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連載「つたえること・つたわるもの」(127)

「奇跡」というのは、立てない足が「立つ」ことではない。

連載 2021-12-28

出版ジャーナリスト 原山建郎

 前回のコラムは、文教大学のオンライン講座、第5回(『侍』)、第2回(『女の一生 二部・サチ子の場合』)、第3回(『悲しみの歌』)を手がかりに、遠藤周作が伝えたかった「人生の同伴者――イエス」について考えた。

 今回は、やはり文教大学のオンライン講座の第4回(『イエスの生涯』『キリストの誕生』――遠藤周作が甦らせたイエスの「生」の真実)の資料をもとに、イエス・キリストが行ったとされる「奇蹟の物語」よりも、はるかにイエスが生き生きと描かれていると遠藤さんが感じた「人生の同伴者」の視点で、新たな「奇跡と慰めの物語」をさぐってみよう。

 聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼等の病気を奇蹟によって治されたという所謂「奇蹟物語」であり、もう一つは奇蹟を行うというよりは彼等のみじめな苦しみを分ちあわれた「慰めの物語」である。だが聖書のこの二種類の話のうち、「慰めの物語」のほうが「奇蹟物語」よりはるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。
(『イエスの生涯』第四章「ガリラヤの春」62ページ)

 遠藤文学の代表作のひとつである『沈黙』(1966年、新潮社)から7年後に書かれた『イエスの生涯』(1973年、新潮社)と、さらに5年後に書かれた『キリストの誕生』(1978年、新潮社)は、ベツレヘムに生まれ、十字架上で刑死した歴史上の「ナザレ(出身地)のイエス」と、本質的な意味での救世主となったイエスを意味する「イエス・キリスト(キリストであるイエス)」について書かれた評伝だが、従来の伝記作家が描いた「奇蹟をおこすイエス」や、刑死三日後に復活(蘇生)したとされる「イエス・キリスト」ではなかった。

 実は、1996年に発表した名作『沈黙』に対して、当時のカトリック教会から強い反発があり、一時は禁書扱いされたという。今年一月に帰天された遠藤周作夫人・順子さんは、『明日の友』108号(婦人之友社、2009年)の対談のなかで、『五島崩れ』(主婦の友社、1980年)を書いた芥川賞作家で、やはりキリスト教徒である森禮子さんから「当時はカトリックの教会側からずい分非難を受けられたようですけれど」と問われて、夫が出席しなかったミサで「ああいうものを書かれると困る」と神父から言われたと答えている。

 また、作家・中村信一郎さんは、『遠藤周作のすべて』(文藝春秋編、文春文庫、1998年)で、ノーベル文学賞の候補リストにあった遠藤さんの受賞が、『沈黙』の出版によって幻となった経緯について書いている。

 あの主人公の神父が、幕府のキリシタン禁制によって、信者たちのこうむっている過酷な拷問から救うために、踏絵を踏んで棄教するのを是認する作者の考え方は、日本人的仏教的な深い慈悲の心として、キリストの神としても許し得るものではないかと、私は作者の主張に共感を覚えたのだが、果たしてローマ内部の反撥は強く、「沈黙」は禁書のリストに加えられる危機を迎え、スウェーデンのノーベル賞委員会内にも、授賞反対の声が上がった。その時、強い支持を与えた英国の作家グレアム・グリーン自身が、正統派からは既に危険視扱いされていたのだった。
(『遠藤周作のすべて』「戦いと和解と」189ページ)

 なるほど、今回の講座資料につけた小見出し、引用した文章もまた、かなり刺激的な内容を含んでいる。

 ○「事実のイエス、真実のイエス像」我々はイエスの生涯を正確にたどることはできぬ。しかし聖書を読むたびに私たちが生き生きとしたイエスやそれをとりまく人間のイメージをそこから感じるのはなぜだろう。それは事実のイエスではなくても真実のイエス像だからである。
(『イエスの生涯』54ページ)

 ○「イエスにたいする、誤解の渦のなかで」女や老人や病人たちにとっては彼はあるいは「力ある業」を示し、病気を治してくれる聖者のように思えた。これら誤解の渦のなかでイエスの布教ははじまった。彼はかくもおびただしい群衆に囲まれながら、自分がいかに誤解されているか(※奇蹟を起すメシアであると期待する群衆の誤解)をその悲しみのうちで知っておられた。なぜなら、イエスはただ一つのこと――愛の神をこの現実の上に証明すること――しか考えなかったからである。
(『イエスの生涯』71ページ)

 ○「奇蹟を行いえなかったイエス」イエスは群衆の求める奇蹟を行いえなかった。湖畔の村々で彼は人々に見棄てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、一夜じっと握っておられたが、奇蹟などはできなかった。そのためにやがて群衆は彼を「無力な男」と呼び、湖畔から去ることを要求した。だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼等を愛する者がいないことだった。
(『イエスの生涯』107ページ)

