PAGE TOP

連載「つたえること・つたわるもの」(133)

「医師と取材記者」から〈患者とその家族〉になる。

連載 2022-03-23

出版ジャーナリスト 原山建郎

 日本の医療問題、なかでも高齢者の「看取り(老衰死・自然死)」をおもなテーマに選んで、精力的な取材・執筆・講演活動を行っているフリーライターの友人、田中奈保美さんから、先月上梓されたばかりの著書『ボケてもがんでも死ぬまで我が家――夫のがん発覚から看取りまでの一年二か月の記録――』(田中奈保美著、アートデイズ、2022年)を送っていただいた。

 以前にも、『枯れるように死にたい――「老衰死」ができないわけ』(田中奈保美著、新潮社、2010年)を頂戴したことがあり、やはり高齢者の「クオリティ・オブ・デス(安らかな死)」「リビング・ウイル(尊厳死)」「ナチュラル・ダイイング(自然な〈お迎え〉)」「バリデーション(認知症の人に対するケア)」に関心を寄せているフリーライター仲間の私にとって、田中さんはいわば「戦友」のような存在である。

 12年前に上梓された前著『枯れるように死にたい』には、夫である医師、佐藤順(すなお)さんが、心臓血管外科医として大学病院、県立病院で勤務したあと65歳で定年退職し、その後、介護老人保健施設や特別養護老人ホームで施設長だったころの、夫婦(順さん・保奈美さん)の会話などが収められている。

 老人施設で働くようになってまだ日も浅いある日、夫は帰宅するなりこう言った。
「病気でもないのに病院に送るとはなにごとだ! ねえ、きみ、おかしいと思わない。病院は病気を治すところであって、亡くなった年寄りを送るところじゃないでしょ」
 夫はけっこう怒っていた。しかし、怒りの矛先がなく、とりあえず身近な私に投げかけてきたのだった。話を聞いてみると、施設では利用者の寿命が尽きて死にそうになったときには、すみやかに病院へ搬送することになっているという。それどころか、ときには呼吸が止まっているのに気づいて、あわてて車に乗せて死者を病院に運ぶこともある。それが当然のごとく行われていると知ってとても驚いたという。
 夫の怒りの理由は二つあった。
 ひとつは病院は病気を治すところであって、寿命が尽きた年寄りの死に場所として使われるのは問題だ、間違っているということ。そして、今ひとつは病気ではなく老衰で亡くなっていく年寄りを、なぜ住み慣れた自宅や施設で看取ってあげないのかということ。年寄りが気の毒ではないか、と夫は言った。

(『枯れるように死にたい』1~2ページ)

 それまで高齢者の死について病死か老衰かなど厳密に考えたことがなかった奈保美さんの耳に、「老衰で亡くなっていく年寄りを、なぜ自宅や施設で看取ってあげないのか」という問いかけが、新鮮に響いた。

 もうひとつ、老人施設における高齢者のターミナルケアでは、老衰で生命のレベルが低下すると、自然に食欲がなくなったり、飲み込む力が衰えてくると、やがて食べ物を受けつけなくなる。その段階で病院に送られると、多くの場合、胃に穴をあけたり(胃ろう)、鼻から胃へ管を通して栄養を送る(経鼻栄養)処置が施される。その結果、自力で食べることができなくなったお年寄りが、車にガソリンを注入するように管を通して栄養を補給されながら、意識もうろうの寝たきり状態で何年も「生き続ける」ことになる。そんな現実を目の当たりにした順さんは、奈保美さんに再び「人間の尊厳を冒していると思わない、きみ」と問いかける。順さんの怒りは、自分にとっても見過ごしにできない問題だと考えた奈保美さんは、老人施設での高齢者の終末期の現実をもっと知りたい、見てみたいと思うようになり、この本の取材・執筆を決意した。
同書には、勤務医から開業医に転じたワタナベ医師の、胃ろうに対する考え方の変化が書かれている。

