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連載「つたえること・つたわるもの」152

「お父さん、遠藤とかいう、男の人から電話だよ」

連載 2023-01-10

出版ジャーナリスト 原山建郎
 ことしは、遠藤周作さんの没後27年、生誕(1923年3月27日)100年という節目の年にあたり、長崎市の「遠藤周作文学館」、町田市の「町田市民文学館ことばらんど」で、さまざまなイベントが企画されている。

 私が講師をつとめている文教大学(越谷・東京あだち・湘南キャンパス)のオープン・ユニバーシティ(社会人向け教養講座)でも、遠藤周作生誕100年記念講座、『遠藤周作の「病い」と「神さま」――心あたたかな医療の源流を探る』(仮題)を開講する予定である。

 遠藤さんはよく電話をかけてきた。まだ、スマホ(携帯電話)がなかった時代だったから、もちろんダイヤル式の黒電話(固定電話)である。主婦の友社に入社した当時(1960年代)は、「代表電話番号」にかかった電話を交換台で内線に振り分けていたが、ようやく部署ごとのダイヤルインになっていた。

 遠藤さんは、編集部によく電話をかけてきた。ときには、休日にわが家の電話が鳴ることもあった。
その当時、雑誌『わたしの健康』で、『遠藤周作の「治った人、治した人」』という連載対談企画を担当していた私は、作家の小説担当を「(小説)番記者」と呼ぶのに対して、自らを「からだ番記者」と呼んだ。

 かつて遠藤周作ファンクラブ機関紙『周作クラブ』に寄稿した『からだ番記者レポート』(※一部加筆)を再掲しながら、遠藤さんからの電話で伝えられた「心あたたかな医療」への祈りについて、改めて考えてみたい。

☆遠藤さんからの電話
 朝の一〇時、編集部の電話が鳴った。

「いま、山の上ホテルの食堂におるんだが、朝飯を食いにこないか」

 主婦の友社は、東京・御茶ノ水にある山の上ホテルから数分の距離にあり、机上に「打合せ、帰社予定一二時」とメモを残して、メインダイニングに急ぐ。「お早うございます」とご挨拶すると、読みかけの朝刊を閉じて「おう」と返事があり、朝食(私は早めの昼食)をご一緒する。原稿締め切り「缶詰め」明けで、少々お疲れぎみだがご機嫌はまずまず。

 食後のコーヒーも含めて三十分ほど雑談して、「それじゃあ、ご苦労さん」と、新聞を手に部屋に戻られた。無類の寂しがりや、なのである。

 仕事の合間に、赤坂のM歯科医院でむし歯の治療中、編集部から至急連絡をとの電話が入った。すぐに治療を中断して、待合室の公衆電話から遠藤さんの事務所に連絡する。
「口の中に白いものがあり、白板症(はくばんしょう)の疑いと言われた。舌がんかもしれない。すぐ調べて連絡してくれないか」

 電話口の声は、心なしか重く沈んでいる。むし歯の治療は中止して、編集部にとんぼ返り。何人かの専門医に電話で白板症と舌ガンについて尋ね、遠藤さんにその結果を電話で報告した。
幸いなことに、その後の精密検査で、舌ガンの疑いは杞憂に終わったが、これまでにも肺結核、糖尿病、高血圧、肝臓病……など、遠藤さんはいつも病気とともにあった。

その数日後、今度は夕方の四時、編集部の電話が鳴った。

「新潟県の講演に行くのだが、円座クッション係になってくれんか」

 南魚沼郡大和町の町立ゆきぐに大和総合病院での講演に向かう遠藤さんは、その少し前に痔の手術を受けたばかり。長距離移動には円座クッションが必須アイテム。かくて、「からだ」番記者の出番となる。

 その前年(一九八二年)、讀賣新聞夕刊に連載された原稿『患者からのささやかな願い』をきっかけに、「心あたたかな医療」キャンペーンが始まり、とくに病院・医療関係の講演依頼には最優先で応じていたのだった。

 遠藤さんは講演後の懇談でも「心あたたかな医療」について語り、先進的な地域医療(病院・保健センター・特別養護老人ホームを併設)を推進する黒岩卓夫院長も「健康やまとぴあ」構想を語る、すばらしい一日になった。

