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連載「つたえること・つたわるもの」168

くさびだから一番大事なところへうつ、くさびだから見えないようにうつ。

連載 2023-09-12

出版ジャーナリスト 原山建郎

 このところ、新聞やテレビなど大手マスメディアの報道スタンス(報道自粛・忖度)について、さまざまな問題提起がなされている。かつて出版社(主婦の友社)に勤務し、『主婦の友』の編集記者であった一人として、いま改めて出版ジャーナリズムのあり方、エディターシップ(編集者魂)について考えてみたい。

 1917(大正6)年、石川武美(たけよし。以下、石川)によって創刊された雑誌『主婦の友』は、91年後の2008(平成20)年6月号(通巻1176号)をもって休刊(実質的には廃刊)した。

 この『主婦の友』休刊を受けて、その当時『トランネット通信』(翻訳会社の電子新聞)に私が寄稿していた連載コラム『編集長の目』№105と№106の記述をもとに、雑誌『主婦の友』が大切にしてきたこと(※『記者の道』=後述)、100年前に起こった関東大震災時の対応、敗戦の翌年に一時は同誌「廃刊」を決意したことなどにふれながら、すべてを周囲の「空気」のせいにせず、自らの「責任」において対処した出版人、石川のまっすぐな「ことば」、最後まで逃げない「覚悟」を紹介したい。

☆大正12年9月1日の関東大震災、「東京大震大火画報」として発売された『主婦之友』10月号
 通常であれば、9月15日に発売される『主婦之友』10月号(1954年から誌名は『主婦の友』となる)は、9月1日の正午、首都圏を突然襲った関東大震災のために、半月遅れの10月1日に「東京大震災大火画報」として発売された。石川は、『主婦之友』10月号巻頭言に次のように記している。

 社屋を焼いた主婦之友社は、可なり大きい被害でありました。けれども、社員に一人の死傷者がなく、印刷と製本の設備が無事であったことを思ふと、被害の程度は小さかつたものといはねばなりませぬ。また今日の主婦之友社は、これぐらゐの打撃には容易に堪へ得ることを、ことに有りがたく思ひます。十月号の『主婦之友』は既に前日殆ど全部校了になつてゐたのであるが、この際『主婦之友』の任務は、このたびの大事件を正確に皆様に報道するべきであると思ひ、印刷を終つたものをも廃棄して、全然新しい雑誌を作ることにいたしました。(※旧字体は新字体に変換、旧仮名遣いはそのまま。以下同じ)

 また、敬虔なクリスチャンでもあった石川は、同誌で罹災児童への義捐金活動を呼びかけている。

 少しでも罹災者のために意義ある働きをしたいと願つてゐましたところが、幸ひにも子供洋服の新製品を二千余着買ひ求めることができたので、着換もない不幸な罹災者の子供さんたちに、御見舞として贈ることとしました。罹災児童保育所のために、さらに5千円を贈ることにいたしました。

 このとき、『主婦之友』の読者から寄せられた保育義捐金は、数十銭、3円、10円、30円……など、さまざまな金額だったが、これらの金額と氏名はすべて、大正13年『主婦之友』1月号(大正12年12月発売)に「義捐金報告」として掲載された。その合計金額934円5銭は救世軍(キリスト教プロテスタントの慈善団体)に寄付したと記されている。その当時の所得水準は、一般労働者の所帯(所帯主・妻・子弟収入の合計)月収が28円前後、大卒の初任給(月給)が50円、国会議員の報酬(年額)が3000円という時代だった。ちなみに、『主婦之友』の平月号誌代は60銭、1月(新年)号が75銭であった。

☆敗戦の翌年(1946年)、石川が『主婦之友』廃刊を決意するという大事件。
 1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結するという天皇の玉音放送を受けて、8月号の記事は全面的に差し替えとなり、巻頭に「終戦の詔勅」が載った『主婦之友』8月号は9月17日に発売された。8月号が9月発売になったことから、9月号は10月号と合併して10月17日に発売された。合併号からはローマ字表記の「THE SHUFU‐NO‐TOMO」とともに、「The Ladies’ Journal of House Keeping」という英文表記(昭和21年1月号からはHome Journal for Ladies)が刷り込まれた。