 ……胃ろうは延命でなく救命であり、生命維持に不可欠。
 なるほど、そういう考え方もあるのか、とワタナベ医師の話を聞いて私は軽い衝撃を受けた。見方を変えると是にしか見えなくなる。ワタナベ医師の考え方は高齢者の終末期を知らない臨床医師の多数意見かもしれない。ワタナベ医師の説明を受けた家族にとっては、胃ろうを置く以外の選択はほとんどなかっただろうと思った。
 繰り返しになるが、問題は胃ろうを置いた高齢者の「その後」だ。ワタナベ医師は病院勤務をやめて開業し、在宅医療を経験するまでは、大多数の臨床医と同様、「その後」についての知識はなかった。
死ぬ時機を逸する患者
 そして開業して五年たった現在、考え方が変わってきたとワタナベ医師はいう。
「このまま無制限に胃ろうで栄養を与え続けるのが、果たしていいことなんか疑問を感じるようになってきたんです。在宅医療で診ているお年寄りが寝たきりで意識のないまま、死ねなくなってしまっているんですよね」
 そう言って、こんな現実を明かした。
「胃ろうを置けば、栄養状態がよくなってお年寄りの身体は元気になる。ということは介護がそれだけ長引くということなんです」
                
(『枯れるように死にたい』151~152ページ)

 『枯れるように死にたい』の出版から数年後、医師として高齢者の延命治療を深く憂慮し、自ら施設長をつとめた老人施設で「高齢者の自然死」を推進してきた順さんが、八〇代を目前にして認知症を発症。さらに八〇歳で食道がんが見つかったときにはすでにリンパ節に転移し、ステージ三と診断される。主治医からは治療しても再発の可能性はかなり高く、再発したときにはもう治療法はないと言われた。かくして、〈高齢者の看取りと死〉を共通のテーマに二人三脚の人生を歩んできた二人は、前著までの「医師と取材記者」という立場から、今度は認知症と食道がん〈患者とその家族〉へと大きくシフトすることになった。

 順さんのクオリティ・オブ・デスは、「延命治療してまで生きたいと思わない」「最期まで自宅で過ごしたい」であり、その考えは最期まで揺らぐことはなかった。しかし、認知症と食道がんを併せもつ医師でもある順さんを「最期まで自宅で看取る」覚悟をきめた奈保美さんには、数年前から同居することになった実母(週3回デイサービス、週2回ヘルパー介助)の世話もあり、『ボケてもがんでも死ぬまで我が家』に記された「がん発覚から看取り」まで、1年2カ月にわたる「看取り介護」には想像を絶する苦労があった。

 当の夫は担当医との面談で食道がんと知らされたものの、記憶が曖昧で、やはりはっきりとした自覚がない様子。夕食時に咽喉を詰まらせると、検査したことを思いだしたようで、
「なんだったのか、この咽喉のところは」
と質問が始まります。
「食道がんが見つかったんですよ」
「治療はいつからだ」
「来週からです」
「なんで来週からなんだ」
 いつものようにひと度質問が始まると、何度も同じ質問が繰り返されます。今言ったことを忘れる、聞いたこともたちまち忘れる夫のタイプの認知症。とくに少し緊張状態になるとこうした症状が出やすくなります。喉の不調、受診、がんの診断、治療開始という一連の出来事に、夫も記憶が曖昧ながら、ストレスを感じている証拠だとも思いました。 
      
 (『ボケてもがんでも死ぬまで我が家』34~35ページ)

 高カロリー輸液や胃ろう造設などの「延命治療」を望まない「患者」である順さんの食道がんは、今まで通りの食べ方では、すぐに食べ物を食道患部に詰まらせてしまう。

 そこで、奈保美さんは食卓で順さんの横に張り付いて、「少しずつよ」「よく噛んでね」とひと口ごとに注意する。「わかってる!」とうるさがられ、黙っていると、うっかりいつもの調子で食べてしまい、あっという間に食道患部を詰まらせてしまう。気が気ではなかった。内視鏡検査直後は、患部に溜まっていた食べかすが胃カメラの通過にともなって下へ押し流され、食べ物の通りがそのときだけよくなることもあった。

