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連載「つたえること・つたわるもの」136

優しさに支えられた「強さ」、相手を包み込み・生かす「勁さ」。

連載 2022-05-10

出版ジャーナリスト 原山建郎

 
 昨年、94歳で天寿を全うされた西野流呼吸法創始者、西野皓三さんの「一周忌・メモリアルディ」が、5月5日、東京・渋谷の西野塾稽古場で執り行われた。挨拶などのセレモニーはなく、2階の稽古場に赤い花と3枚の遺影が飾られた祭壇に、参列者が赤い花を一輪ずつ献花する形式で、元塾生(この数年間は稽古をお休み)である私もご遺影に向かって静かに合掌。心のなかで、これまでのご指導に感謝するともに、これからも「気(生命エネルギー)」を大切に生きていく決意を新たにした。

 献花のあと、3階の稽古場で15分ほど、西野流呼吸法の動画を視聴した。呼吸法のエクササイズ「対気」(指導員と塾生が、お互いに半身の姿勢で伸ばした手の甲を合わせ、交互に推しながら、気の交流を行う)では、西野さんの手が触れた瞬間、数メートル後ろのマットまで吹っ飛ぶ先輩塾生の映像を見ながら、丹田(下腹)に何かあたたかいものを感じて、後ろ走りにマットで止まる、かつての私を思い浮かべた。その超人的な「気」パワーにすべての塾生があこがれ、私もこのような「気」パワーがほしいと強く願っていた。

すると、映像が変わり、よく稽古の合い間に語っておられた、西野さんの懐かしい音声が流れた。そのなかで、「だれもが強くなりたい。しかし、その強さには、優しさが必要です。優しさとは、痩せる思いをして人に尽くすことです。優しさはからだじゅうに生命エネルギーが満たされていないと、生まれません」という意味の言葉が印象に残った。このことばから、ロシアの強い力(武力)によるウクライナ侵攻を思った。

 昨日(5月9日午後4時)、ロシアの「戦勝記念日(77年前、旧ソビエトがナチス・ドイツに勝利したことを祝う日)に、プーチン大統領の演説があった。そこで今回の特別軍事作戦は「ウクライナの非ナチ化を目指す」正義の戦いだと強弁したが、いまも軍事攻撃を続けるプーチン氏の「強い力(武力)」には、砲撃で破壊された建物の地下にやむなく避難した、無抵抗な一般市民の生命に向ける「優しさ」はあるのだろうか? 
また、私たちの身心における、ほんとうの「つよさ」、真の「やさしさ」とは、いったい何なのだろう?
改めて読み直した『身体知の誕生――七つの法則』(西野皓三著、小学館、1997年)に、対象は子どもの教育に関する記述なのだが、「優しさとは、痩せる思いをして人に尽くすこと」に触れた一文がある。

 身体中に生命エネルギーが満たされてくると、人は優しくなります。韓非子の言葉に「人間は甘やかせば甘やかすほど、暴力を振るう人間になる」とありますが、甘やかすのと愛するというのは全く別のことです。
甘やかすことは、迎合に通じます。歓心を買うために、自分の考えを変えて相手に合わせたり、猫可愛がりしたりすることです。これらは自分の欲望を満足させるためにしていることが多いものです。
一方、愛は自己犠牲です。愛とは優しさで、優しさとは、語源的には「痩せる思いをして人に尽くすこと」であるといわれています。つまり、骨身を削って人に尽くすのは優しさで、自分がヌクヌクと怠けていて優しいのは甘えなのです。痩せる思いで人に尽くすには、身体中に生命エネルギーが満たされていないとできません。したがって、生命エネルギーが満たされている人は、自然に優しくなります。

(『身体知の誕生――七つの法則』127~128ページ)

 ここで、キーワードとなる「やさし/つよし」と、その対義語(反対語)である「きびし/よわし」の原義(言葉の成立ち)を、『字訓』(白川静著、平凡社、1995年)で調べてみよう。