(『周作クラブ』「からだ番記者レポート」②)

☆言葉は薬、遠藤マジック
 長く苦しい入院生活を送っていた遠藤さんは、病状も徐々に回復してきたある日、週に一度の入浴許可を告げる担当医師の言葉に勇気づけられた。

「もうあなたは週に一度、お風呂に入れるようになりましたよ」

遠藤さんは言外に[これまでは病状が重く、お風呂にも入れなかったのが、きょうからは週に一度入れるまでに病気がよくなった]という明るさを感じた。これが「まだ週に一度しか入浴は許可しない」なら、ただでさえ不安な心は凍りついたにちがいない。遠藤さんはそれを「言葉の魔術」と呼び、「病院の医師も看護婦も、言葉の魔術師であってほしい」と強く願っていた。

一九八六(昭和六一)年の秋、それまで官僚的な語句で冷たい印象を与えていた東大病院の「入院案内」が大きく変わった。

 そのきっかけは、同じ年の春、VLT(極超低温)美容で有名な加嶋幸成さんに紹介された神山五郎さん(烏山診療所所長)、小島通代さん(東大病院看護部長)のお二人が「心あたたかな医療」の共鳴者で、「入院案内」の改訂メンバーである小島さんが文中の言葉遣いに頭を痛めていた、ちょうどそのタイミングでの出会いだった。

「遠藤先生の入院体験をうかがって、それを入院案内に生かしたい!」

 早速、遠藤さんに電話でその旨をお伝えすると、「天下の東大病院が変れば、心あたたかな医療運動が前に進む」と、その場で快諾。患者目線のアドバイスが、新しい「入院案内」の言葉遣いに反映された。

★命令口調を避け、語りかけ口調に
 【面会は、必ず看護婦の許可を得てからにしてください】の許可を得てから」を、語りかけ口調「ご相談ください」「お申し出ください」に。

★禁止口調を避け、柔らかい表現に
 【患者の寝具は病院のものを使用することになっておりますので、個人のものは持ち込まないでください】という禁止表現は、ただでさえ緊張ぎみの患者の不安を増幅する。「寝具は病院で用意いたします」でよい。

★患者の孤独感を救うのは看護婦
 わずか一行【病院の消灯は午後九時です】を「どなたも睡眠を充分おとりになれるよう、消灯時間を二一時に定めております。消灯の後ご用のときはナースコールをお使いください。看護婦はお返事しませんが、静かにベッドサイドに伺います」に。

「言葉は薬」という遠藤マジック。

(『周作クラブ』「からだ番記者レポート」④)

☆ビフォア/アフター
 遠藤周作さん発案による連載企画「治った人 治した人」(『わたしの健康』一九八一~八四年)は、まず、鍼灸・漢方薬・整体治療などの東洋医学、昔ながらの民間療法、そして話題の最新医療まで、その治療を受けて「治った人」(複数の体験者)を取材して、次に、鍼灸師、漢方医、西洋医、歯科医、薬草研究家など、患者を実際に「治した人」(治療家)と遠藤さんが対談するという「ちからこぶ」企画だった。連載は四年つづいたが、私が『主婦の友』(読み物デスク)に臨時で戻った一年間を除く三年間(三十六回分)は、毎月のテーマ(治療法)を提案するために、さまざまな資料に目を通し、代替療法にくわしい専門家の話を聞いた。

 と書くと、いかにも担当者がテーマ探しに苦労したようだが、実際には遠藤さんの特ダネ情報が、月に四つか五つ、電話で寄せられる。この連載以前から温めていた名医の情報、空港や駅の売店で見つけた健康法の新書・雑誌情報、自らが主宰する素人劇団樹座や宇宙棋院のメンバーからの情報などが、多彩な人脈を総動員して集まってくる。それは、貴重な情報ではあるが、地曳き網漁のように網にかかった魚をこの目で見ないと、大物の魚(OK)か雑魚(ボツ)かがわからない。それを確認するのが担当者の仕事だが、玉石混交の健康情報は半端な数ではない。

