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連載「つたえること・つたわるもの」149

瀬戸内晴美→出家得度→寂聴。玲子と「はあちゃん」の物語

連載 2022-11-22

出版ジャーナリスト 原山建郎
 長尾玲子さんから、近著『「出家」寂聴になった日』(百年舎、2022年11月9日)を送っていただいた。書誌情報(著者、版元、発行年)に発行日まで記したのは、昨年11月9日、99歳(白寿)で彼岸に旅立たれた、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの、ちょうど一周忌にあたる日に上梓されたからである。

 二〇二一年十一月九日に白寿で旅立った瀬戸内寂聴は、十一月十三日午後六時過ぎ、黒いリムジン型霊柩車に乗せられて、四十七年間暮らした寂庵から最期の旅に出発した。
はあちゃんの野辺の送りは、コロナ禍のために三人のお坊さんと二十七人の参列者という、本当に小さなお葬式だった。

長尾家では家族だけの時には、瀬戸内寂聴を「はあちゃん」と呼ぶ。
母・恭子が、「はあちゃん」こと寂聴の思い出を話し出したのは、寂庵のお堂での家族葬から数日経ってからだった。
(中略)
 恭子は寂聴の十一歳年下の従妹、その娘が私、玲子だ。
私は、一九七〇年冬から二〇一〇年の年初まで、濃淡はあるが四十年間、晴美そして寂聴の文学創作に関わっていた。後半の十五年間は、秘書として行動を共にし、二日しか自宅に帰れない月もあった。

(『「出家」寂聴になった日』「はあちゃんのこと」7~8ページ)

 母・恭子の思い出・昔語りを縦糸に張り、そこに筆者自身の記憶と思いという横糸を通して、ときに瀬戸内晴美(寂聴)の「独白」を配しつつ、「はあちゃん」こと瀬戸内晴美・寂聴が終生かけて紡いだ文学を、はじめは身近な親戚(従妹の娘)として手伝い、後半の十数年は秘書として支えた長尾さんが、「瀬戸内晴美は、なぜ51歳で出家し、寂聴になる道を選んだのか」というテーマに切り込んだ評伝小説である。

 ところで、瀬戸内晴美さんといえば、1968(昭和43)年9月、『主婦の友』編集部読物課に配属されて間もない新前記者の原山が、初めて自伝小説『いずこより』の「原稿取り(受領)」を命ぜられた作家である。同年3月11日から書き始めた「(業務)日誌」の9月22・23日/10月23・24日に、次の記述がある。

 九月二十二日(日)晴のち曇 東京発 午前九時 京都市内泊
○瀬戸内晴美先生の「いずこより」原稿受領のため、東京発午前九時の新幹線で京都入り。中京区丸太町御池の先生宅に午後一時ごろ着き、夜まで待って脱稿に至らなかったので、近くの旅館に泊まることになった。
○会社に電話して、休日出勤中の整理課(レイアウト)の水原課長に会社の近くでゼロックス(コピー)が使用可能なところを調べていただいた。読み物課の藤田課長のご自宅に電話を入れて、出張日程の変更(日帰り主張予定の日延べ)を報告し、翌日の対応について指示を受けた。
九月二十三日(日)晴 東京発 午前八時十八分 退出 午後七時
○朝六時二十分、瀬戸内晴美先生宅に伺い、「いずこより」の原稿三十枚を受領した。
○午前八時十八分、京都発の「ひかり」で東京に戻り、会社近くの太陽堂(写真店)でゼロックスコピーをとり、披露山(神奈川県逗子市)にある小磯良平先生のアトリエに届けた。
(※9月24~10月22日分は割愛)
十月二十三日(水)雨 出社午後三時 退出 午後七時三十分
○午前中、瀬戸内晴美先生の「いずこより」原稿受領のため、自宅から目白台アパート(※東京の仕事場)に直行。先生は歯痛で筆が思うように運ばない由、そのまま待機。午後二時三十分に脱稿。そのまま出社。
十月二十四日(木)雨 出社午後四時三十分 退出 午後九時三十分
○午前七時発の「ひかり」五号で、神戸市の小磯良平邸(※神戸市灘区)へ。「いずこより」挿し絵を受領し、午後四時、東京駅に帰着。

