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連載「つたえること・つたわるもの」156

農業と漁業の工業化→大量生産・大量消費→食品ロス・食料安全保障。

連載 2023-03-14

出版ジャーナリスト 原山建郎
 昨年2月に始まったロシアによる「ウクライナ侵攻」長期化によるエネルギー(石油、天然ガス)や穀物(小麦)などの原材料価格の高騰は、急激な円安による輸入コストの上昇、コロナ禍による物流の混乱などの影響もあり、食品メーカー各社は大幅な値上げを発表している。とくに世界有数の小麦生産国であるロシアとウクライナの小麦輸出量が激減している現状では、世界の食糧事情は悪化の一途をたどるばかりである。

 小麦といえば、日本三菱総合研究所・稲垣公雄研究員のコラム『食と農のミライ』「食料自給率と安全保障第1回」の中に、米と小麦の消費量についてわかりやすい解説があった。同コラム(2023年1月12日)の一部(※青字表記)を引用しながら、いま話題の「食料安全保障」について考えてみよう。

 コメの消費量は、昭和30年代のピーク時は1人当たり年間120kgだったが、現在は年間約50kgと半分以下になっている。年間120kgは、おおむね毎食ごはんを2膳ずつ食べる量になる。要するに昭和30~40年代前半の日本人は、主食はほぼコメしか食べていなかった。

 コメの消費減の理由としては一般に言われるように食に対する嗜好の西洋化・多様化、という面もあるだろうが、もう一つの要因として「価格が高い」ことが指摘できる。小麦を代表とする「安い輸入食品を選べるようになった」結果、日本の消費者は輸入食品を選択するようになった。
(中略)

 実質的に昭和40年代から現在にいたるまで、コメの総生産量の政策的コントロール(ないし誘導 ※減反政策や米の買い上げなど)と、価格維持政策は継続している。もし、同じように作れる料理であるならば、コメを原料にするよりは、小麦を原料にする方が安いため、食品製造業や外食産業からすれば、小麦を使った製品開発の方によりインセンティブ(※意欲を高めるための動機づけ)が働くと考えられる。すなわち、食料自給率の低下は、政策による一定程度の誘導を前提とした、国民の選択の結果だと考えることができる。
(『食と農のミライ』「食料自給率と安全保障第1回」)

 輸入小麦の買入価格が円安、「ウクライナ侵攻」で高騰しているのであれば、日本国内の小麦生産量の増大(小麦の自給率アップ)を図るという「食料の安全保障対策」があってもよさそうなものだが……。 

 小麦の自給率を高めること自体は悪いことではない。しかし、現在、自給率が低いものを国内生産にシフトすることは、基本的に安く買えるものを、高く作るしかない国内生産に切り替えていこう、ということになる。輸入小麦は約500万トンの金額が2,300億円、すなわちトンあたり5万円弱である。国内での実質生産コストはどうしても同15万~20万円程度はかかるだろう。(中略)もちろん、「もっと国内農業の生産性を高めて、欧米やオーストラリアに対する競争力を持てるようにするべきだ」というのは1つの正論である。しかし、現時点では、いま現在のコスト構造でしか生産できない。当然ながら、農業生産者にそのコストを負担してもらい、安い価格で売ってください、ということはありえない。政策として「食料安全保障の観点から小麦の生産を増やそう」ということであれば、そのコストは政府、すなわち国民が負担することになる。
(『食と農のミライ』「食料自給率と安全保障第1回」)

 東日本大震災の前年(2010年9月10日)、東京大学大学院・本間正義教授(当時)を座長とする外務省の「食料安全保障に関する研究会」が、食糧安全保障の方向性について、3の提言(報告書)をしている。

 ①平時と有事の両面で考える。/②食糧安全保障は、国内生産、備蓄、輸入の3点セットで対策を考える。/③現状・将来のリスクをとらえて、上記(※2)3点セットのバランスを考える。

 たとえば「平時と有事の両面で考える」における近年の〈有事〉には、2011年の東日本大震災、2020~2023年の新型コロナウイルス感染症の拡大、2022~2023年のロシアによる軍事侵攻・急激な円安進行などがある。また、「国内生産、備蓄、輸入の3点セット」のうち、〈平時〉の国内生産、とりわけ食糧安全保障における農業政策のあり方をどのように考えてきたのか、その立ち位置がいま問われているのではないだろうか。

 かつて、玉川大学工学部で現代文明論を講じたことがある。この授業では、中学・高校時代に学んだ歴史知識をおさらいしながら、「世界四大文明の発祥」からスタートした。キーワードは「文明」と「文化」である。その当時、私が寄稿していたコラム『トランネット通信』№128(「農」という“文化”を耕す “尊徳感情”のたくましさ)でとり上げたことがあるが、その内容をざっくり要約して紹介しよう。