 ご存じのように、遠藤さんは「せっかち」な性格である。思い立ったら、すぐに電話をかける。休日のときは、担当者の自宅にかけてくる。

「お父さん、遠藤とかいう、男の人から電話だよ」

 ことし三十九歳になった長男
(※2023年6月に48歳になる)が、まだ高校生だったころの話だが、あわてて電話口に出ながら、冷や汗をかいた。

 一回だけ、遠藤さん自身が「治った人」(体験者)として登場したことがある。四年間の連載が終了して半年後(一九八五年八月号)、番外編「治った人 治した人」として掲載された記事のタイトルがすごい。

「遠藤周作さんの髪がよみがえった」

「頭皮緊張緩和器」という器具を三カ月間装着して、後頭部の髪の毛が確かに濃くなったと認められる、遠藤さんの後頭部ビフォア/アフターが誌面を飾った。

得意満面! 遠藤さんのゑびす顔。

(『周作クラブ』「からだ番記者レポート」⑤)

☆京都に、おでん食べに行かんか。
遠藤さんは、ときどき謎かけめいた電話をかけてくる。たとえば、

「京都に、おでん食べに行かんか?」
「はい、おともします」
「来週○曜日○時、京都ホテルで」

 早速、編集長に「遠藤先生との打ち合わせが入りました」と、出張届けを出す。

 京都ホテルのロビー、「こっちだ、こっち」と遠藤さんの呼ぶ声がする。約束の時間より二十分も早い。すぐタクシーを拾う。「南座までやってください」と、遠藤さん。

〈おでんを食べる〉と聞いていた私は、〈南座で、おでん?〉と内心困惑しながら、できるだけ平静を装う。十二月の南座は吉例顔見世興行で、まねき(看板)には、勧進帳で弁慶を演ずる二代目中村吉右衛門丈の名も見える。前方ガラス張りの特別観覧室に案内されて、私も歌舞伎見物のお相伴にあずかった。圧巻はもちろん、吉右衛門弁慶の見事な「飛び六方」だった。

歌舞伎を堪能したあと、鴨川沿いにタクシーを走らせ、遠藤さん馴染の料理屋に到着。遠藤さんのおごりで、本命のおでんを「ゴチ」になる。〈これだから、編集者はやめられん〉

 京都ホテル一階のラウンジで、食後のコーヒー。ロビーの方を気にしていた遠藤さんが、突然、声を上げた。

「吉右衛門さん、こちらですよ」

 吉右衛門丈が笑顔で振り向き、こちらにやってくる。飲み物を勧めて、しばらく歓談したあと、遠藤さんの発案で、とんでもないことが始まった。吉右衛門丈に〈気を付け〉姿勢をお願いし、左右の肩の高さを見比べる。左の肩先がほんの少し下がっていた。すると、遠藤さんが、私の耳元で言う。

「ほら、あれをやってみたまえ」

 その数カ月前、健康雑誌の〈噛み合せ矯正〉対談で、左側で片噛みする習慣が「右肩下がり」を招くという話題が出た。これは噛み合せの高さをマウスピースで調整する、テンプレート療法の原理を応用したもので、たとえば肩が下がっている側の歯で〈割り箸〉を強く噛み、両肩を上下に揺すると、あら不思議! 両肩の高さが同じになる実験も行った。それを、ここで、天下の歌舞伎役者にやれ、というのだ。

「面白い、やってみましょう」

早速、割り箸を左の歯で噛み、両肩を上下に揺すってもらう。そして、
「左右(両肩の高さ)が同じなりましたよ」

「不思議なことがあるものですね」

冷や汗と脂汗が、同時に流れ落ちた。

(『周作クラブ』「からだ番記者レポート」⑦)

☆ひとりオーディション。
 昭和五八(一九八三)年五月、遠藤周作さんは、東京・南青山の平田医院で痔の手術を受け、その日に退院した。執刀医は二代目院長、平田洋三医師である。青山学院大学建築学科を卒業後、さらに東京医科大学で医学を修めた医師だが、「ドクター・ヒップス」の愛称で親しまれた、良医にして名医である。

 その数カ月前、健康雑誌の連載対談『遠藤周作の「治った人、治した人』に登場した平田ドクターは、①手術は即日退院(日帰り手術)をめざす、②「患者さん本位の親切医療」を心がける、この二つを強調した。

