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連載「つたえること・つたわるもの」124

美は芸術家と作品の間に、作品と鑑賞者との間に成立する。

連載 2021-11-09

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先週、東京都美術館にゴッホ展を観に行った。事前予約制だったので、ゆっくり鑑賞することができた。

 今回の展示は、19世紀半ばから1920年代の近代絵画、とくにフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)作品の収集家、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869~1939年)が1938年に設立したクレラー=ミューラー美術館(オランダ)のコレクションから、美術の教科書で見たことのあるゴッホの《夜のプロヴァンスの田舎道》《種まく人》などを鑑賞することができた。また、ファン・ゴッホ美術館(オランダ)からも《モンマルトル:風車と菜園》「黄色い家(通り)》などが特別出品されていた。

 じつはその前の週、『つくるをひらく』(光嶋雄介著、ミシマ社、2021年)を読む機会があり、同書からインスパイアされた気づきが、今回のゴッホ展を鑑賞する上で、より深く豊かなものに導いてくれた。

 同書のなかで思想家の内田樹さんとの対話にふれた、光嶋さんの一文が目にとまった。

 これは、『コミュニケーション力』(斎藤孝著、岩波新書、2004年)のなかで、斎藤さんが「私が考えるクリエイティブな関係性」について、①情報伝達の質を高める【ある知識を持つ人が、もう一人にその知識を伝える→そこで質問が行われ、対話的に情報が伝えられる→聞き手にとっては、新しい意味が獲得される】、②新しい意味の創出【話をすることでお互いにとって新しい意味がその場で生まれるという関係性。聞き手が発した言葉によって自分が刺激され、新しい意味を見つけ出すことがある】(同書13~14ページ要約)によって、二人で「ああ、そうだったのか、気づかなかったね」と喜び合うような瞬間があると述べているが、光嶋さんと内田さんの対話もまた、クリエイティブな関係性のなかで醸成され、跳躍した言葉たちである。

 瞬発力が求められる公開対談のなかで、グンとギアが上がり、対話にドライブがかかったときの(内田)先生の言葉は、特に指南力が強い。聞き手に知的高揚とともに、思わぬ気づきが芽生える言葉には、必ず「命懸けの跳躍」がある。(中略)昨夜の対話でも、そういう展開があった。

 内田先生が萩での《雪舟と山本浩二》展の話から絵画における二次元のなかの三次元性について語られたあとに、「究極には画家たちは、時間を描きたいはずだ」と述べたときの熱量が凄まじかった。評論家であり劇作家でもある福田恆存は、『藝術とは何か』(中央公論社、一九七七)という本の結論部分において「美とは時間の空間化、空間化された時間を意味するものにほかなりません」(一五二頁)と美の本質を時間と結びつけており、昨夜の対話とシンクロする。これも決して偶然ではないだろう。

 なにかをつくる際に「作品について説明しすぎないほうがいい」と内田先生が断言されたときも、どこかバーンと心の窓が勢いよくひらいて、爽やかな風が吹き込んできた。その瞬間、深く呼吸ができるようになった。福田は、同じ本のなかで以下のようにも述べている。

 美の秘密は――美をなりたたせるもっとも重大な要因は――作品のうちには存在しないということを、われわれははっきり知っておかなければならない。美は芸術家と作品のあいだに――あるいは作品と鑑賞者とのあいだに――成立するものであります。
(同九八頁)
(『つくるをひらく』第2章「集団で思考する」76~78ページ)

 ゴッホ展はもちろん、素晴らしいものであったが、あらかじめ目を通していた東京都美術館のウェブサイトに書かれていた説明文から、美の創造者であるゴッホと弟で唯一の理解者であった画商のテオ、いっときは共同生活をしたもののやがて仲たがいしたゴーギャン、そして最後には強度の神経衰弱から自らの耳を切り、拳銃で自殺をはかったそのころから、かれの作品が評価されるようになったこと、そして何よりもゴッホの作品を精力的に蒐集して個人美術館を創設したヘレーネまで、それが直接的であれ間接的な関わり方であれ、ゴッホの絵画という作品とのあいだに、クリエイティブな関係性を築き上げていたことを知った。

 展示作品のなかで、私がもっとも心をひかれたのは、南仏滞在の最後に制作された最晩年(といっても37歳で亡くなった1890年制作)の作品、《夜のプロヴァンスの田舎道》であった。それは夜空を衝くようにそそり立つ糸杉、空に浮かぶ三日月の横の大きな光は金星、その横の小さな光は水星だといわれている。

 印象派の画家がよく用いるアラプリマ技法で、先に描いた色が乾く前に、キャンバスの上で最初の色と混合させながら、独自のブラシストロークでうねりの大きいタッチを描いている。あのダイナミックな迫力に満ちた「美」は、たとえばゴッホと夜空の星々や糸杉とのあいだに、あるいはその作品と私のような鑑賞者とのあいだに、またあるいはゴッホの作品とまだ評価の途上にあった時期にゴッホの作品を積極的に集めて、世界最大の収集家となったヘレーネとのあいだに、それぞれの関係性のなかで成立するものなのだろう。

 さきに紹介した一文にあった『藝術とは何か』からの引用部分が気になって、同書を図書館から借りてきた。福田の文章は少し難解な言い回しが用いられているが、きっぱりと断言する姿勢は小気味よい。

 芸術は技術ではありません。演技ではなく演戯であります。技巧ではなく才能であります。
(『芸術とは何か』「視覚の優位」100ページ)

 福田は、「演戯とは、楽屋における自由を確保するために、舞台のフィクションをうちたてることにほかなりません」(『藝術とは何か』「演戯ということ」39ページ)と述べているが、「演戯」には二つの意味があって、一つは演技(俳優などの芸人が、観衆の前で技を披露すること)、もう一つは演劇(観客を前にして、俳優が舞台上で動きや身振りによって物語を伝える芸術)である。そして、二つ目の演劇(舞台のフィクション)における「舞台」は、画家における「キャンバス(画布)」、文芸作家における「小説(フィクション)」である。これらの「舞台」に求められるのは、小手先の技巧ではなく豊かな才能だという。そして、「美とは時間の空間化、空間化された時間を、意味するものにほかなりません。」と述べている「時間の空間化」、あるいは「空間化された時間」もまた、フィクションという「舞台」とのあいだに成立するものである。

 真に時間を経験するためには、現実のそとに虚偽の行動を、すなわち演戯をこころみなければならぬのであり、そうすることによってのみ時間ははじめて現実とはべつの次元に真の空間化を得るのだ。その意味において、芸術は人生にとって無用であります。が、そういう芸術もまた人生とともに流されてゆく。矛盾でありましょうか。いや、そうではない――人生もまた、なんの目的をももたぬ無用の存在ではありませんか。
(『芸術とは何か』「芸術とは何か――結論として」152ページ)

 今週(11月11日)から始まる、文教大学の社会人向け講座『〈遠藤周作〉――人々の苦しみに寄り添う「人生の同伴者」イエス』は、遠藤さんの作品を読みながら「人生の同伴者」について考える、全五回のオンライン講座である。遠藤さんの小説には、「病いと神さま」を生き抜いた遠藤さんの「人生」が色濃く投影されているが、その「舞台」はドキュメント(実話)そのものではない。もちろんフィクション(小説)である。

 かつて主婦の友社の雑誌で「遠藤番記者」だった私は、遠藤さんの人生を下敷きにした「時間の空間化」、あるいは「空間化された時間」としての作品を手がかりに、【人々の苦しみに寄り添う「人生の同伴者」イエス】について、オンライン参加の受講者とともに考えてみたいと思っている。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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