 そして、戦後にわかに発言力を持ち始めた出版界の新興勢力(日本出版協会)は、戦時中に戦争協力をしたという理由で、主婦之友社など数社に懲罰的な用紙の削減割り当てを行い、さらに出版界粛正委員会では「主婦之友」の廃刊、石川武美社長の退陣などの粛正決議がなされるなど、身内である出版界の『主婦之友』包囲網は日々厳しさを増していった。1946(昭和21)年1月19日、『主婦之友』廃刊の決意を伝えるべく、本郷保雄編集局長(のちに集英社専務)はGHQ民間情報局にダイク代将を訪れた。

 そこには『主婦之友』に戦争責任ありと強行に主張する人々の姿もあった。約2時間、激しい議論があったのちに、本郷は「戦争中に祖国に協力したことが有罪だと言うなら『主婦之友』はいさぎよく廃刊するつもりだ」という石川社長の意向を伝えた。すると、ダイク代将は本郷に握手を求め、「みんな戦争中の責任を回避しようとする中で、自らその責任を認めようとする勇気こそ民主主義による再建に必要だ」と言って、廃刊を翻意するよう要請したという。

 1946((昭和21)年3月5日に発売された『主婦之友』3月号に、石川は「〝主婦之友〟の廃刊について」と題する「巻頭言」を発表している。少々長い引用だが、『主婦之友』が直面した最大の危機に際して書かれた、石川の経営トップとしての覚悟、烈々たるエディターシップ(記者魂)を垣間見ることができる。

 新聞やラヂオで〝主婦之友〟の廃刊が伝へられたが、それは誤報でも虚報でもなかつた。正式の手続はとらなかつたが、発行をやめようと決意したのは事実であつた。(中略)戦争はどこまでもさけねばならぬ。微力ながらもそのために、われわれはつくしたはずだ。日本人ばかりかアメリカ人のあひだにも、多少は知られている事実である。多少の力を戦争防止につくしたとはいへ、いよいよ戦争となつて、興亡を賭して国家が戦ふときに、〝私はいやだ〟といへぬ日本人であることも明かだ。戦ふ国民としての義務を怠ることはできぬ。これは米国でも英国でも、同じことであつた。平和主義者も立つて、戦つた事実をみればわかる。戦ふ以上は死力をつくして戦ふのが、国を愛するものの忠誠である。この事実は平和を愛するアメリカ人が、徹底的に戦つたことをみればわかる。(中略)〝主婦之友〟は三十年前に、私によって創刊されたものである。〝主婦之友〟といへば石川、石川といへば〝主婦之友〟と、ふたつのものは一体のように信じられてきた。それは他の雑誌社とちがひ、〝主婦之友〟ただ一誌をもつて立ち、ほかに雑誌を出さなかつたばかりか、生涯を賭してこの雑誌ひとつのために、苦難の道をはたらきつづけた私であつたからだ。
(『主婦之友』1946年3月号「巻頭言」)

 その10年前、支那事変(1937年7月、日中戦争の発端となった盧溝橋事件、第二次上海事変のこと)のときにも、一時『主婦之友』の廃刊を考えたことにもふれ、その筆は出版事業のあり方にも及んでいる。

 雑誌といふものは生命力のさかんなあひだの事業である。ひとたびその生命に衰へをみせては、もはや発行の意義をうしなふ。また出版は信念の事業である。雑誌は指導力のあるあひだの事業である。〝塩もし味を失はば地に棄てられるのみ〟(※マタイによる福音書)といふが、雑誌もまたそれである。それを念頭に常に生命力を、うしなはぬやうにしてきた私は、十年前にそのことを実現せんとしたのであつた。
(『主婦之友』1946年3月号「巻頭言」)

 また、出版界の新興勢力による『主婦之友』廃刊・社長重役退陣などの圧力についても、石川はさきに紹介したGHQダイク代将の対応ぶりを念頭に置きながら、同じ「巻頭言」のなかでこうも書いている。

 出版人の誇りを棄てて生き残りたくはない。われわれの信念が理解されぬときは、廃刊のほかにとるべき道はない。この決意は日本出版協会に伝え、また連合軍当局にも伝えることにした。そしていよいよ終刊号の巻頭言もかき終つたところへ、連合軍当局から、堅い信念をもつて国家に協力した〝主婦之友〟は、その信念をもつて日本の再建のために、苦難の道をきりひらいてゆけといふ意向がもたらされた。この理解と激励が、日本側からではなくて連合軍からであつた。この使命はわれわれ日本人が、覚悟せねばならぬことではないか。むしろ日本の当局から、言つてもらひたいことではないか。それが日本側でなくて、連合軍からであつた。このふかい理解と誠意ある激励とに、どうして躊躇することができよう。〝死力をつくして、立派な〝主婦之友〟をつくり、充分に御期待に副ひます〟と誓ふほかはなかつた。
〝主婦之友〟廃刊の決意は、かういふいきさつできまり、その決意はまたかういふいきさつで、今は中止のほかはない。しかし、この厳たる廃刊の決意は、断じて棄てたのではない。必要があれば、いつでも結構の覚悟である。
(後半省略)
(『主婦之友』1946年3月号「巻頭言」)

