、ぼくは「ラポール」を感じていた。津川さんへでも、娘さんへでも、ご主人へでもなく、娘さんやご主人が母を看護し見守る目に対してであった。
 津川さんと娘さんやご主人との間には「ラポール」があった。だからぼくは、津川さんとの間にあえて「ラポール」を作ろうとは思わなかった。娘さんやご主人を通して、津川さんの状態や望むことを聞いていけばいいと思った。冷静さを失ったり、家を崩壊させてまでする看護の力をぼくは信じた。だから、ぼくの「ラポール」は津川さん自身との間にではなく、娘さんやご主人の中にある津川さんとの間にできていた。これは「ラポール」の形としては変則だと思う。
 この日ぼくは、津川さんの左腋窩リンパ節の吸引細胞診で、異型性の高い扁平上皮癌細胞を顕微鏡でみていた。悪性度は高かった。いつまで調子のいい日が続くかと心配した。津川さんは八病日まで調子が良かった。調子のよいある夜、ぼくは送別会で一杯飲んだ帰り道で、街路樹の枝を折り、その花を消燈後の病室に届け、津川さんと娘さんに「お休み」と言う。医者になって二度目の酒飲み訪問だった。
 おそらく医療者は、へだてなくすべての入院および外来患者に平等な「ラポール」を持つべきだろう。しかし残念ながら、医療者ひとりひとりは聖人ではなく、邪念に満ちた人間にしかすぎない。それぞれの医療者が、できるだけみだらな「ラポール」をみつけられるほどの度量ある人間になるよう努力するしかない。
 「ラポール」ができたことで、医療者も家族も互いに気がねすることは少なかった。すべてが隠しへだてなく行われ、お互いの気持ちも隠しへだてなく言えるようだった。

(『死のなかの笑み』Ⅱ「病院でみる死」172~174ページ)

 ここに抜き書きした、徳永さんの「〈自分史〉ハイライト」にあるエピソード(実話)はどれも、たとえば新前医師であれば、医師免許を取得したあと、研修医として「臨床のノウハウ、医療技術の習得、適切な患者対応」を学ぶなかで、また、あるいはベテランの医師であっても、日常の医療現場で迅速な対応を迫られる、たくさんの出来事である。徳永さんに医療者としての「〈自分史〉ハイライト」があると同じように、すべての医療者にも、それぞれの「〈自分史〉ハイライト」があるということを、ぜひ知ってほしいと思う。
 これらの著書を読む行為(読書)は、話し手(著者・徳永進)に、取材記者(聞き手)である私が、何回かのインタビューでまとめた原稿を、編集長に提出する前に、もう一度読み直す、最終の編集作業に似ている。
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【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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