 たとえば、従来は砕石位(仰臥位・開脚)が常識だった手術姿勢を、患者の羞恥心をとり除くために、平田ドクターの左利きも考慮した右側側位(右肩が下になるように横になる)に変更された。これで、患者は執刀中の医師と目を合せずに手術を受けられるようになった。
また、平田医院の玄関には、「屈んで靴を履く姿勢は、痔の痛みを増強する」ことへの配慮から、上体を支える〈靴脱ぎ石〉が設置されていた。

 まず、①を選択した遠藤さんだが、もちろん「心あたたかな医療」の②にも注目。心強い名・良医を得たと喜ぶ遠藤さんから、「樹座の一人オーディションを受けてもらおう。平田先生にすぐ連絡を!」と、電話でご下命があった。
審査会場は、青山のとある酒場。審査員は遠藤座長、原山座員の二名。平田ドクターのみごとなピアノ弾き語りに耳を傾ける。本来なら音痴が入団の条件だが、ここは「心あたたかな」審査基準でクリア、晴れて座員となる。かくて樹座の初舞台を踏んだ平田ドクターは、遠藤さんはもちろん多くの音痴仲間との親交を深めたのである。

 昭和六二(一九八七)年、平田肛門科医院の第三代目ドクター・ヒップスに、平田雅彦院長が就任した。三代目は、先代の診療を、①早期治療で、痔は切らずに治す、②「心あたたかな医療」を待合室の環境、生活指導に生かすなど、さらに大きく進化させている。たとえば、待合室のイスは女性用男性用に分かれ、すべて正面向きなので目を合わせずにすむ。呼び出しは番号だが、診察室に入ると雅彦院長が名前を呼んでくれる。病院処方薬は中身が見えない袋に入っている、などなど。

受け継がれる、心あたたかな医療。

(『周作クラブ』「からだ番記者レポート」⑨)

☆「心あたたかな病院」運動
 私が副編集長を務めていた『わたしの健康』の一九八三年新年号から、『心あたたかな病院を求む』キャンペーンを開始した。その前年、讀賣新聞夕刊に寄稿した連載コラムを読んだ読者から、「心あたたかな病院で治療を受けた」という手紙が、遠藤さんのもとに届いていた。

 とくに読者から推薦の手紙が多かった淀川キリスト教病院(白方誠彌院長)、東京衛生病院(林高春院長)の院長をお招きして、ホスト役の遠藤さんもまじえて、新春座談会が行われた。
三年間の入院生活を経験した遠藤さんが、医療現場は「治療するのだから、多少の苦痛や不便さはがまんすべきだ」という〈病院の日常〉に慣れきっていて、家庭や会社など〈患者の日常〉にはない恥ずかしさ、病気や死への不安な思いを、うっかり見すごしていないだろうかと、問いかけた。

 あるとき、お世話になった看護婦さん三人をお礼に招待して、レストランに向かう途中、車がネコを轢いたのを見た一人が、「キャーッ」と悲鳴を上げて顔をおおった。遠藤さんが、「あなたは手術場の看護婦さんで、血を見ても平気なはずでしょう」と聞くと、「手術場は病院で、ここは病院じゃないんですもの」と答えたという。
つまり、日常的な神経と病院の中での神経とでは、そのときの立ち位置、役割によって感覚が異なるわけだが、〈病院の日常〉では気づかぬうちに、患者に無用の苦痛や屈辱を与えていることも、案外多いのではないかというのだ。

 「入院患者の苦しみというのは、結局、孤独感です。とくに慢性病や末期の患者さんは、夜が苦しい。五時の夕食のあとは、検査もない、見舞い客もいない。じっとしているだけ。そのとき、ぐちを聞いてくれるだけのボランティアというのはできないでしょうか」

 この当時、一九六二年から病院ボランティアが始まった淀川キリスト教病院でも、またチャプレン(病院付き聖職者)がいる東京衛生病院でも、病院での傾聴ボランティアの養成、受け入れの検討を始めたところであった。
たとえば、病室での身の回りのお世話、車椅子でのお散歩を介助しながら、患者の話を聞く、それが〈傾聴〉ではないか、遠藤さんはそう考えていたのだ。

 遠藤さんの願いは深く、そしてあたたかい。

(『周作クラブ』「からだ番記者レポート」⑪)

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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