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連載「つたえること・つたわるもの」(32)

NHKは“一所懸命”と話しても、 “一生懸命”のテロップ。

連載 2018-01-09

出版ジャーナリスト 原山建郎

 もう50年も前の話で恐縮だが、『主婦の友』編集部に配属された新前記者の原山青年は、初めての原稿をデスクに提出して数日後、その原稿を校閲した校正部のベテランОさんから呼び出しを受けた。

「原山さんの原稿には、“一生懸命”と書かれていますが、このままでよいのですか?」

「はい、“一生懸命”と書きましたが、何かおかしいですか?」

 と、いったんは答えたものの、どこか気になって、手元にあった『広辞苑』を引いてみた。

 「一生懸命」には【イッショケンメイ(一所懸命)の転。】とあったので、あわてて「一所懸命」を引くと、【①賜った一ヵ所の領地を生命にかけて生活の頼みとすること。また、その領地。②物事を命がけですること。】と出ていた。これはまずい! そういえば、高校時代に習った日本史(平安・鎌倉時代の総領制)では、家督(領地と一族郎党)をすべて一人で継いだ嫡男の使命は、その領地(一所)を敵の攻撃から命がけ(懸命)で守ること。それが「一所懸命」本来の意味だったのだと、そこで初めて気がついた。

 なるほど、領地や課題などの「一所」なら必要に応じて集中し、「懸命」に取り組むことができるが、それを「一生」切れ目なく、しかも集中して「懸命」に取り組むことなど、どう考えても無理な相談である。

「すみません。私が間違っていました。“一所懸命”に直してください」

 Оさんに字句の訂正を依頼すると、校閲の立場をこのように説明してくれた。

「わかりました。原山さんは“一所懸命”を使いたいのですね。明らかな誤りならば、赤字で訂正します。 “一生懸命”の場合は “一所懸命”の誤用の定着にあたるので、鉛筆で“?”マークをつけておいて、筆者がそれを承知の上で、“一生懸命”を用いたのかを確認します。なによりも筆者の意向を優先します」

 新前(※“新米”は誤用、“新前”が正しい)記者の私は、それまで“一生懸命”が「誤用の定着(間違った使い方が大勢を占めると、それが正しい意味と同じ使い方として認められるようになること)」だと知らなかったのだから、もちろん「それを承知の上」であるわけがない。それでも入社早々の新前記者を、Оさんは一人前の編集記者と同列にあつかってくれたのだ。このことが、“一所懸命”に原稿を書く雑誌記者スタートへの「はなむけ」となった。あれから今日まで50年の間、紙の雑誌やメールマガジン、書き下ろしの書籍などに、ひと月も休むことなく、もちろん当コラムも “一所懸命”にと心に念じながら書き続けている。

 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるように、時代の移り変わりからくる「誤用の定着」も日本語の宿命なのかもしれない。しかし、可能な限り本来の意味をあらわす日本語(熟語)を使うべきだ……と書きながら、高校時代に国語の授業で例示された、「誤用が定着したか、誤用が優勢な熟語」を思い出した。かっこ内は(正用=本来の読み)→誤用=慣用の読み)だが、どちらの読みを入力しても、同じ漢字熟語に変換される(※消耗のみ、正用で変換不可)というのも、「誤用が圧倒的に優勢」の一因になっている。

 固執(こしゅう→こしつ)/重複(ちょうふく→じゅうふく)/相殺(そうさい→そうさつ)/消耗(しょうこう→しょうもう)/早急(さっきゅう→そうきゅう)/情緒(じょうしょ→じょうちょ)

 テレビ番組の日本語クイズではないが、重複(ちょうふく)、相殺(そうさい)まではよいが、消耗(しょうこう)、情緒(じょうしょ)あたりになると、とたんに答えが怪しくなってくる。ここで百歩譲って、「熟語の意味が相手に伝われば、それが誤用(慣用の読み方)でもいいじゃないか」という主張を認めれば、現代中国の簡体字(同音の簡単な字を借りる、扁旁を省略するなど、漢字の成り立ちを無視した簡略字体)が、殷の時代の甲骨文字に始まった「漢字文化」を棄てることと、同じ道をたどるのではないだろうか。

