PAGE TOP

連載「つたえること・つたわるもの」(122)

つねに身構える〈からだ〉、緊張する〈こころ〉の構え。

連載 2021-10-12

出版ジャーナリスト 原山建郎

 文教大学の社会人向け講座、第2回(オンライン)「〈からだ〉をゆるめて〈こころ〉をほぐす」のトピックを紹介する。今回も〈からだ〉と〈こころ〉の関係について、受講者の皆さんと一緒に学ぶ講座だ。

 現代西洋医学では、心(精神)の状態が、身(肉体)の症状にあらわれる、つまり、心の健康なしには肉体の健康もありえないという立場から、「心身(精神身体)医学」ということばを使う。たとえば、1996年に厚労省から標榜科(広告・看板などに表示してよいと認められた診療科目名)として認められた「心療内科」は、本来、心理療法をあつかう診療科目だが、これまでの精神科との違いが曖昧だともいわれている。

 一方、東方医学(インドのアーユルヴェーダ、中国の中医学、日本の漢方などアジア地域の伝統医学)では、「身(からだ)と心(こころ)は、一体のもので、二つに分けることはできない」というホリスティック(統合医療的)な身体観から、「身心(しんじん)一如」という。本講座のポイントは、精神(心理療法)に重きを置く「心身医学」ではなく、まず、身(からだ)をゆるめる動き(働きかけ)によって、気がついたときには、心(こころ)がほぐれていた、という状態をつくり出す「身心医学」の智恵を学ぶことにある。

 私たちの〈からだ〉は、オギャーと泣いて生まれた「生」の瞬間(正確には母親の胎内で育った胎児の時代)から、「老(年齢を重ね)」、「病(病いを得て)」、やがて「死(この世に別れを告げる)」の瞬間まで、水と緑の惑星である地球で幸せに暮らすために、そして〈からだ〉と〈こころ〉が仲良く暮らすために、そのときどきに行き届いた手入れが必要となる「容れ物」としての、「宇宙服(スペース・スーツ」なのである。

 ところで、〈からだ〉の構え、〈こころ〉の構えをあらわす日本語には、身構え、心構え、面構え、気構えなどがある。これを「身心一如」の視点でとらえると、身(からだ)と心(こころ)の両面で相照らす「構え」だということができる。操体法の創始者、橋本敬三医師は、このことを「相関連動(お互いに関わり合い、お互いに連なって動く)」「相関相補(お互いに関わり、お互いに補い合って動く)」と説明している。そのことばから、見栄を捨てて身体知に耳を傾ける〈こころ〉が、嘘がつけない正直な〈からだ〉と連動し、お互いに補い合って生きる〈からだ〉・宇宙服の存在と、〈いのち〉のエネルギー場であることを感じた。

 『〈身〉の構造 身体論を超えて』(市川浩著、講談社学術文庫、1993年)の中で、市川さんはとっさ(無意識)に身構える〈からだ〉の構え(姿勢)について、次のように書いている。

われわれは、めざめているときには、いつも姿勢をとっています。これは意識しないレヴェルでの複雑な反射のはたらきによって可能になります。(中略)姿勢はいわば世界にたいする身構えです。寝ている犬も、物音がすると、さっと身を起こして身構えますね。(中略)姿勢のなかでは、立っている姿勢が一番行動に出やすい姿勢です。したがって立っている状態は、目覚めの状態です。(中略)それについで行動に出やすいのは、座っている姿勢です。寝そべった姿勢では行動に出られない。これは休息の姿勢ですから、地震でもあると、立たないまでも座り直します。昔は「本を読むときは、ちゃんと正座して読みなさい」とやかましくいわれました。これはめざめさせる姿勢という点からいっても、一理あります。(中略)

 めざめているかぎり、われわれは姿勢をとり、行動のために身構えています。いかにくつろいでいるようにみえても、実は肩を怒らせ、世間に対して身構えています。だから意識して肩をゆるめて下さい。肩が五、六センチは下がるでしょう。またわれわれは社会的動物ですから、世間に対して顔を作っています。そこでこんどは頭と顔の皮を意識的にゆるめてみて下さい。頭皮が数ミリは前に出て、口がつき出すのがわかるでしょう。われわれは無意識のうちに口を引きしめ、まなじりを決しています。もう一つはあごですね。あごというのは重いのです。いかに重いかは、電車のなかで頭をうしろにもたせかけて眠っている人を見ればわかります。パクッと口があいて、実に何とも痴呆的な顔になっています(笑)。
(『〈身〉の構造』40~42ページ)

