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連載「つたえること・つたわるもの」(113)

快い感動を呼ぶ緑と青、〈記憶色〉〈期待色〉、心の栄養。

連載 2021-05-25

出版ジャーナリスト 原山建郎
 かなり古い話で恐縮だが、パソコンを用いる前段階で、キーボードで文字を入力するワープロ専用機を使い始めた三十数年前、日本眼科医会のシンポジウムで「なぜ緑色は目にいいのか」という演題があった。

 当時、ワープロのディスプレー画面は、「背景は黒地、文字は緑色」が標準パターンだったが、「文字色を緑にしたのは、緑が目にやさしい色だという思い込みである。ところが、黒地に緑色の文字では目立たないので、輝度を上げてキラキラ光る緑色すればよいと考えた、その思い込みが裏目に出て、VDT症候群(視力の低下、眼精疲労)を引き起こす原因の一つになってしまった」という発表だった。その後、OA機器のディスプレー画面は、あまり目に負担がかからない「背景は明るいグレー、文字はブラック」が主流となった。思い込みで合成された「キラキラ光る緑」は、パソコンが主流になるとあっという間に姿を消した。

 「緑色は、目によい」と昔からよくいわれるのだが、それは人工的に作り出した「緑色」のことではなく、自然に存在する「緑(青緑)」のことである。自然の風にそよぐ草木の葉緑、樹木の緑陰が見せる「生きている緑」には、目やからだを癒すだけでなく、こころの底からほっとくつろげる何かがある。

 かつて病院の医師の仕事着といえば、清潔感をあらわす白が主流だったが、いまでは緑(青緑)色の手術着や診察着をまとった、親しみやすい雰囲気のドクターが多くなった。それは1920年代、ニューヨークのある病院で、外科医が手術中に周囲の白いタイル張りの壁に青緑色の幻が見え、苦痛を訴えたことがきっかけとなったという。これは色覚の残像現象で、血液の色である赤の補色、つまり青緑色が外科医の視覚に残像としてあらわれたものだった。その病院ではこの残像現象をやわらげるために、壁の白タイルは青緑色にとり替えられたそうだ。その後しばらくして、それまでは白で統一されていた病院の色彩環境が、カラー・セラピー(色彩の自己治癒力)の観点から見直されるようになった。日本でも手術着のブルーグリーン、女性看護師のピンクや清掃作業員のブルーのユニフォームは一般的になり、いまでは病気の種類、患者の年齢によって、入院時の心理的負担(不安)を軽減する目的で、病室の色を塗り分ける試みもなされている。

 また、近年の自然回帰ブームで、庭や室内に緑を取り入れる家庭が増えている。トマトやキュウリなどの野菜を有機農法で作る家庭菜園も盛んだ。すぐれた園芸家やヒーラー(自然療法家)の手は「グリーン・ハンド(緑の手)」あるいは「グリーン・サム(緑の指)」と呼ばれ、とても尊敬されている。逆に、その人が手入れすると、なぜか作物が枯れてしまう「ブラウン・サム(褐色の指)」もいる。同じ家族であっても園芸が得意な人と、不得意な人がいるのはそのためだ。手入れする人の「ハンド・パワー」の色が重要なのである。

 緑色というと、私たちは「木々の葉や草花」の緑を思い浮かべるが、なぜ葉は緑色なのだろう。

 植物は太陽の光を利用して、根から吸収した水を酸素と水素に分解する。そのとき発生する酸素を放出しながら、一方で水素を利用して、葉から吸収した二酸化炭素をブドウ糖やデンプンなど自分を養う栄養素に作り変える。太陽の光には目に見える波長の光(プリズムで分光できる赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)と、目に見えない波長の光(赤外線や紫外線)があるが、植物の「光合成」に必要な波長の光である、赤外線に近い「赤」と紫外線に近い「青」、この二種類の光を、葉の中のクロロフィル(葉緑素)がエネルギーとして吸収する。ところが、クロロフィルは赤と青の中間の波長である「緑」の光だけを必要とせず、すべて反射する。「赤」と「青」の光を吸収し、「緑」の光だけを反射する。

