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連載コラム「つたえること・つたわるもの」⑫

まっすぐ心に届け〈がんばって〉、励ましのベクトル。

連載 2017-03-14

出版ジャーナリスト 原山建郎

 かつて、主婦の友社『わたしの健康』の編集者だった私は、愛煙家で作家の澤野久雄さんが肺ガンを発症し、左肺全摘の手術を受けたあとに始まった連載エッセイ『生きていた ガンからの生還』(1985年に主婦の友社から出版。1988年に集英社文庫)の担当を命ぜられた。退院された日、目黒のご自宅でお目にかかった澤野さんは、ピース缶から出した両切りタバコをくゆらせて、「入院中は禁煙だったから……」と涼しい顔。すでに70歳を過ぎておられたが、肺ガンの再発などどこ吹く風と、悠揚迫らぬ大人のオーラがあった。しかし、最晩年には体調を崩され、入院先の大学病院で80年の生涯を閉じた。

 その病床を最後に見舞ったとき、澤野さんは「原山君、ぼくは〈がんばった〉よね」と、弱ったからだから全力を振り絞るようにして、鋭いまなざしで私を見つめた。この十年間、番記者を務めてきた私は、思わず「はい、澤野先生はじゅうぶん〈がんばって〉こられました。ご立派です」と答えた。すると、「ありがとう、いろいろ世話になったね」の言葉とともに、いつもの柔和なまなざしが戻ってきた。

 健康雑誌の編集者だった私は、できるだけ〈がんばって〉以外の励まし、たとえば〈お大事に〉〈ご無理のないように〉〈ご快復をお祈りします〉などで、お見舞いの言葉をかけるようにしていた。

 たとえば、ただでさえ落ち込んでいる「うつ病」の人に、これ以上の〈がんばって〉を強いるのは禁句。あるいは、難治病の終末期で病状快復が困難な患者に、〈がんばって〉のひと言は虚しく響くかもしれない。しかし、だからといって〈お大事に〉〈ご無理のないように〉が、ベスト、ベターの言葉であるはずもない。

 ちょうど同じころ、当時は鳥取赤十字病院の内科医だった徳永進さんに、連載コラム『形のない家族』(1990年に思想の科学社から出版。1996年に『病気と家族』と改題し、集英社文庫)をお願いした。2001年に、二階に19床のホスピスケア病棟、一階で一般診療を行う野の花診療所を開設した徳永さんは、どんなときも患者とその家族に寄り添い、苦しみ喜びをともにする、日本を代表する「良医」のひとりである。

 その徳永さんが新潮社から2009年に上梓したエッセイ集『野の花ホスピスだより』(2012年に新潮文庫)の中に、「励まし人間」の一節を見つけた。少々長い引用になるが、とても重要な内容なので紹介する。

 「頑張って」、と人はつい口にする。苦難を前にしている人にもつい。悪気なく放たれる言葉だが、相手の心に届かず、時に傷をつくることもあると言われる。
 うつ病の人に「気の持ちようだ、負けるな、頑張れ!」と上司や両親が力説すると、うつはさらに深まり、脱出が難しくなり、励ましは禁、とされる。大切な家族を亡くした人に「いつまでもくよくよせず、頑張って明るく生きなきゃっ」と励ますのも禁。がんの末期の患者さんに「頑張りましょう」とだけ言って医療者が逃げるように病室を去るのにも、「安易な励ましは避けること」と先人たちの教えがある。人を励ますことは深刻な場面ではとても難しい。(中略)
 六十歳のがん患者さんの病室での会話。「桜は見たいな、無理ですか」「そのころまで頑張りますか」「できるなら」「頑張りましょう」
 咳が続く別の病室。
「咳が弱くなる注射、頑張って始めませんか」「私、西洋医療嫌いできたけど、そんな場合じゃないですよね。頑張ろうかしら」。ご主人「頑張ろうーや」。看護師。「合わなかったらやめられるし、頑張りませんか」。
 励ますことが悪い、ということではないことに気付く。偉そうぶってないか、励ましのベクトルが上から下になっていないか。ベクトルは下から上もしくは水平か、そこが分かれ道だろう。
(同書、141~142ページ)

 昨年、臨床宗教師(浄土真宗僧侶)・長倉伯博さんが講演の中で紹介した『うれしかった言葉 悲しかった言葉――難病のわが子と生きるお母さんたちの声――』(麦の会声だより編集委員会編、海鳥社、2004年)を取り寄せた。難病と闘う子どもをもつ母親の言葉から、「励ましのベクトル」の意味が伝わってくる。

★人に言われて悲しかったこと、いやだったこと 退院して間もないころ、近所の人から「どれくらい生きられるの?」と聞かれ、ショックだった。検査に来ていた人に「どんな病気なんですか?」と聞かれ、「白血病です」と答えると「かわいそう」と言われ、泣かれてしまった。病名を言っただけなのに、なぜ泣かないといけないのか。(急性リンパ性白血病、4歳)/簡単に「治る、治る」と周りの人から言われたこと。周囲の人から「どうしてこの子だけこんなになったんやろね」などと言われ、病気にしたくてした訳じゃないのにと思った。(心室中隔欠損症、2歳)/「感染するの?」いつも外で一緒に遊んでいる子どものお母さんから言われた一言。子どもにうつるかもしれないという意味で言われたことが悲しかった。(川崎病、3歳)/「何の病気ね?」と聞かれたり、「ほらほら」と指をさされたとき。(神経芽細胞腫、6歳)/同世代の子が「なんで髪がないの?」「こわい」と親に言っているのを聞いたとき。(神経芽細胞腫、4歳)/入院中、また亡くなった後の「まだ小さかったのにかわいそう」という言葉。入院中は病気になったことは確かに不運だったけれど、Tちゃんの姿は誇りに思っていた。亡くなった後は大変悲しい思いをしたけれど、生きる望みを持って生き抜いたTちゃんのことを「かわいそう」とは思わない。(神経芽細胞腫、5歳)/いつも最後には「この子かわいそうね」と言って立ち去る人。(低酸素性虚血脳症、4歳)
★人に言われて嬉しかったこと 「Sちゃんはお母さんのもとに生まれてきてよかったね」という医師の言葉。(メチルマロン酸血症、7歳)/高校生のとき、とても気分が悪く処置中に、看護婦さんに「もうダメ!」と弱音を言ったとき、「何がダメね? がんばらな! がんばらないかんよ! きついけどがんばって! がんばるんよ!」と励ましてもらったこと。(小腸消化酵素欠損症、24歳)/「元気になってよかったね」「がんばっているね」(神経芽細胞腫、6歳)/「小さいのによくがんばった!」という言葉。(神経芽細胞腫、8歳)/入院中「充分がんばっていると思うので、『がんばってね』は言わないね」という言葉。「がんばってね」という言葉は、ときにプレッシャーになることがある。(神経芽細胞腫、5歳)
 (同書、19~83ページから抜粋)

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう) 
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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