やさし〔吝〕 人の見る目が恥ずかしく、痩せるような思いをする状態をいう。「痩(や)す」と同根。(中略)相手がそのような気づかいをするようすを、殊勝で立派だと思う感情をいう。類義語の「はずかし」は相手に劣等感をもつことで、語義の内容はかなり違う。(中略)「吝(やさ)し」から「優し」に移行する語義の繊細な感覚は、漢字ではとらえがたいところがあったのであろう。自己の感情を相手に投射し、相手の立場をいわば客体化しながら自己に向かわせるという婉曲な語法から、国語(※やまとことば)の語義は複雑なニュアンスをもつものとなる。
つよし〔強・勁〕 強力、また堅牢であることをいう。「弱し」に対する語。
(中略)類義語の「こはし」は屈折しがたいものの擬声的な語で、弾力のない堅さをいう。
きびし〔緊・密・厳(嚴)〕すきまなく、緊(きびし)くつまっている。わけ入るすきのないようすをいう。
よわし〔弱〕「やわ」「やわし」の母音交替形。「つよし」の対義語。堅いものに対する柔らかいもの。力の強いものに対する弱いものをいう。


 また、『若さが甦る〝気〟の超力』(西野皓三著、実業の日本社、1995年)には、今回のロシアによる武力侵攻に関連するキーワードである「闘争・対決」「正義」を、「気(生命エネルギー)」の視点でとらえた一文と、呼吸法の実践(正しい呼吸)によってからだが緩み「生命エネルギー」が増大すると書かれている。

 これまでの人間の社会はすべて対決が中心でした。ゲームも対決形式だし、世界が対決を基盤にしてできています。対決が発展すると闘争になります。闘争・対決している場合、各々が戦うことが正義だと錯覚してしまいます。正義というのは、客観的、あるいは絶対的には存在しなくても、もしあるとすれば生きていることだけが正義なのでしょう。しかし、戦っている間は両者が正義であり、結果が出ると勝者が正義になるのです。だから、いつの時代でも正義はその時の覇者にとって都合のよいものになりかねません。

昔から、秦の始皇帝にしろローマのネロ
(※第5代皇帝)にしろ、権力者は敵に勝つと、相手の命を絶ちました。生命はエネルギーなので、その根本を断ったわけです。(中略)
 しかし、これからはもっと変わらねばならないのです。なぜなら対立は愚かな行為であることがわかってきたからです。個人がもっと(※生命)エネルギーを持つようになると、世界は変わるのです。

これから、対立は闘争ではなく、別の形で解決しなければなりません。相手を包み込むとか、あるいは相手とコミュニケーションを起こして、「一緒にやろう」というふうに持っていくのです。よく考えてみますと、対立の原点は、エネルギーのバランスが崩れることにあります。個人のレベルでいうと、
(※生命)エネルギーが不足している人は、自分を認めさせるために、あるいは自分の思いが通らないので闘争をしかけます。一方、エネルギーが充分にある人は、闘争の必要を感じないものです。
(『若さが甦る〝気〟の超力』209~210ページ)

生命エネルギーである「気」を増大するには呼吸法を行うことです。呼吸法を続けることによって身体が緩んでくると、宇宙のエネルギーを取り入れることができるという不思議な感覚が得られます。そして身体の中の邪魔な夾雑物が取り除かれるようになり、生命エネルギーが活発に体内を流れるようになります。
(『若さが甦る〝気〟の超力』212ページ)

 たしかに、どのような戦争にも絶対的な「正義」や「大義」などありはしない。それぞれの国(交戦国)の立場から見た「正義」であり、「大義」である。相手を暴力によってねじ伏せ、自分の要求を一方的に押し付けるのではなく、たとえば、プーチン氏が正しい呼吸法を行うことで、やさしく相手を包み込む「気(生命エネルギー)」を高めることができたら、ウクライナに再び平和が訪れると思うのだが……。プーチン氏は、今回の軍事侵攻を指導した理由で、さきごろ国際柔道連盟から名誉会長と親善大使の資格を停止されたが、もう一度、2000年の来日時に講道館から六段の段位を認められたことを思い返してほしい。私も高校時代、柔道の授業(正課)で米山八段から「ただ強さだけを求めてはいけない」と指導を受け、加納治五郎が提唱した「精力善用、自他共栄」の話をよく聞かされた。いまこそ、プーチン氏に言いたい。「ただ強さだけを求めてはいけない」と。柔道着の黒帯をしっかり締め直し、心を入れ換えて、日本柔道の根本義である「精力善用、自他共栄」の精神に立ち返ってほしい。