 この巻頭言は、1946年1月25日に書かれたものだ。石川は「雑誌というものは生命力のさかんな間の事業であり、出版は信念の事業である」として、一社一誌主義を掲げた。全身全霊で取り組む雑誌、読者に祈りが届く雑誌は『主婦之友』一誌だけと決めていたのである。

☆神もしゆるしたまはば‘記者の道’‘出版の道’かきてのこさん
 石川が主婦の友社社員のために書き下ろした、いわば私家版のような『記者の道』(非売品)がある。『記者の道』第一稿は、戦後間もない1949(昭和24)年、『出版の道』とともに書かれ、その後、出版にいたらぬまま、石川の帰天(1961年)後、2冊のうち『記者の道』のみが、主婦の友社社員(とりわけ取材記者)のために印刷・配布された。敬虔なクリスチャンであり、歌人でもあった石川は、次のような歌を遺している。

神もしゆるしたまはば‘記者の道’‘出版の道’かきてのこさん
小便に立つひまをしみ筆とりてけふもかきけりわが‘記者の道’


 『記者の道』を記した石川のエディターシップを、同書からいくつか抜書きしてみよう。

真実を書く 私が‘真実を書け’というと、どの記者も腑に落ちぬようだ。‘真実では面白味がない’という。面白いとはどういうことか。小説や物語なら、面白ければいいかもしれぬ。つくりばなしはそのためのものだ。小説家のかくものは、空想からわいた創作でいい。むしろ創作であるべきだ。そのほかの場合はちがう。読者は事実をもとめている。真実と思うてよむそれに、つくりばなしでは、‘パンをもとむるものに石をあたえた’ことになる。

体験で書く 社会種といわれる新聞の報道でも、話のききがきと、目でみてかいたことでは、内容の価値がちがう。現場を見られぬときでも、人の噂のまたぎきより、現状を見た人からじかにきいたものに真実性がある。真実を愛する記者なら、納得のゆくまで調べて、正確を期してかくはずだ。事実を調べあげて、事実のままを正直にかいたものなら、きっと読者をうごかすものがある。

独創で書く 記者の前にはいつでも、新しい題目だけがある。新しい野心と、新しい苦心と、新しい希望だけがある。‘何をかこうか’‘取材をどうするか’記者はいつもこのことで頭がいっぱいだ。鼠を追っかけぬ猫は猫でない。新しい執筆の意欲に、血をわかさぬ記者は記者でない。記者の本能である独創欲を、どうして充たすかと、このために記者は血をわかせる。この熱意をもたぬ記者は、肩書きはあっても記者とはいえぬ。この熱意を失っては、たとえ大記者であっても、記者の資格のない記者だ。

わかりよく書く ‘おれは知識人だぞ’という見栄から、記者は難しい記事をかくかもしれぬ。また経験のとぼしいために、読者を自分と同等の知識人と思い、‘自分にわかることは読者もわかる’つもりでかくかもしれぬ。学校の試験答案だと、みてくれるのが先生だ。教えてくれた先生だ。わからぬところは意味を補っても読んでくれる。そんな答案をかきなれた、学生あがりの若い記者は、先生と読者のみさかいがない。なおそのうえに駆け出しの記者は、先輩記者に力量をみせようという、至極もっともな理由もあろう。それにしても、記事の対象は編集長でもなく先輩記者でもなく、ただ〝読者だけ〟だ。それをわすれては見当がくるう。

体力で書く 仕事にはすべて、‘いつまで’という期限がある。記者の仕事はそれがきびしい。何時何分までというほど、新聞の〆切時刻はきびしい。まにあわぬ原稿は、せっかくできてものせられぬ。編集がまっている。工場がまっている。発送がまっている。汽車がまっている。読者がまっている。(中略)このきびしい働きは、たくましい体力の記者でないとできぬ。仕事に鍛え挙げた体力だけが耐える。病弱者の耐える仕事でない。

