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連載「つたえること・つたわるもの」144

神話や昔話の〈見るなのタブー〉、さまざまな結末。

連載 2022-09-15

出版ジャーナリスト 原山建郎

 先週、久しぶりの九州旅行で、霧島、阿蘇、湯布院を観光バスで周遊し、最後に「神話のふるさとと」も呼ばれる宮崎県北西部の高千穂神社・高千穂峡と日向灘に面した青島神社・鬼の洗濯岩を訪れた。高千穂の地は、天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がこの地に降り立った際、暗闇に包まれていた大地に千穂(数多くの稲穂)の籾を四方に撒いたところ、太陽と月が輝き始めて地上を明るく照らした「天孫降臨」神話に由来する。高千穂神社は、根元が連理した「夫婦杉」、樹齢八百年の「秩父杉」など、うっそうとした杉林の中にあり、「神域」の雰囲気がただよっていた。「夫婦杉」や「秩父杉」には依代(よりしろ:神霊が依りつくもの)である神木を示す注連縄(しめなわ:神域を他の場所と区別するために張る縄)が張られており、その「神木」に降りてこられる神の音連(おとづ)れを、杉の葉擦れの音で感じるひとときだった。

 八百万の神々ともいわれる日本の神は、本来、姿かたちを見せない「カミ(隠身・幽身)」だという。『神仏たちの秘密――日本の面影の源流を解く――』(松岡正剛著、春秋社、2008年)に、日本の神にかかわることば――「おとづれ」「よりしろ」「むすび」などが解説されているので、その一部を紹介しよう。

 日本では神があらわれることを、来臨とかおとづれと言います。いい言葉です。「おとづれ」はもともと「音連れ」と綴りますから、そこにさわさわっといった音だけがしたというようなニュアンスです。つまり気配のようなもので神を感じた。気配ですから音の気配でなくても、光の気配でもかまいません。(中略)
 ヨーロッパの神々の大半は光です。ところが、日本のばあいは光もありますが、光の前にまず影が走る。いや、光を影として感じるんです。(中略)しかし、それではわかりにくいので、神のしるしをもっとはっきりさせようということで、木の枝などを依代(よりしろ)としてサナキ(鐸:※銅や青銅でつくった大型の鈴)のようなものを掛けて、鈴が鳴るようにした。
(『神仏たちの秘密』「神話の結び目」128ページ)

 引用文中の「サナキ(鐸)」に、「銅や青銅でつくった大型の鈴」と注釈をつけたが、もともとは内側ががらんどうな構造の、小さな銅鐸のようなもので、これを木に吊るしておくと、風がふっと吹き込んだときにかすかな音がする――それを何らかの「おとづれ」とみなした――それが現在では、「サナキ」の中に「舌(ぜつ)」をつけて、拝殿でジャラジャラと鳴らす「大型の鈴」になった。本来の「サナキ」は人間の力で鳴らす「鈴」ではなく、かすかに吹き込む風の力で鳴るのを、耳を澄ませて待っているものであったという。

 また、高千穂神社は、有名な「縁結び」のパワースポット。本殿前にそびえる「夫婦杉」の周りを三周するとご利益があると言われている。この「むすび」もまた、〈目には見えない〉神のはたらきである。

