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連載「つたえること・つたわるもの」(163)

〈自分史〉ハイライト-医療者の感動-ナラティブ・アプローチ

連載 2023-06-28

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先日、文教大学(越谷・湘南・東京あだち校舎)のオープン・ユニバーシティ(社会人向け教養講座)の春学期第1部『遠藤周作の遺言――「心あたたかな病院」がほしい その1』(5回講座)が終わり、先週から越谷校舎で、春学期第2部『エピソードで綴る〈自分史〉ハイライト』(5回講座)が始まった。この講座では、毎回、与えられたテーマ(思わず涙したこと/心から感動したこと/大切にしていること……)に沿って、受講者全員が1分間スピーチを行い、その話の内容に原山講師が助言・添削しながら200字詰め原稿用紙にまとめる演習を行い、最終日に4回分を文集にして、受講者全員に配布する。

 また、やはり来週火曜日から始まる、あだち区民大学塾(東京・北千住)『遠藤周作の遺言』(全3回)の3回目『「心あたたかな医療(病院)」運動を支える女性たち』の配布資料を作りながら、もうひとつの『エピソードで綴る〈自分史〉ハイライト』について考えてみた。

 この講座でとり上げる「心あたたかな医療」運動を支える女性たち、たとえば、在宅看護センター代表・村松静子さん、在宅ホスピス医・内藤いづみさん、大腸肛門科の女医・山口トキコさん――たちが、医療者を志すきっかけとなった「〈自分史〉ハイライト」には、いったいどのようなエピソードがあったのだろうか。

 ☆「君たちのしていることは、すごいことなんだよ。お金を出して、当たり前のことなんだ」
 雑誌『なぜ生きる』2023年6月号(1万年堂出版)に掲載された、スーパー看護師・村松静子(せいこ)さんの記事『「心の風景」が幸せになる看護を求めて』にあった、日赤短大時代の実習で担当したある女性がん患者との出会いと別れ、若き日の村松さんの心に今も残る「〈自分史〉ハイライト」である。

 「患者さんと契約を結び、主治医と連絡を取りながら、プロの看護を提供する仕組みです。親交のあった作家の遠藤周作さんが応援してくださったことは心強かったですね」(中略)

 そんな未知の荒野に踏み出す村松さんの脳裏に、ある一つの情景がよみがえってきた。

 その患者は村松さんが日赤の短大一年生の時に担当した四十二歳の女性。髪を丁寧にシャンプーするととても喜んでくれた。その二年後の実習で村松さんは、再入院していたその女性の病室に、重症を示す赤いマークがついているのを見つけた。

 看護師長に聞くと、「脳に転移しているから、あなたのことはきっと分からないと思うわよ」と言われたが、ノックして病室のドアを開けるとすぐに「あ、高橋さん(村松さんの旧姓)でしょ」と言われたので驚いた。

 「背中をさすっていると、お昼ご飯が運ばれてきて、その方が言われるのです。『今だけでいいから、私の娘になってちょうだい』って。おかゆの食事の介助を終えると、『あなたに会えるの、これが最後だと思うの……。今日は本当によかった。ありがとう』とおっしゃるのです」

 数日後、寮で休んでいた村松さんが、ふと彼女の気配を感じて病室に駆けつけると、十五分前に息を引き取り、霊安室に移されたという。そこには、十代の息子が一人、泣きながら立っていた。

 「親一人子一人。彼女はどんな思いで亡くなったのか。息子さんはどんなにつらいだろう。どうしたらいいか分からず、当時の私は、そばに行って手を合わせることしかできなかったのです。あの時の光景は、ずっと私の看護の原点として残っています」

 苦悩の人の傍らにあって、何ができるのか、看護とは何か、人が生きるとは……? そうした問いの答えを、村松さんは在宅看護の場に求めていく。

(『なぜ生きる』2023年6月号、4~6ページ)

 ☆「医者というのは神父といっしょで、人間の魂に手を突っ込む仕事だ」
 「最期は住み慣れたわが家で過ごしたい」と願う、終末期患者とその家族を24時間、365日、休むことなく、心身両面でサポートする在宅ホスピス医、内藤いづみさん。『看取るあなたに――終末期医療の最前線で見えたこと』(内藤いづみ他著、河出書房新社、2017年)のなかで、40年ほど前、「がん告知(インフォームド・コンセント)」のない時代、まだ新前医師だった内藤さんが担当した女性患者との出会い/退院・家族との時間/在宅での看取り……、このときの「〈自分史〉ハイライト」が、在宅ホスピス医・内藤さんをしっかり支えている。