情熱で書く 記者にはいろいろな資格がいるが、どれほど完備した資格者でも、情熱に欠けては記者とはいえぬ。記者の記者たる資格はこの点だ。わが職分に情熱をもつか。わが書くものに情熱をもつか。わが情熱のたかまるあいだが‘記者’のあいだだ。情熱がうせたら、たとえ名記者でも記者とはいえぬ。地位や名誉があろうとも、いさぎよく職を去ることだ。

聴き方上手に 警官はすぐ手帳を出して、叱りながらかきとめたものだ。あの手帳は民衆にいやな印象をあたえた。話をきくとき記者もすぐ、人前で手帳を出したがる。話を上手にきこうという記者は、あんなことをしてはならぬ。友達同士が話すように、生徒が先生と語るように、子が親と語るように、自然のかたちで話しかけ、聴き出すことだ。記者は生徒であり子どもであって、どこまでも謙虚な気持ちであらねばならぬ。相手の話したいことは、たとえ聴きたくないことでも、話の腰をおらずにきくことだ。聴きたいことだけきこうとすると、つい尋問のようになってしまう。記者は自分の目的だけに急で、相手に進んで話させようとせぬ。人の気心をのみこんだ記者なら、いやな顔もせずにつまらぬ話もきく。その報いはてきめんで、相手は記者の質問に何でも答えてくれる。

材料豊富で書く 読者は正直だ。その鏡のような心には、記者のすべてがうつる。ありあまるほどの材料を、吟味に吟味して書いたものか、貧弱な材料を飴細工のように、ひきのばしたものか、読者がよめばすぐわかる。ながながしい記事ではあったが、読後にのこる何者もないものがある。みじかい記事の割合に、多くのことを教えてくれるものもある。

読者の立場で書く 読者に忠実な記者となるには、読者の立場に身をおくことだ。この記事で自分が、家を建てるつもりになるのだ。それにしても、間取りや設備ばかりに、ほれこんでもおれぬ。家を建てるものの先決問題は‘建築費はどれくらいか’ということだ。どうしたら、建築費を安くされるかということだ。この点が解決されていないと、読者のもとむる建築記事にはならぬ。

記者は革新家 時代は変わる。良くもかわるが、悪くもかわる。この変化の中にはたらくのが記者だ。立役か端役か、ともかく一役演ずる記者だ。一役演ずるというが、役者でも演出家でもなく、陰で重きをなす。脚本家の役割かもしれぬ。記者の理想なり思想なりが、時代をうごかし時代をつくりはせぬか。

信頼される記者 人間の価値は信頼の価値だ。どのくらいひとに信頼されるかできまる。‘あの人の言うことなら’と信頼されるのと、‘あの人の言うことでは’と信じられぬとでは、大きい相違だ。(中略)‘あの雑誌に出ていたから’と一も二もなく信頼され、実行されるようにならねば、せっかくの雑誌も価値がない。発行部数の多いだけでは価値は決まらぬ。

親切な記者 悲しみに泣きしずむ人を、心からなぐさむるものは、記者のかく記事ではないか。かなしむものの身になって、慰め力づけるために心をこめたものは、一篇の記事が幾万人か幾十万人かの涙をぬぐい、新しい希望をあたえることができる。この大きい働きのできるものは、親切心をたたえた記事だけだ。宗教家もなしうるところではない。教育家もなしえないところだ。イエスが現代に生きてい給うて、人を救い世を救おうとして、職業をえらぶものとしたら、恐らく記者を志望なさるのではあるまいか。それも新聞よりも雑誌記者を、えらび給うだろう。雑誌のなかでも、家庭雑誌をえらび給いはせぬか。

祈りの心で書く 祈りの心とは真剣以上のことだ。右手にはペン、左手には煙草で、原稿用紙を灰でうずめるような記者に、祈りの心をもとむることはできぬ。精いっぱいの力さえ出しきらぬものに、神の力を祈りもとむることはできぬ。人の力が出しつくさねば、祈りにこたえる神の力は加わらぬ。自分の力を出しもせず、努力の苦心をかたむけもせぬものに、祈りの力はさずけられぬ。

 私が主婦の友社に入社したのは、石川の帰天から7年後(1968年)のことであり、その謦咳に接する機会はなかったが、先輩記者たちに「雑誌の記者はどこまでも黒子に徹せよ。読者に苦労のあとを見せるな」と諭した石川武美のエディターシップは、まさに相田みつをの詩『見えないところで』にある〈見えないところに打つくさび〉だった。

くさびだから一番大事なところへうつ、くさびだから見えないようにうつ
相田みつを

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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