 日本では結び目のことを「ムスビ」と言いますね。もともとは「産霊」と綴りました。「ムス」は「産ス」と書きます。ビは「ヒ」のことで、すなわち霊のこと、スピリットのことです(ちなみに「霊」がスピリットで、「魂」はソウルです)。「ムス」はご飯を蒸すとかおまんじゅうを蒸すばあいのムスと同じで、苔のむすまでの「ムス」とも同じです。そこに十分の時が熟しているんですね。
 ですから「ムスビ」というのは、何かがいよいよ生まれる状態になっていることをさしている。ただし、ここが日本のおもしろいところなんですが、このとき必ず生まれた出所(でどころ)を伏せるんです。何かが生まれたことを、そのままあからさまにしない。そのかわり、何か熨斗(のし)のようなものを付けて、結び目をつくって、何か大事な出現があることを意味する。結び目があるので何かが生まれたのだということは、わかるようになっているんですね。
(中略)ムスビはどのようにしておこるかというと、たいていは目立った一本の木が選ばれます。これは依代(よりしろ)です。「依る」は「そこへ依って来る」という意味で、「代」はエージェント=代わりという意味です。日本ではつねにこの「代(しろ)」が大事で、何の代わりかというと、ここでは神様の代わりということなんですね。日本の神というのは、実体をもっていません。(中略)おとづれるものです。そのかわりエージェント、代わりをするものはいっぱいある。その代表的なものが木ですが、岩や山も依代になるし、何もなければ柱やポールのようなものを立てて、それを依代にします。依代が決まると、そこに界(※現世との端境を示す神域ゾーン)を結び、御幣(みてぐら:※紙や布を細長く切って、串の先に付けた神祭具)を飾り、注連縄を張る。そして結界を印すための四囲四方の目印の木を決める。結界の境目に立てる木なので、これを境木(さかき)といいます。今は「榊」と書きますが、じつはこの漢字は中国にはないもので、日本の国字(※和製漢字)です。たとえば「峠」とか「裃」という字も国字です。
(『神仏たちの秘密』「神話の結び目」136~138ページ)

 今回は訪れる機会がなかったが、同じ高千穂町には「天岩戸神社」もある。日本神話によれば、伊邪那岐(男神)と伊邪那美(女神)による「国生み」のあと、伊邪那岐と伊邪那美は、地上で十七柱の神々を誕生させるが、火之迦具土(カグツチ:火の神)を生んだ伊邪那美が重い火傷で亡くなり、黄泉の国へと旅立ってしまった。伊邪那岐はその死をひどく悲しみ、亡くなった伊邪那美をとり戻そうと黄泉の国に向う。何とか会えた伊邪那美は、元の世界に戻るためには少し時間がかかる、その間、私の姿を決して「見ないように」と言う。

 しかし、その約束を破ってウジまみれの姿を「見た」伊邪那岐は、今度は黄泉の国の兵隊どもに追われるが、何とか巨大な「千引の岩」で黄泉比良坂(よもつひらさか:黄泉の国との境)をふさいだ。
そして、大事な約束を破った伊邪那岐に激怒した伊邪那美が、「今後はあなたの国の人々を、一日千人絞め殺そうぞ」と言ったのに対して、伊邪那岐は「それならば、私は千五百の産屋を建てよう」と応じたというのが、この物語におけるひとつの「結末」である。

 黄泉比良坂にまつわるこの高千穂神話は、世界の神話や昔話に出てくる〈見るなのタブー〉のひとつである。

 日向灘に面した青島神社にも、山幸彦(火遠理命:ほをりのみこと)の日向神話の物語がある。兄(海幸彦)から借りた釣り針を海中に落としてしまう。山幸彦が嘆き悲しんでいると、塩椎(しおつちの)神が作った小舟で海宮(海神の国)へ行くように言った。そこで失った釣り針をとり戻しただけでなく、海神の娘、豊玉毘売(トヨタマビメ)と結婚することになった。

 海宮で懐妊した豊玉毘売命は山幸彦との子どもを生むために、陸に上がって浜辺の産屋に入った。「他国の者は子を産むときには本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と言われたにもかかわらず、山幸彦はその約束を破って中をのぞいてしまう。すると、そこに八尋和邇(やひろわに)が腹をつけ、蛇のようにうねっている豊玉毘売の姿を見て、山幸彦はその場から逃げ出してしまう。のぞかれたことを恥じた豊玉毘売は、再び竜宮城に帰って行ってしまう。それは悲しい結末ではあるのだが、しかし、それでもわが子を養育するために、妹の玉依毘売(タマヨリビメ)を遣わした豊玉毘売のやさしさという、慰めの物語に少し救われたような気がする。