 がん告知のない時代でしたから、患者さんに近寄って「今、何が辛いですか? 痛みが取れたら一番したいことは何ですか?」と尋ねることも許されませんでした。「死ぬのが怖い」と本音を訴えることもできないまま、患者さんたちは衰弱していき、家族は十分な会話もできず、やり切れない深い悲しみと後悔を残したまま、永遠の別れになるのが常でした。

 当時のがん医療の主流のやり方に私は納得できませんでした。そして、医者になって三年目の年、大学病院に入院していた二三歳の末期がんの女性との出会いが、ひとつの転機となりました。

 病院に居続けても治る見込みは小さい。でも、家に帰れば今を生きていく希望がある。――そんな本人と家族の希望通りに私は彼女を退院させ、彼女の家で家族と共に寄りそって看取ることができたのです。

 彼女は毎日笑顔で「病院には底なしの怖さがあった。でも、今は何も怖くない。父と母と妹に囲まれて幸せ」と言ってくれました。私もニコニコと笑いながら穏やかにそばに居ることができました。彼女の笑顔は、今も思い出す度に私を支えてくれます。

 国の在宅ケアシステムも、ホスピスも、見本も何もない三〇年以上前のことです。そして、目の前のいのちに、どう寄り添うか? 苦しみに悩む人のために何ができるのか? という実践が私の死生観も鍛えてくれたのです。その後、私はイギリスのスコットランドに移り住み、文化を(死生観も含めて)学びながら子育てもして、幸いにホスピスケアの道に辿り着くことができました。がん患者の痛みはトータルペインである、まず患者の身体の痛みを緩和しなさい、と説く、シシリー・ソンダース女医からセント・クリストファー・ホスピスで教えを頂くこともできました。もちろんその道のりは山登りにも似て、美しい風景や峠の茶屋の休憩があれば、険しい難所もあり、笑いも涙もありました。子ども三人を夫とふたりでおぶったり手を引いたりして山道を登り続け、子どもの手はやがてひとり、ふたり、三人と離れていき、今は夫とふたりの旅です。

(『看取るあなたに』「未来へいのちの切符を手渡す」20~21ページ)

 ☆「どうだ、トキちゃん、肛門科の女医にならんか」
 マリーゴールドクリニック院長の山口トキコさんは、遠藤周作さんから「どうだ、トキちゃん、肛門科の女医にならんか」と勧められたことがきっかけで、大腸肛門科のドクターになった。元弘前大学学長で内科医の吉田豊さんが、『医者がみた遠藤周作――わたしの医療軌跡から』(吉田豊著、プレジデント社、2003年)の「遠藤さんの遺志」と題して、遠藤さんから山口さんが肛門科の女医になることを勧められたシーンを書いている。これは、山口さんにとって大切な「エピソードで綴る〈自分史〉ハイライト」である。

 以前、遠藤さんと会ったとき、たまたま同席した女子医学生がいた。遠藤文学の愛読者で、同時に遠藤さんが座長を務める素人劇団・樹座の女優でもあった。その女性に向って遠藤さんがこんなことを言いだした。

 「日本では産婦人科の女医さんが増えているのに、どうして肛門科には女医さんがいないのかなあ。肛門科医といえば、男ばかりでしょう。若い女性の患者なら、男の先生にむかってお尻を出すのはやっぱり恥ずかしい。どうです、あなた一つ、女性のための肛門科医になってくれませんか」

 女子医学生は困ったように笑うだけで、頷くことも否定することもしなかったが、数年後、彼女は本当に肛門科医の道を選んでいたのである。そして都内でも有名な病院
(※社会保険中央病院=現東京山手メディカルセンター)の大腸・肛門科で外科を担当していた。

そうなってまた、わたしは遠藤さんとその女医さんと一緒に食事をする機会があった。勇敢にも大腸・肛門科を選んだことに、わたしは敬服し、励ましの言葉を口にしているとき、遠藤さんが彼女に言った。

 「あなたはそのうちに開業するのでしょう? しかしね、女性の患者が大腸・肛門科などと書かれた病院に入っていくときは、たいへんな思いをするものですよ。だからね、開業するときには、患者さんたちが恥ずかしい思いをしないですむよう病院名にするといいね」
そして遠藤さんは、持ち前のユーモア精神から、「たとえばだね、〈アフターF〉なんていうのがいい」その言葉に、彼女もわたしも思わず首をかしげた。すると遠藤さんは、イタズラっ子のような顔になって言った。