 そのころの瀬戸内さんは、東京(目白台アパート)と京都(御池の家)の二カ所に仕事場があり、画家の小磯良平さんもやはり神戸(灘区の自宅)と神奈川(逗子の別荘)の二カ所にアトリエがあったので、毎月の「原稿受領(初校届け・赤字入り受領)」「(原稿コピー・レイアウト届け)挿し絵受領」はときどきの順列組み合わせによって、東海道新幹線、国鉄(現JR)神戸線、横須賀線の時刻表とのにらめっことなる。

 いくつか、日誌には書かなかったことがある。
 9月22日のお昼過ぎ、京都の仕事場に伺った私が、「お原稿をいただきに上がりました。『主婦の友』編集部に配属されて初めての出張です」と申し上げると、「まだ原稿はできていないの。タクシーを呼んだから、夕方まで好きなところを回っていらっしゃい」と言われ、嵯峨野周辺のミニ観光を楽しんだ。夕方戻った私に、「原稿はまだなのよ。しゃぶしゃぶ屋を予約しておいたから、食べていらっしゃい。原稿は明朝になりそうだから……、今晩のお宿は自分で探してね」と、瀬戸内さん。もちろん、編集部がよく利用する旅館がある(デスクから連絡電話番号を聞いていた)ので予約を入れ、そのあと、休日なのでデスクの自宅に「出張の日延べ」を電話で報告、了承されたのち、タクシーでしゃぶしゃぶ屋に直行。タクシー代、夕食代はすべて瀬戸内さん持ち、宿泊代のみ会社持ちという、新前記者にとっては夢のような「初出張」となった。

 翌9月23日の早朝、「お原稿をいただきにまいりました」と声をかけると、障子の向こうから、原稿を持った手がにゅっと出てきた。障子に写る、乱れ髪の影。徹夜して書き上げた原稿30枚を1枚1枚、しっかり読む。「お原稿ありがとうございました。これから編集部に戻ります」とお礼を述べ、自伝小説「いずこより」の原稿を封筒に収める。大通りに出てタクシーを拾い、京都駅の新幹線口に向かう。

 『主婦の友』編集部配属から4カ月が経ち、12月に入ると、新たに作家・遠藤周作さんの「原稿受領」と画家・宮田武彦さんの「挿し絵受領」が、新前記者の仕事に加わった。「日誌」にはこう記されている。

 十二月十七日(火)晴 出社 午前九時十分、退出 午後八時三十分
○夕方、六時十分ごろ、『うちの女房・うちの息子』(遠藤周作が雑誌『主婦の友』に連載していた)の原稿コピーを、挿し絵画家の宮田武彦先生邸(※目黒区柿の木坂)に届けた。
十二月十九日(木)雨 出社 午前十一時三十分、退出 午後七時
○夕方、瀬戸内先生のアパートに原稿受領に行ったが、お留守で「明朝に」と張り紙があった。
十二月二十日(金)晴 出社 午前九時十分、退出 午後九時三十分
○午前中、目白台アパートに瀬戸内晴美先生の原稿受領で出掛け、十二時十分に受領し社に戻った。

 これが、のちに「遠藤周作番記者」となる私の、もうひとつの「初仕事」であった。その数年後、『主婦の友』新年号から始まった『遠藤周作と瀬戸内晴美のリレー対談』で、私は遠藤さんの対談まとめを隔月で担当することになった。対談相手の一人目は作家の佐藤愛子さん、二人目は漫才師のミヤコ蝶々さん、三人目は……というタイミングで、突然、瀬戸内さんの対談がストップした。デスクから遠藤さんには自分が直接説明すると言われ、私はくわしい事情がわからないまま、遠藤さんの(リレー)対談もそのまま中止となった。