 この日向神話もまた、典型的な〈見るなのタブー〉の結末のひとつである。

 日本昔話に出てくる〈見るなのタブー〉のひとつに、誰もが知っている「鶴の恩返し」がある。

 そのあらすじを、ざっと紹介しよう。ある所に貧しい老夫婦が住んでいた。ある雪の日、猟師の罠にかかった一羽の鶴を見つけた老爺は、その鶴を罠から逃がしてやった。激しく雪が降り積もるその晩、美しい娘が夫婦の家へやってきた。一晩泊めて欲しいと言う娘を、夫婦は快く家に入れてやる。その後何日も雪は止まず、娘は老夫婦の家に留まって、その娘は甲斐甲斐しく夫婦の世話をして暮らしていた。

 ある日、「布を織りたいので糸を買ってきて欲しい」というので老爺が糸を買ってくると、娘は「絶対に中をのぞかないでください」と夫婦に告げて部屋にこもり、三日三晩不眠不休で布を一反織り終わった。「これを売って、また糸を買ってきてください」と彼女が夫婦に託した美しい布はたちまち町で評判となり、次に織った一反の布も高値で売れた。

 しかし、「どうやって娘があんなに美しい布を織っているのだろう」と思った老媼が、三枚目の布を織るために娘がこもった部屋を〈見るな〉の禁を破ってのぞいてしまう。そこには、美しい娘の姿ではなく、一羽の鶴がいた。鶴は自分の羽毛を抜いて糸の間に織り込み、きらびやかな布を作っていたのだ。驚いている老夫婦の前に、機織りを終えた娘がやってきて、自分が老爺に助けてもらった鶴だと明かし、「できればこのまま老夫婦の娘でいたかったが、鶴である私の正体を見られたので去らねばならない」と涙を流しながらもとの鶴の姿になり、別れを惜しむ老夫婦に見送られ、空へと帰っていった。美しくも悲しい物語の結末である。

 もう二十年ほど前になるが、武蔵野女子大学(現武蔵野大学)で「マスコミ就職対策講座」を担当していたとき、日本テレビのエントリーシートで、ユニークかつユーモラスな課題が出された。その年の「課題」と、マスコミ志望の女子学生たちへのアドバイスをかいつまんで紹介してみたい。

★課題
 日本昔話「鶴の恩返し」のタイトル・登場人物を変えずに、オリジナルとは別の結末にするとしたら、どんな結末にしますか?(150字以上400字以内)

◆学生へのアドバイス
 これは与ひょう(若い男)が登場する「夕鶴」(木下順二作の戯曲)ではない。日本昔話の「鶴の恩返し」は、猟師の罠から助けられた鶴(美しい娘)、貧しいが正直者のお爺さん・お婆さん夫婦の三人が登場するバージョンである。ここからは、イマジネーション(想像力=創造力)の勝負になる。物語のテーマは〈見るなのタブー〉であるが、老夫婦が娘との約束を破って「機を織る娘の姿をのぞいた」結末を、どのようにふくらませるのか、読む者の情に訴える正攻法でいくか、洒落のめしてパロディの笑いをとる奇襲戦法でいくか……。

 ある学生は、「お爺さんお婆さんの流した涙が、娘の織った美しい布に落ちたとたん、二人は二羽の鶴に変身し、鶴の姿に戻った娘といっしょに、遥か天上をめざして飛び去った」という正攻法で、みごとな結末にまとめてみせた。感性豊かな才能は買えるが、へそ曲がりの番組制作者が多いテレビ業界向きかどうか、そのあたりはコメントがむずかしい。

 パロディ版なら、「機を織る娘の姿ををのぞく」場面までプレイバックしてみるのはどうだろう。
「お爺さんお婆さんが機織り部屋を覗いてみると、そこに娘の姿はなく、しかも苦労して買い揃えた箪笥や鏡台がそっくり消えて、もぬけの殻。びっくり仰天、鶴だとばかり思っていた娘は、実は鶴に化けていた鷺(サギ≒詐欺?)だった」
おあとがよろしいようで……(笑)

 2002年ごろのテレビ・ラジオ・新聞・雑誌――マスコミ各社の採用試験には、「浦島太郎が玉手箱を開くと……」バージョン、「桃太郎」「かぐや姫」を題材にしたものもあった。じつに面白く楽しい時代だった。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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