  ○「ぐうたらな弟子たち、弱虫の弟子たち」ぐうたらな弟子たち。弱虫の弟子たち。我々と同じように卑怯で卑劣だった弟子たち。しかしその弟子たちがやがて殉教も辞さぬ強固なグループと変わっていく。それはなぜだったのか。聖書のテーマの一つはそこにあるのだ。
(『イエスの生涯』176~178ページ)

 ○「神の沈黙とキリストの不再臨」エルサレムの弟子グループたちの信仰は一つには間もなくキリストがメシヤ(救世主)として彼等を救いに再臨するという希望によって支えられていた。だがペテロやポーロやヤコブのような指導者がみじめな死を遂げた時も、神はおし黙り、キリストも再臨しなかった。この神の沈黙に絶望して教団のなかには脱落者が続出したが、残った者の頭上にも地獄のようなユダヤ戦争の死闘と破壊が襲った。キリスト教徒も崇める神殿は炎上し、その至聖所も灰となった。にもかかわらず神は依然として黙っている。キリストは姿をみせない。
(『キリストの誕生』」207ページ)

 ○「イエスはなぜキリストになったのか」キリスト教の問題の核心はここにある。キリスト教の問題の一つは、イエスが信徒たちに神格化されたからキリストになったのか、それともポーロの考えるように、人間が彼を神格化したのではなく、彼自身がこの地上にイエスという仮の名で生まれる前から、より高い存在だったのか、のいずれかを問うことである。
(『キリストの誕生』220ページ)

 ○「だが、キリストはあらわれなかった」弟子たちは突きつけられた「神の沈黙」という謎を解くためイエスの再臨を考えるに至った。彼等は十字架でみじめに死んだイエスがやがて栄光のキリストとしてふたたびこの地上にあらわれるのだ、と思うようになった。その希望はやがて彼等の信仰となり、彼等の結束の理由ともなった。だがそのキリストはあらわれなかった。弟子グループがユダヤ教徒に迫害され、ステファノ(※キリスト教における最初の殉教者)が殺され、多くの信徒がエルサレムを棄てて各地に逃亡した時もあらわれなかった。
(『キリストの誕生』220ページ)

 ○「人間の永遠の同伴者と変っていった」彼は生前、現実のなかで無力であり、ただ愛だけを話し、愛だけに生き、愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざしの強いゴルゴタの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく、人間の永遠の同伴者と変っていったのである。
(『キリストの誕生』226ページ)

 『沈黙』における重要なテーマは「神の沈黙」と「永遠の同伴者(神)」だが、その後に書かれた伝記的エッセイ、『イエスの生涯』と『キリストの誕生』に通底するモチーフもまた、やはり同じように「人間の永遠の同伴者(イエス・キリスト)」へと変っていった「(ナザレの)イエス」の生き方ではないだろうか。

 今回の講座では最後に、拙著『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫、2002年)でとりあげた、聖書の物語のようなエピソードを紹介した。それは、ひとりの若者が転落事故により下半身麻痺となり、その将来は絶望的かと思われた人生にもたらされた「奇跡の物語」であり、現代における「慰めの物語」である。

 1979年2月、山崎泰広さんは留学先のハイスクールで、寄宿舎の窓から転落する事故で脊椎損傷を負った。彼が最初に意識をとり戻したのは、ボストン大学附属病院のベッドの上だった。何とか九死に一生を得たものの、下半身麻痺の状態となった泰弘さんだったが、彼はまだそのことに気づかずにいた。

 ある日、病院を訪れた神父さんから「一緒にお祈りしよう」と声をかけられた。

 「私はお祈りの文句を知らない」と答えると、「神さまに感謝することができれば、それがどんな言い方だって、何語であってもいいんだよ」と励まされ、さらに神父さんはこうも言われた。

 「たとえば、君には何の障害もない手がある。脳だって完全だね。それから今日はどんな日だった? いい日だったかい。どんな人に会ったかね。楽しかったかい。ほーら、いろんなことに感謝できるじゃないか」と。

 転落事故の直後、急遽、渡米した彼の母親で童話作家でもある山崎陽子さんは、まだ深刻な病状を知らない息子に、彼の下半身が絶望的であると言い出しかねていた。主治医からは、「患者には知る権利がある。日本人は言わないのが主義かもしれないが、下半身が絶望的であるということを本人にはっきり告げなさい」と言われていた。陽子さんが、「自分自身がまだ(息子の下半身が絶望的だとは)信じられないから、言えない」と答えると、「母親が言わないのは、過保護だ」と、いかにもアメリカ的な批判を受けたのである。