 その年の11月、瀬戸内さんは中尊寺で「出家得度(今東光和尚を師僧として、天台宗の僧侶となる)」して、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴(寂聴尼)となる。

 恭子は、ほとんどテレビを観ないけれど、はあちゃんは自分が出演した番組のことを、
「どうだった?」
 と必ず恭子に尋ねるので、毎朝、新聞のテレビ欄を確かめて、見落とさないようにしていた。

 この頃は、NETテレビの奈良和モーニングショーの水曜日のレギュラーになっていた。生放送なので、帰ってくるとすぐに電話がかかる。

 十一月十四日も恭子は奈良和モーニングショーをつけていた。いつもの「女の学校」コーナーに、はあちゃんの姿がない。落ち着いた声で「本日十時に中尊寺で得度出家します」というはあちゃんの手記が代読された(「文藝春秋」二〇二二年一月号で代読したのは下重暁子さんだったと明かされた)。毎日のように顔を合わせていたのに、恭子は何も聞いていなかった。驚いて椅子から立ち上がったら、腰に激痛が走った。ショックでぎっくり腰になったらしい。

(『「出家」寂聴になった日』「中尊寺 一九七三年十一月十四日」106~107ページ)

 しかし、瀬戸内さんの「出家得度」に対する、世間の目はあまり好意的なものではなかったようだ。『生きることは愛すること 瀬戸内寂聴の世界』(瀬戸内寂聴著、講談社、2007年)には、こう書かれている。

 私が出家得度した時、無宗教の小説家や、仏教徒でも形だけの人たちに、思いがけないほど非難されたり悪口をいわれた。ずい分日頃親しくしていた人たちからで意外だった。もっと意外だったのは、その時、普段はそれほど深いつきあいをしていなかったキリスト教徒の小説家が、揃って私を祝福してくれ、励まし、心から喜んでくれたことであった。

 その人たちは、申し合わせたようにカソリックの信者さんたちであった。
遠藤周作さん御夫妻、三浦朱門・曽野綾子さん御夫妻、田中澄江さんのあたたかな御励ましは、生涯忘れることが出来ないだろう。

(『生きることは愛すること 瀬戸内寂聴の世界』75ページ)

 さきに『主婦の友』のリレー対談がなぜ中止になったのか、私にはよくわからなかったと書いたが、遠藤さんはすでに瀬戸内さんの「出家得度」をご存じだった。じつは、瀬戸内さんが一度カトリックの洗礼を受けようかと考えたとき、友人の井上洋治神父を紹介したこともある。しかし、仏教での出家を決意した人生の選択を、遠藤さんは心から祝福した。後年、『寂庵だより』(瀬戸内寂聴著、講談社文庫、1990年)で、遠藤さんからは道服が、順子夫人からは観音経の写経が贈られたことに、感謝のことばを述べている。

 得度の話を私はごく親しい人々にもほとんどしていなかった。けれども遠藤周作さんには事前に電話で話した。私は仏教の出家を思いつく前、遠藤さんに相談してカソリックの洗礼を受けようかと思ったことがあったからである。

 結局、私が仏教の出家をしたのは、仏縁があったのだろう。

 遠藤さんは私の出家に対して、黒羽二重の道服をお祝いに贈ってくれた。その時、遠藤さんの奥さんの順子さんが、私に観音経を写経して下さった。もちろん遠藤夫人も御主人と共に熱心なカソリックの信者でいられる。

「カソリックの信者として他宗のお経なんか写していいかどうか、神父さまにお伺いをたてたら、そういう事情なら、写経しておあげなさいといってくださったんだよ。女房のおかあさんが仏教の信者で、写経していたのを、子供の時、よく見ていたから観音経も知っていたんだって」

 遠藤さんはそういって奥さんの写経を私に渡してくださった。私はそれを押しいただいてお受けした。
吉野に旅行された時需
(もと)められたという上等の吉野紙を使って、経本のように手造りにつくって、その中に観音経偈を謹写してくださってあった。