 「現代文明」を考えるうえで、「世界四大文明」がそれぞれナイル川、チグリス川・ユーフラテス川、インダス川、黄河という大河の流域で発祥したことが大きな意味をもつ。毎年、雨期になると川が氾濫して上流から肥沃な土が大量に運ばれ、そこに形成された広大な平野では定着型の農業が可能となり、そこに近代農業の原型が誕生した。農業を英語でいうとアグリカルチャー(agri-culture)だが、これはラテン語のagre(=field)+colere(=work at)からきた言葉で、「土地を耕す」ことをさす。ここに天文学(洪水や旱魃の予測)、灌漑・耕作の技術、土壌改良などの「技術革新」が加わり、その地域固有の「食(農業)の文化」を周辺地域に広げていくことが可能になった。

 これはまったくの私見だが、農業における耕作(栽培)方法の技術革新(ある意味でこれは農業の工業化ともいえる)と、周辺の都市(で暮らす市民)への輸出をともなう一連のプロセス、究極的には世界標準化(global standard)までをまるごとひっくるめて、「文明(civilization)」だとは考えられないだろうか。

 たとえば、『17歳のための 世界と日本の見方』(松岡正剛著、春秋社、2006年)の帯カバーには、「足し算の“文明”。引き算の“文化”。」と書かれている。また、『文明のなかの科学』(村上陽一郎著、青土社、1994年)で、科学史家・村上さんは「文明」と「文化」の違いをおよそ次のように説明している。

 civilization(文明)の語源は「市民」や「都市」に由来し、culture(農業)の語源は「農耕」に由来する。「文明」は、「人為(artificial)」と「自然(nature)」との対立を強調し、人為による自然の支配、管理、制御を目指すものである。 文明には二つの攻撃的な性格がある。一つは、自然に対する攻撃性であり、もう一つは、他の文化に対する攻撃性である。文明とは、普遍化を意志し、その意志を実行に移す装置を備えた文化である。その支配欲は、他の文化や自然に対して発揮される。その意味で、現代西欧文化は文明だが、現代日本文化は文明ではない。授業では、かつて固有の自然(地勢的・気候的)条件とともにあった「農耕“文化”」が、あるとき「四大文明(農業革命)」によって足し算された「農業“文明”」となり、それが産業革命による足し算で「機械文明」に変貌し、やがて現代の「IT“文明”」へと加速する大きなうねりを、「真の豊かさ」という視点でとらえようと、昭和21(1946)年生まれの私が「ゆとり世代」の学生たちに呼びかけた。

 本来は、その土地固有の気候や土壌に育まれた「農耕“文化”」であった農業が、新しい農業機械の導入、遺伝子組み換え作物などによる「工業化」が急速に進み、その結果、二十世紀後半の「大量生産“文明”」が可能にした「大量消費」の大波は、バブル景気に代表される高度経済成長に大きく貢献した。そして、その最終到達地点である“大量廃棄”という名のブラックボックスは、近代経済を支える「大量消費」の火を消さないために「エコロジー」「リサイクル」などの甘い言葉でマスキングされているかに見える。

 ところで、「食品ロス」とは、本来食べられるにもかかわらず捨てられている食品の可食部のことで、①流通段階での減耗・期限切れ、②直接廃棄(調理前食材のロス、調理済み食品のロス)、③(外食などでの)食べ残し、④過剰除去(調理くずのうちの可食部)がある。農林水産省が昨年6月に公表した「食品ロス量(令和2年度推計)」によると、廃棄物処理法における食品廃棄物は事業系食品ロスが275万トン、家庭系食品ロスが247万トン、合計で全体の食品ロスは522万トンであった。これは10キログラムのお米(コメ袋)に換算すると5億7千2百万袋に相当する量で、いま世界全体がグローバルサウス(アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの地域に含まれる発展途上国や経済新興国)の国々に援助している食糧支援の約2倍である。

 それでは、食品ロスを最小限にとどめる対策はないのだろうか。たとえば、「市場に出荷されない形の悪い野菜を安く買うなどの仕組みを作ったらよいのではないか」と考えてみたが、ことはそう簡単にはいかないようだ。『そのとき、日本は何人養える?』(篠原信著、家の光協会、2022年)に、次の一文があった。農業の工業化(大量生産・大量消費の上に成り立つ大規模・機械化農業)が急速に進む中で、SDGs(持続可能な社会)を実現することの難しさを感じさせられる、篠原さんのキツーイひと言である。