 陽子さんは、友人である作家・遠藤周作さんから、「神さまは愛の行為しかなさらない。自分もかつて何度も病の床について、なぜ自分だけがこんなに苦しまなくてはならないのかと、神さまを恨んだことがありました。しかし、いま振り返ってみると、やはり神さまは愛の行為しかなさらなかったと思います。今回の事故も、坊ちゃんにとってよかったということにいつかなるでしょう」という内容の手紙をもらった。

 しかし、陽子さんには「そのことだけは無理です。こんなひどいことが、愛の行為であるはずがない」としか思えなかった。病院にある小さなチャペルのマリア像の前で、「イエスさまが十字架にかかった、あんな悲しい思いをされたあなたは、母親の悲しみをよくご存知のはずなのに、なぜこんなひどいことを……。マリアさま、いますぐ息子の足に奇跡を起こして」と祈った。

 やはり陽子さんの友人である作家・三浦朱門さんに、「できることなら、母親である私が息子の運命を代わってやりたい。私はすべてを犠牲にして、彼の足になってやりたい」という意味の手紙を書いた。ところが、三浦さんからの返事は、「もし、泰広君が母親を犠牲にして幸せになることを喜ぶ青年なら、彼には母親に犠牲になってもらう価値はない。また、母親であるあなたなら運命を代わってやれるが、息子にはとてもその試練を乗り越える力がないと思うのなら、あなたは息子さんを見くびっていることになる。奇跡というのは、立てない足が立てることではない」という厳しいものであった。

 ある日、泰広さんは自分の下半身が絶望的であるということを知る。そのとき、彼は頭を冷やしていたガーゼを目の上にスッとずらした。陽子さんはハッとした。しかし、次の瞬間、ガーゼをパッとはねのけた彼は、「(立てないからといって)ぼくが不幸になるはずはありません」と、にっこり微笑んだ。

 その翌朝、息子の病室を訪れた陽子さんを訪ねて、一人の老人がやってきた。そのときの様子を『僕のコーヒーブレイク――遠藤周作対談録』(遠藤周作著、主婦の友社、1981年)のなかで、次のように語っている。

 一人のおじいさんが駆けてきて、「私があなたの息子に自分の足をあげたい、と言ったら、彼は『おじいさんは七十年近く足を使って、とても苦労して生きてきたんだから、これからはその足を使って楽しい人生を送ってください。ぼくのことを若いからかわいそうだと思うかもしれないけれど、十代だからこそ足のない人生だっていくらでも描けます』と言ったよ」って。そのおじいさんは、おいおい泣きながら、あなたの息子が今に実業家になったら、私を守衛に雇ってくれって、住所と名前をおいていきました。
(『僕のコーヒーブレイク』57ページ)

 その後、泰弘さんが退院するまでの間、手足を切断されたり、下半身不随の患者がいるとその病室に呼ばれるようになり、やがてこの病院では「ミスター・インディペンデント(自立)」と呼ばれるようになった。

 そして、わが子の身代わりになりたいと願った陽子さんに、厳しい内容の手紙を書いた三浦さんは、やはり『僕のコーヒーブレイク』のなかで、泰弘さんに起こった「奇跡」について次のように述べている。

三浦 ぼくは残忍酷薄な人間だから、奇跡というのは、立てない足が立つことじゃない、と言った。
遠藤 ぼくもそう思う。
三浦 奇跡というのは、立てないでも、立つことよりもそのほうがよかったと思うとき、そのとき奇跡が訪れたんだ。
遠藤 うん。
三浦 ぼくは、世の中にありうべからざること、理論的に説明のつかないことが起こったってかまわないけど、それも奇跡だと思うけど、それだけが奇跡じゃなくて、どんな状態でも、考えもつかないような結果を生むこと、それが奇跡だと思う。

(『僕のコーヒーブレイク』75ページ)

 その後、泰広さんはボストンカレッジ経営学部でマーケティングとコンピュータ科学を学び、帰国後、身障者関連機器の輸入販売とコンピュータコンサルティングを行う会社を設立。1992年のバルセロナ・パラリンピックでは三種目に出場し、100メートル平泳ぎで六位に入賞した。1999年には日本身体障害者社会人協会を設立した。

 来年1月、62歳を迎える現在の泰弘さんは、車椅子シーティング(車椅子上で正しい姿勢をとるための技術)のパイオニアとして、また、障害者支援機器の販売を行う会社のチーフコンサルタントとして、高齢者や障害者の自立支援、介護者の介護負担軽減のために、精力的な活動を行っている。

 「奇跡」というのは、立てない足が「立つ」ことではない。肉体的には車椅子に座っていても、精神的には立派に立っている。そして、山崎泰弘さんに起こった「奇跡」と「慰め」の物語は、いまもなおつづいている。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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