 私は涙が出てその文字が霞んできた。

 同じ宗の方からのお祝いならともかく、カソリックの信者の立場で、私の出家得度をこんなふうに祝って下さったということは身にしみて有難かった。

 私はそのお経を持仏堂に供えて、宝物のように扱っている。遠藤夫人はきっと毎日のお祈りに私を思い出し、祈ってくださるだろうと信じている。私もまた朝夕の祈りに遠藤夫人を忘れることはない。

(『寂庵だより』217~218ページ)

 さて、メインテーマは「瀬戸内晴美は、なぜ51歳で出家し、寂聴になる道を選んだのか」である。

「成功している人が、全部捨てて、突然、出家する理由を考えたんだけど」
「わかったんですか」
それはすごい。
「引っ張られてる感じってわかる?」
「なんとなく」
と言うが、はあちゃんは確信を持ったような目をしていた。
「一遍も、良寛も、西行も、なんで出家したのかわからなかったけど、一つ、この頃になって思い当たることがあるのね」
「なんですか?」
つるつるの頭を撫でて、はあちゃんが左手で頭を叩いた。
(中略)
「うーん、何かわからない宇宙を司る大いなる力に引っ張られてって感じ」
「わからないなあ」
「わからないかなあ。あたしと、こんなに長いこと一緒にいるのに」
はあちゃんは、さらに意外なことを言う。
「わかったら、私も出家しなくちゃならない」
「そうね、わかったら、言って。あんたも出家しなさいよ」
「まだ、全然引っ張られてません」
はあちゃんはからからと笑ったが、ほんの少し残念そうだった。

(『「出家」寂聴になった日』「私の瀬戸内寂聴 玲子の回想」244~245ページ)

 流行作家として全盛期、熱い恋も真っ最中、健康で、何不自由ない毎日を送っていた五十一歳の時の出家は、なぜだったのか。
 何度聞いても、答えは、
「わからない」
 だった。
 ただ、
 「馴れる」ことを恐れ、拒んでいたはあちゃんが、「小説の書き方のテクニック」に馴れたと自覚してて、新しい自分の小説のスタイルを得るために、それまで確立した小説の技術や、贅沢な生活をそぎ落すように、すべてを、すっぱりと捨てようとしたのではないかと思う。

 得度式はお葬式でもあるという。出家、得度すれば、それまでのはあちゃんは死に、新しく寂聴が誕生する。寂聴が、新しい小説を書きつづけようと思ったのではないかと、私は思う。

(『「出家」寂聴になった日』「書くことだけではなく」286~287ページ)

 「得度」の「度(ど)」は「わた(渡)る」、「得(とく)」は「う(得)る」と訓読すれば、迷いの多い「此岸(この世・現象世界)」から悟りの「彼岸(あの世・根源世界)」に渡ることを「得(う=できる)」という意味になる。これは私見だが、キリスト教の「受洗(洗礼を受ける)」にも、同じような思想を読みとることができるのではないだろうか。

 「洗礼(バプテスマ)」は、キリスト教の入信に際して行われるサクラメント(秘蹟)の中心的儀式で、「水の中に沈める」意味をもつ。儀式は浸水(浸礼:全身を水に浸す)、または灌水(頭部に水を灌ぐ)、滴礼(頭部に手で水滴をつける)によって行われる。受洗者はキリストの死のうちに沈められ、キリストと共に「新しく創造された者」として復活するとされる。つまり、肉体の象徴的な死を通して、魂の復活(新生)を行う儀式である。

 「はあちゃん」こと、瀬戸内晴美さんは、51歳のとき、中尊寺で受けた「出家得度」を介して、瀬戸内寂聴(寂聴尼)という「彼岸」を、99歳まで生きる作家となった。

 また、遠藤周作さんは12歳のとき(1935年6月23日)、カトリック夙川教会で受けた「洗礼」により「パウロ」という洗礼名を授かったことから、73歳で帰天するその日まで、「私が神を棄てようと思っても、神が私を棄ててくれない」というテーマを終生追い求める作家となった。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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