 朝食で食べていたトーストは細かく切って、温めた牛乳に浸したものを口に入れてもらうのですが、頻繁に引っかかってつかえてゲホゴホと吐き戻してしまう。温泉卵は大丈夫(夫の大好物でしかも栄養価が高いので、咽喉の通過には支障がないとわかり、ホッとする)。ソーセージやサラダは細かく刻んだものでも要注意。白いご飯はおじやにしてみたが、一口食べてはゲホゴホ。これも要注意……。
(『ボケてもがんでも死ぬまで我が家』39ページ)

 日記スタイルで書かれた第4章「最後の四〇日」の「一月十五日(日)」には、肺炎で高熱を出して一時入院した順さんの病室での、素敵なひと言が記されている。

 別れのときは刻一刻と近づいているのだ。毎日のように痛い痛いという肩をさすると、日ごとに痩せて骨と皮だけになっていくのがわかる。食事らしいものはいっさい受け付けず、アイスクリームやりんごや梨などの果物をほんの少量口にするだけ。ひとりで病室にいるのは本当に寂しいのだろう。一昨日の朝などは私が病室に入ったとたん、
「奈保美! 寂しかったよ」
と言って私に抱きついて、たまたま部屋にいた看護師さんたちを驚かせた。心は日ごと無垢になっていくものなのか。ありのままの気持ちを包み隠さずさらけ出す姿に救われる。

(『ボケてもがんでも死ぬまで我が家』257ページ)

 順さんが息を引き取ったのは、「ニ月一〇日(金)」の明け方だった。

 夜中、夫の「トイレに行く」の声に起こされる。時計を見ると一時だった。
 夫がベッドから起き上がるのに手をかすものの、まったく起き上がれない。上半身を抱え起こそうとしたところ、やけに熱い。身体をガクガク震わせている。すぐに体温を測ると三八度九分の熱。うわぁ、大変! すぐに訪問診療所に電話。たまたま担当医のA先生が当直していた。
「すぐに解熱剤を肛門に入れ、抗生剤も飲ましてください。これからそちらに向かいます」
(中略)
 一時四〇分、A先生が到着し、あっという間に解熱剤を入れてくれて、一安心。血圧、酸素濃度、脈拍を測り、薬を処方。先生に手伝ってもらい、夫を仰向けに寝かしてもらう。
 A先生が帰った後、
「お水を飲みますか」
と尋ねると、「うん」とうなずく。OS-1
(※経口補水液)を飲んでもらい、氷のかけらを口に入れる。しばらくすると、夫は落ち着きを取り戻し、深い眠りにおちていった。
 ――まさかこれが夫との最後のやりとりになるとは……

   (『ボケてもがんでも死ぬまで我が家』296~297ページ)

 奈保美さんは同書のエピローグで、すべて病院にお任せではなく、自宅で順さんに寄り添いながら、できるだけ優しくありたい、順さんの望むことは百パーセント叶えてあげたいと心から願っていたが、それは言葉で言うほど簡単ではなかった、ときに薄情になりそうな自分が顔を出すこともあるなかで、なによりも必要だったのは「愛情を培う努力」だったような気がすると述懐している。

 最後まで「愛情を培った」妻・奈保美さん、認知症と食道がんという「病いを生き切った」夫・順さん、このすばらしいお二人に、真宗大谷派僧侶、金子大榮師の「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても 人は死なぬ」という一文を、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一著、ちくま文庫、2009年)のなかで、著者で倫理学者の竹内整一さんが簡潔に表現した、素敵な二行詩を贈りたい。

花びらは散る
花は散らない


【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

人気連載

  • マーケット
  • ゴム業界の常識
  • 海から考えるカーボンニュートラル
  • つたえること・つたわるもの
  • ベルギー
  • 気になったので聞いてみた
  • とある市場の天然ゴム先物