 ある企業から「こんなビジネス、エコなのでは?」と相談された。食品ロス(まだ食べられるのに捨てられているもの)を減らすため、野菜農家が棄てている形の悪い野菜を買い取り、消費者に安く販売すれば、農家は売り物にならないものが現金になるし、食品ロスは減るし、三方よしなのでは? という話だった。

 私は「農家の生活を破壊するからやめときなはれ」と止め、次のように説明した。

 野菜を安く買った消費者は、スーパーに並ぶ妥当な価格の野菜に手を出さなくなる。お腹一杯だから。すると、まともな値段の野菜が売れず、形の悪い野菜のわずかばかりの代金しか農家は手にできない。

 捨てられるものをムダにせず、有効利用するのは善意に見える。けれど、農家には家族がいる。年寄りを医者に診せたいし、子どもに教育を受けさせたい。それには現金がいる。その現金の入手方法を、善意が破壊してしまいかねない。

(『そのとき、日本は何人養える?』「飢饉はなぜ起きる?」48~49ページ)

 もうひとつ、食品ロスを考える上で、漁業の工業化(大量漁獲)、混獲で廃棄される目的以外の魚介類がある。二人のドイツ人ジャーナリスト、シュテファン・クロイツベルガー(環境、消費者問題、国際的開発協力を専門とするジャーナリスト)と、バレンティン・トゥルン(テレビのドキュメンタリー番組などを制作する映画監督)による共著『さらば、食料廃棄――捨てない挑戦』(長谷川圭訳、春秋社、2013年)に、「魚が絶滅する理由」と題する驚きのレポートが載っていた。釣り用語で「外道(げどう)」といえば、狙っている本命以外の魚、釣れてもたいして嬉しくない本命以外の魚に使う言葉だが、「混獲(意図していない他の魚を含めて獲ってしまう)」では、「外道」の魚介類は廃棄されてしまうという。

 私たちの食品廃棄が最も悲劇的な結果を生んだ例として、同じく(※ドイツ政府からの)補助金の上に成り立っている漁業を挙げることができる。漁業も世界的規模の産業であり、年間九〇〇〇万トンの魚介類(※養殖を除く)を捕獲している。このとき、漁の対象にもよるが、獲った魚介類全体の最大八〇パーセントが、意図せずに同時に漁獲された〝混獲〟で、これらは殺され、つぶされ、あるいは死にかけのまま海に返される。
(中略)地中海のクロマグロの生息数は、かつての二〇パーセントにまで落ち込んでしまった。そしてその漁獲高は、クロマグロが今後も存続するために許容される漁獲量の三倍という。北海のヨーロッパ産タラも同様だ。それでもこれらを食べるというのは、無神経かつ悪趣味だ。

 二〇〇九年、ドイツ人一人あたりの魚介類消費量は、過去最大だった二〇〇七年の記録を超え、一五・七キロとなった。この消費熱に応えたため、ヨーロッパの魚資源の四分の三は明らかに乱獲された。数字を見ればその恐ろしさが分かるだろう。店で販売されるシタビラメ一キロにつき、カレイなどのほかの魚が六キロ、ゴミとして海に投げ捨てられているのである。人気の高い北海産の小エビ(グラナート種)の漁で捕れる海産物の五〇パーセント近くが混獲である。その大部分はタラの稚魚で、海に返されるときにはそのほとんどが生存能力を失っている。こうして若い命、すなわち資源の根本が失われていく。

(『さらば、食料廃棄』「魚が絶滅する理由」160~161ページ)

 すでに、本コラム№90「令和のニューノーマル、必要なものを・必要なときに・必要なだけ。」で紹介したが、地球規模での「食品ロス」を考える手がかりに、農事評論家・原田津さんの著書『食の原理 農の原理』(農山漁村文化協会、1997年)から、もう一度、同じ言葉を再録する。原田さんがいう「農の原理」を「漁の原理」と置き換えて、「獲って食べて余ったら分ける」としても、同じような意味合いになる。

 「作って食べて余ったら分ける」というのが農の営みの原理であります。余る部分がいくら多くなっても原理は変わりません。また、「分ける」でなくて「売る」であっても原理は変わりません。商業は仕入れたもので生活することはできない。それを売ることによって金を得て、それで食うものを買う。工業はむろん生産物の自まかないで生活するわけにはいきません。(※自賄い:工業は生産物をそのまま売るのでなく、加工して売るという意味)サラリーマンというのは労働を売って月給を得る。農家は? 労働を生産物に込めるのです。労働とは生活です。労働と生産が切れていない。生活することによって生産し、生産することによって生活している。労働を売るのでなく、労働して育てた物を食べて生活する。余った生産物は金に換えて、テレビがほしければテレビを買う。
 (『食の原理 農の原理』「序章 食と農とは同じ原理をもつ」12ページ)

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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