「ただ強さだけを求めてはいけない」といえば、『西野流呼吸法〝気〟知的身体の創造』(西野皓三著、講談社、1990年)に、「剛(つよし)」と「柔(やはらか)」、二つの力のはたらきが解説されている。
「剛柔相推す。而して変化を生ず」(中略)

この〝剛柔〟という言葉と、その交流がさまざまな変化を生むという考え方は、人生の極意にも通ずる。一般に現代の言葉遣いとしては、〝剛〟にしろ〝柔〟にしろ、単なる対立語として使ったり、あるいは単独に存在するもの、として使いがちである。ところがそうした〝剛〟や〝柔〟では、〝剛〟にしろ〝柔〟にしろ、本当の力は発揮できない。単なる〝剛〟ではガチガチの固陋に、単なる〝柔〟では腑抜けになりかねない。
一見、〝剛〟そのものに見えるものでも、その〝剛〟が〝真の剛〟たるには、隠れたところで〝柔〟が〝剛〟を支えているのである。

例えば建築物がそうだ。科学の粋を集め、機能美を誇るようにそびえる高層ビルは、まさに〝剛の雄〟と見える。たしかに何十階という想像を絶する重量を小さな面積比で支え、強風に耐えるには、構造上、〝剛〟(剛構造)が必要となる。しかしまた同時に、地震のような激しい衝撃を受けたとき、そのエネルギーを分散、吸収するように〝柔〟構造も合わせ用いらねばならない。その〝剛〟構造プラス〝柔〟構造のバランスこそが高層建築の生命なのである。
ソファーやベッドも柔らかければいいわけではない。長時間、快く過ごせるものを作るには、その〝柔〟の中にいかに〝剛〟を取り入れるかが決め手だという。

(『西野流呼吸法〝気〟知的身体の創造』89~90ページ)

「柔」の訓読み(やまとことば)である「やはらか」を、もう一度『字訓』で引いてみる。
やはらか〔柔・和〕 しなやか、なごやかなさまをいう。擬態語「やは」に状態を示す接尾語「ら」「らか」をそえた形。(中略)柔(じゅう)は木を楺(たわ)めることをいう。矛(ぼう)は(中略)その枉曲(おうきょく※無理に力を加えて曲げる)した木の形とみるべきである。柔剛と相対し、剛は火で焼成(※焼き固める)を加えたものの意である。

たとえば、竹をたわめて籠をつくるとき、力を入れすぎると折れてしまう。そのたわめる力加減がむずかしい。「単なる〝剛〟ではガチガチの固陋に、単なる〝柔〟では腑抜けになりかねない」とはこのことである。ちなみに、『字通』を引くと、やまとことばの「つよし」をあらわす漢字に、「強」と「勁」がある。
【キョウ(キャウ)・ゴウ(ガウ)/つよい・しいて】会意。弘(こう)+虫。弘は弓弦を外している形。ム(し)はその外れている糸。虫はおそらく天蚕(てぐす)から抽出したもので、他の弓弦よりも強力であることを示す。
【ケイ/つよい・かたい】形声。声符は巠(けい)。巠は織機のたて糸を張りかけた形。上下の力の緊張した関係にあるものを示す。この字では巠は頸の省文とみてよく、力は筋力の意。頸部は人体において最も力の強健なところである。


 アメリカの作家、レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の探偵、フィリップ・マーロウが、『プレイバック』(※初版『Playback』1958年)のなかで披露した、とっておきの台詞がある。
If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.
最初の日本語版『プレイバック』(早川書房、レイモンド・チャンドラー著、清水俊二訳、1959年)では、訳者の清水さんがこれを、「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」と訳した。
 その後、作家の生島治郎さんがbe hard(きびしく・つらくあたる)を、be tough(タフ=屈強である≒be strong)に置き換えた意訳が、1978年の角川映画『野性の証明』のキャッチコピーとして使われた。wouldn’t deserve(~に価しない)の部分は清水・生島両氏とも「資格がない」と訳した。この台詞にも、〈優しさに支えられた「強さ」、相手を包み込み・生かす「勁さ」〉が隠されている。

「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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