 市川さんがいう「姿勢はいわば世界にたいする身構え」とは、とっさに(無意識に)とあるように、まず〈からだ〉の身体知が先行して、〈こころ〉の頭脳知が一瞬、遅れて〈からだ〉の反応を知覚する。「世界にたいして」とは、一つは「自然環境の変化」への対応、もう一つは「人為的環境の変化」への対応である。

 9月30日(木)の夜10時過ぎ、私が住んでいる千葉県北西部を震源とする震度5弱の地震があった。デスクの前に坐って、パソコン作業をしていたが、突然、スマホの警報音が鳴り、緊急地震速報が始まった。

 机上のディスプレイ画面が大きく揺れたので、あわてて椅子から立ちあがり、パソコンの電源を切り、次にあたま(こころ)の中で、棚の上から落下物はないか、ガスの元栓の締め忘れはないかと考えながら、家中の緊急点検に走りまわった。あたまで考えて判断するより先に、からだが勝手に反応していた私だった。

 しかし、そのあとしばらくして気がゆるみ、ベッドに横になったと思った瞬間、すぐに爆睡した(らしい)私は、翌朝までぐっすり眠ってしまった。寝ている間に、大きな余震がこなくてよかった!

人目のあるところでは身構えてしまいますから、誰もいないところで寝ころんでみて下さい。そして意識的に全身を少しずつゆるめてみて下さい。ヨガのくつろぎのポーズです。寝ころんでいても、われわれはめざめているかぎり身構えています。お腹の具合がわるいときお医者さんにゆくと、ベッドのあお向けに寝かせられて、触診されます。そのとき必ずといっていいほど「お腹の力をぬいて」といわれます。寝ころんでいてもわれわれは腹筋を緊張させているのです。「眠っているときは童顔になる」といいますが、それは眠ると世間に対する身構えが解けるからです。しかし眠っていても苦悶の表情をしたりして、業の深い人の身構えはなかなか解けません(笑)。(中略)さきほどのべたヨガのくつろぎのポーズをとってみると、どれほどわれわれが、からだのあちこちを緊張させて世間に身構えているかがわかります。からだの構えを変えると心の構えも変わり、その逆もいえる。〈身〉がからだこころも含んでいるように、身構えはからだの構えでもあればこころの構えでもあります。精神修養は、まずからだをととのえるところからはじめ、からだをきたえるスポーツマンが、気力や気合を重視するという逆説は、ここから生まれます。
(『〈身〉の構造』42~44ページ)

 とっさに身構えるといえば、今般のコロナ禍でしょっちゅう耳にする「ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)をとる」、「3密回避」という感染拡大防止のための安全標語もまた、他人との物理的接触を避ける社会距離(1.5~3.5m)をとる行動(身構え)のことである。もう一つ、他人との間隔を近づける個体距離(パーソナル・ディスタンス)は、親しい友人や仕事の仲間との個体距離(45cm~1.2m)をいうが、逆に考えると、あまり親しくない他人にこれ以上近付かれると不快に感じる空間距離、パーソナル・スペース(心理的縄張り)でもある。今冬、コロナ禍拡大の第6波を回避するためには、自分の家以外ではエアロゾル感染(飛沫・空気感染:1~2m)の恐れもあるソーシャル・ディスタンスより、パーソナル・ディスタンスを意識して、パーソナルスペース(自己防衛的な心理的縄張り)の心がけが、より重要ではないだろうか。

東京に住んでいると、過密都市ですから、人とからだが触れあうことをあまり気にしなくなりますが、それを好んでいるわけではありません。電車がすいているときはぽつんぽつんと離れて座っています。東京の喫茶店はこんでいますから、よく相席(あいせき)をたのまれます。皆さんは紳士淑女ですから、「相席よろしいですか」とウェートレスにいわれると、「ああ、どうぞどうぞ」といいますが、本当は結構だとは決して思っていない(笑)。むしろ不都合だと思っている。相席になるとどうも落ちつかないんですね。