 つまり、植物の葉は太陽から照射された光のうち、緑色だけを反射するので「緑の葉」に見える。リンゴの熟れた実が赤く見えるのは、「赤」だけを反射しているからである。太陽の光を反射しない、つまり光のエネルギーをすべて吸収するものは、真っ黒に見える。冬に黒い服を着ると暖かいのは、「黒」が熱エネルギーをより吸収しやすいせいだ。

 それにしても、生命力あふれた若葉がこの緑色だけを反射して、葉緑、緑陰、緑雨、緑豆、緑茶、緑風などの言葉を生んだ、造化の神の粋なはからいには全く驚かされる。

 もともと物体には色はない。薄暗がりのなかでは、その物体の輪郭はわかっても、色までは見えない。光のないところでは、色は存在しない。「葉はなぜ緑色なのか」の答えは、クロロフィル(葉緑素)が吸収しない緑色を反射して、私たちの目には「緑色の葉」に見える、つまり、物体に当たった光が反射して目に入る、その光を「物体の色」として見ているだけなのだ。

 リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンは、1666年、彼が23歳のときに行ったプリズムによる光の屈折の実験で、肉眼では白く見える太陽光のスペクトル(紫→青紫→青→青緑→緑→黄緑→黄→橙→赤)を分光することに成功した。太陽光(可視光線)のうち、短い波長の光を反射する物体は紫色に、長い波長の光を反射する物体は赤色に見える。

 太陽光のフルスペクトルのなかから、いったいどの色を反射するのか、つまりどの色に見えるのか、それは単なる偶然ではない。大は天体の運行から、小は遺伝子の螺旋構造にいたるまで、調和を愛するガイア(地球生命圏)のカラーコーディネートなのだ。フォトセラピー(光療法)の第一人者、ジェイコブ・リバーマンは、その著書『光の医学』(ジェイコブ・リバーマン著、飯村大助訳、日本教文社、1996年)に「人体は光電池」と題して、次のように書いている。

 花は開き、動物や人は目覚め、世界には活力がみなぎり、新しい一日が始まる。昼を表す色は、太陽の〈黄〉、空の〈青〉、地球の〈緑〉である。昼の時間がたつにつれて、周囲の色の変化が際立ち、同時にその変化に応じた影響があらゆる生命に現れる。夕陽の〈赤みがかかったオレンジ色〉が夜のダークブルーにとけ込み始めて一日の終りが訪れると、生理学的な活動はみな次第に歩みをゆるめ、やがて静まって回復期に至る。昼から夜へのこうした劇的な色の推移は、あらゆる生体内で内部ギアの切り替えが起きていることを示している。自然が色彩スペクトルの一端(昼の赤橙色)から他の端(夜のダークブルー)へと次第に切り替わっていくにつれて、人体も機能モード(労働)から、別のモード(休息)へと切り替わる。
(『光の医学』第1章「人体は光電池」4ページ)

 紺碧の空、スカイブルー、抜けるような青空は、なぜ青いのだろう。

 太陽の光は大気中の空気の分子や浮遊するゴミなどにぶつかり、あちこちに飛散する。これを散乱というが、波長の長い赤系統では起こりにくく、波長の短い青系統でよく起こる。青い色は赤い色より、約10倍も散乱しやすい性質を持っている。空気の分子などにぶつかって散乱した青い光が、さまざまな角度から私たちの目に飛び込んでくるので、空はどこまでも青く見えるのである。

 マリンブルーの海は、なぜ青いのか。それは海中に届いた太陽の光のうち、赤い光は吸収され、青い光が散乱を起こすからである。マリンブルーといえば深い海の濃い青だが、緑色がかった青い海はエメラルドグリーンと呼ばれている。サンゴ礁や遠浅の白い砂の海では、海中で散乱した青い光だけでなく、海底の白い砂に反射して戻る間に、赤い光は吸収され、残った青や緑の光が反射してエメラルドグリーンに輝く。