 「アルファベットのFのあとはなんですか」

 わたしたちは声をそろえて答えた。

 「あっ、Gだ」

 そして見つめ合って笑った。もちろん、「G」は「痔」であったことに気づいて。それから何年かして遠藤さんは亡くなり、彼女は病院を退職して赤坂にクリニックを開業した。送られてきた案内状を見ながら、わたしは彼女がつけた病院名をしみじみと眺めた。そこには、「マリーゴールドクリニック」と書いてあった。

 マリーゴールドか、とわたしは唸った。

 わたしはたまたまその花を知っていた。キク科センジュギク属の小さな花である。見方によっては人間の肛門のようでもある。この名前なら、女性患者たちも抵抗感はないにちがいない。人に見られても、エステティック・サロンにでも入っていったのかと思われるにちがいない。彼女にふさわしい、いい名前だとわたしは思った。そして、たしかに遠藤さんの思いが生きていると頬がゆるんだ。

(『医者からみた遠藤周作』「遠藤さんの遺志」134~136ページ)

 ☆「どもり」をチャンスにした、神山医師のナラティブ・アプローチ
 「エピソードで綴る〈自分史〉ハイライト」といえば、『あきらめない!もうひとつの治療法――現代の名医21人の挑戦』(原山建郎著、厚生科学研究所、2006年)の第1章「ドクターを志すきっかけは、自分自身の病気からだった」で、神山五郎さんが医師への道をめざした理由は「私はどもりだったから」と述べている――マイナスの物語りという名のケア――究極のナラティブ・アプローチである。

 「医師になろうと思ったのは、自分のどもり(吃音)がいちばんの理由です。患者本人には重大な問題であっても、それが生命に関わるわけではないというだけで、積極的な医療が行われず、きちんとした研究も進められていない。そういう病気は吃音だけでなく、ほかにもたくさんあるのです」

 かつて幼稚園時代の神山少年は「ゴロちゃんは早口だからわかりにくい」と言われはしたが、どもりを意識することはなかった。しかし、小学校に上がるや、不合理な減点採点法(欠点を主とした評価法)による授業が進められ、神山少年の「吃音」が始まった。
(中略)

 吃音という障害をもつ神山さんは、どもりをもったままでの生活であっても、葉書は書けるし、ファックスも発信できる。話す言葉以外にも、残されている機能は多いと考えた。

 「もちろん、うんとゆっくり話せば、ちゃんと話せます。まず人さまの話はゆっくりよく聞いて、そして、圧縮した表現を用いて、わかってもらえるように返事をするように心がけています。また、講演の始めに自分が難発性吃音者で、緊張するとどもってしまうことを白状してしまうか、そのことを告白した文書を事前に配布しておく。どもりというのはこういうことだと、最初にどもりの真似をする。いや、真似じゃないですね、自分はどもりなんだから(笑い)。そうやって自分のどもりを話題にして、自分のことを笑う。そうすると相手も笑ってくれる。こちらも話しているうちにリラックスする。そこから先は、もうどもらないで話せちゃうんです(笑)。これで吃音者の講演というピンチをチャンスにできる。私はどもりであったから、こういうことを学べた。だから、ほかのことでうんと得をする。これが私流のリハビリなのです」
(中略)

 近年、「ナラティブ・ベイスト・メディシン(物語りに基づく医療、対話に基づく医療)」、あるいは「物語としてのケア(セラピー)」をめざすナラティブ・アプローチが注目されている。今回のルポは、はからずも神山さんの吃音というキーワードから、約80年間におよぶ時間軸、空間軸の上で繰り広げられてきた人生曼荼羅をそのままトレースすることになった。

 かつては吃音に悩んだ神山少年だったが、いまその同じ吃音が温厚篤実な神山医師をつくり出した。神山さんが自分の人生を語り、その言葉に私たちが耳を傾ける。このことこそが、まさにナラティブ・アプローチの神髄なのであるまいか。

(『あきらめない!もうひとつの治療法』42・49~50・52ページ)

医療現場で語られる生と死の〈臨床〉
――患者とその家族/医師と看護師がつむぐ、いのちの〈自分史〉ハイライト。
その感動が〈人生〉のすべてを癒す。医療者の物語という名のターミナル〈ケア〉
――究極のナラティブ・アプローチ。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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