 四つ座席があって、たとえばこっちが左側に座っているとしますと、相手の人は斜め右の席に座る。正面には絶対座らない。また横にも座らない。つまり、こっちは私空間、そっちはあなた空間というわけで、ちゃんと分けるのです。ただ二人席のときは非常に具合が悪い。互いに斜めに身を構えて視線を外し、身の拡がりが交叉しないように私空間をつくるわけです。そして目が合いそうになるとパッと行きすぎて身の拡がりの衝突を避ける(笑)。】             
(『〈身〉の構造』21~23ページ)

 元大阪大学総長の鷲田清一さんは、漢字の「身体」をひらがなの〈からだ〉ととらえる哲学者(臨床哲学・倫理学)。ユニークな身体論を著した好著『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年)から、①〈からだ〉に宿る〈ゆるみ〉〈すきま〉の感覚、②〈からだ〉に宿る〈案配〉〈加減〉〈融通〉の感覚を、一部を抜き書きした。まず、①〈からだ〉に宿る〈ゆるみ〉〈すきま〉〈あそび〉の感覚について、こう書かれている。

遊戯としての遊びは同時に、遊隙(ゆうげき)つまりゆるんだ空間の遊びでもある。日本語でもそうだがドイツ語でもこの遊隙は「遊びの空間」と呼ばれる。すきま、ずれ、わずかな隔たり、余地、そういう間合いが「シュピールラウム」(Spielraum)と言われるのだ。この「遊びの空間」がなければ、たとえば歯車はたがいにぎしぎしと擦れ、きしみあってスムーズに動かない。噛み合う二つの歯車のあいだに遊びがあるというのは、二項の運動がつねにわずかにずれてしまって、過不足なく一致することがないということだ。しかし遊びはあくまでも適度のものでなければならないのであって、遊びが大きすぎてもやはり歯車は回転しない。遊びが大きすぎると、それはそもそも歯車の遊びですらなくなる。間は開きすぎても閉じすぎてもだめなのだ。

 遊びはこのように融通のきく<すきま>のことを言うにしても、しかし遊びそのものもまた<あそび>を失うことがある。ふけること、おぼれること、限界がないこと、つまりは耽溺という状態、ほどほどということが欠如した状態である。(中略)遊びはこのとき、遊びをとおり越して身を滅ぼすという辛い現実となってしまう。一つの方向だけに行きっぱなしになってしまうことが、いちばん危ないのである。
(『悲鳴をあげる身体』175~176ページ)

 次に、②〈からだ〉に宿る〈案配〉〈加減〉〈融通〉の感覚、いかにも日本人的な感覚である。

ついでに言っておけば、「ほどほど」とか「適当」、あるいは「按配」「加減」「融通」、これらはほんとうは経験をたっぷりと積んだ人びとの深い智恵を表すはずの言葉なのだが、適当に済ますやつだとか、いいかげんなやつというふうに、あまりいい意味では使われないことが多い。とりわけ医師や教師、公務員に、按配や加減という曖昧さを嫌うひとが多いようである。正確さや精密さ(たとえば科学的な、お役所的な)へのこだわりがとくに強いのかもしれない。

 しかし、たとえば他人とのつきあいでここが引き際だと判断すること、じぶんの身体でそろそろ限界だと感じること、子どもに対してここで一言言っておくべきだと考えること、仕事でそろそろ潮時だと思うこと、これらの判断や感覚も精密ではないだろうか。ひょっとして、科学者や役人の下す判断以上に。
(『悲鳴をあげる身体』176ページ)

 本講座のメインテーマ「〈からだ〉をゆるめて〈こころ〉をほぐす」から考えると、〈からだ〉に宿る〈ゆるみ〉〈すきま〉〈あそび〉〈案配〉〈加減〉〈融通〉は、すべて「ゆるみ・ほぐし」につながるものである。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

人気連載

  • マーケット
  • ゴム業界の常識
  • 海から考えるカーボンニュートラル
  • つたえること・つたわるもの
  • ベルギー
  • 気になったので聞いてみた
  • とある市場の天然ゴム先物