 私は幼いころ、柿の木に上って見た「真っ赤な夕焼け」をよく憶えている。燃えるような夕焼け、それを〈記憶色〉という。人間の脳には、目で見たものを記憶するときに、明るいものはより明るく、きれいなものはよりきれいにインプットする傾向がある。また、美しい夕焼けを撮った写真を見て、「本物の夕焼けは、もっと美しかった」と思うのは、〈記憶色〉とのギャップを埋め、より美しく復元しようとする〈期待色〉の心理だという。実物より「もっと美しく」と願う〈期待色〉は、より「快」を求める人間の心理なのだ。

 〈実物よりも、もっと本物らしく〉――雑誌に印刷されたカラー写真ページは、〈期待色〉を再現する印刷技術が重要なポイントである。たとえば、海中で撮ったサンゴ礁の写真には、撮影者の感動という客観的要素が加わって、より美しさが誇張された海のイメージが記憶される。そこで、編集者は撮影されたカラーフィルムの色を素材に、青や緑を強調し、彩度を上げた刷り色(印刷インク)の初校を出す。また、デザイナーは一般読者の〈期待色〉を念頭において、「もっと鮮やかに」「赤を弱く、藍を強く」などと、色校正のコメントを書き入れる。また、たとえば一流の画家は肖像画を描くとき、もちろん本人を素材にしながら、実際には実物以上の本人をキャンバスに色や形で再現・創造する。〈記憶色〉をはるかに超える〈期待色〉を再現した、雑誌のカラー印刷ページや優れた画家が描く絵画は、それを見る人に快い感動をもたらす。

 リバーマンはまた、一日の色の変化が生体リズムと密接に結びついており、さらに季節の色の変化も生体内の生物学的な変化に影響するとしている。植物の種まき・生育・収穫、動物の冬眠・渡り・繁殖などが季節周期で起こるのは、周囲の光の変化との関係が大きい。太陽の光がもたらす色の変化が、身体の内部ギアを切り替えているのだという。

 光は主要な栄養の一種であり、体に直接影響を与えると同時に食物を通して間接的にも影響を与える。たいていの食物は、固体のかたちをした光といってよい。食物中に含まれる光の潜在能力や栄養価は、そうした力を与えてくれる食物の特性と直接関係がある。食物連鎖の度合いが低ければ低いほど(すなわち、食物が直接光からつくられている度合いが高ければ高いほど)、光の力が充分に得られる。(中略)たとえるなら、新鮮なりんごと加工した緑色のキャンディとの栄養のさほどの違いがある。光をたくさん含む食物としては、青緑色の藻類とか有機栽培の果物、野菜があげられる。加工しすぎたり食品照射によって光エネルギーがなくなった食物は、次第に生命力を失い、機能的には死んだも同然である。(中略)スペクトルの色が違えば影響も異なるように、食物の色もさまざまな影響を私たちに与える。人は食物の印象をまず眼で見て感じとる。食物を見るとき、私たちがどう感じ、体がどう反応するかは、その色によって大きく左右される。(中略)

 (※『心の栄養と虹の食事』の著者、ガブリエル・コスンス博士が推奨する)虹の食事の一例をあげると、朝食は果物(黄色いバナナ、赤いイチゴ、リンゴなど)、昼食のメインはグリーンサラダ、夕食には野菜(ナス、紫キャベツ、ビート)と金色の穀物(小麦、米、粟)、豆類(紫のいんげん豆)がいいだろう。
(『光の医学』第12章「光の食事で健康になる」174~176ページ)

 たとえば、作者の心に浮んだ緑や青の〈記憶色〉〈期待色〉を、17文字に詠み込んだ俳句は、それを目にする私たちひとり一人の心に、それぞれ固有の体験や知見からイメージする自然の緑や青の〈記憶色〉〈期待色〉を再現する。さて、緑や青の季語を含んだ俳句たちは、どんな栄養を与えてくれるのだろうか。

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(山口素堂)/「あらたうと 青葉若葉の 日の光」(松尾芭蕉)/「苗代に 雨緑なり 三坪程」(正岡子規)/「万緑の 中に吾子の歯 生え初むる」(中村草田男)/「分け入つても 分け入つても 青い山」(種田山頭火)/「青蛙 おのれもペンキ 塗りたてか」(芥川龍之介)/「緑陰の 白バラ緑 ならんとす」(山口青邨)/「稲妻の 砕けて青し 海の上」(夏目漱石)

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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