 とまあ、難しい(むつかしい→むずかしい)話はこのくらいにして、私が数年前まで大学で講じていたコミュニケーション論の授業資料(「間違えやすい慣用句」)を読みながら、頭の体操をしてみよう。

 ○「将棋を打つ」は明らかに「将棋を指す」の誤りである。囲碁も将棋も正式な呼称は「棋士」だが、囲碁の棋士は石を碁盤に打ち込むので「碁打ち」という。「指す」には(手やものを)前に出す意味があり、盤上に置いた駒をスッと前に進める将棋の棋士は「将棋指し」という。

 ○「的を得る」は、よくある誤りのひとつ。本来、的(target)は射るもの。「的を射る(shoot)」と書くべきところ、「当を得た(対策)」「勝利を得た(獲得)」からの連想で、つい「的を得る(get)」と書いてしまう。同じ「的」がつく熟語の「的確(的を外れず間違いがない)」なども、「適確(適切で間違いがない)」と誤用されやすい。発音(てきかく)も全く同じで、しかも似たような意味を持っているが、「的確な判断」「適確な対応」のように「正確に使い分けられる」かどうか、そこがいちばん心配なところだ。

 ○手書きでは正確な漢字が書けないのに、ワード文書では勝手に変換されてしまう熟語がある。また、ほんとうは正しく変換されるはずなのに、故意に合成されてしまう場合もある。「汚名挽回」は「汚名返上」の誤りで、似たような意味の「名誉挽回」との混同である。また、大勢の人がやかましく騒ぎたてるさまをいう「喧々囂々」(けんけんごうごう)を、無意識に「喧々諤々」(けんけんがくがく)と誤って書くのは、正しいと思うことを堂々と主張するさまをいう「侃々諤々」(かんかんがくがく)との混同である。

 ○「意志」と「意思」も使い分けがむずかしい。「意思」は自分の思いや(一般的な)考え、「意志」は成し遂げようとする積極的な心の持ち方を意味する。法律用語では全て「意思」で統一されており、相手の意思確認に手間がかかりそうだが、自分の考えを相手に明らかにするのを「意思表示」、問題にとり組む気持ちが弱いときは「意志薄弱」と覚えておこう。

 ○「制作」と「製作」は、どちらも「何かを作る」ことだが、使い方を誤ると恥をかく。「制」は「余分な枝を刀で切り落として、形を整える」こと、「製」は「衣を制する=衣服を仕立てる」ことである。したがって、「制作」には自分の頭で考えて形を創造するクリエイティブな響きがあり、一方の「製作」には工業製品など物を製造するニュアンスが強い。

 ○下世話なところでは、「玉子」と「卵」の違い、あるいは「羽根」と「羽」の違いが分かりにくい。厳密な意味での「正誤」はなさそうだが、なんとなく面白そうな感じがする。どちらも熟語で考えると分かりやすい。雛人形の顔は「卵に目鼻」と書くが、「玉子に目鼻」とは書かない。生たまごは「生卵」で、たまご丼は「玉子丼」だから、原形をとどめている場合は「卵」で、料理したものは「玉子」と分類されているらしい。なるほど、外見の形を残しつつ、ゆで(調理)られた「ボイルド・エッグ」は、「ゆで卵」とも「ゆで玉子」とも書く。また、「羽」と「羽根」の使い分けでは、生えている状態か、抜けた状態のものかで、違いを判断するのだそうだ。鳥や昆虫のからだについた「羽」では、「羽を伸ばす」「羽を広げる」などと表現する。抜けた「羽根」を加工すれば、なるほど「赤い羽根募金」「羽根布団」となる。

 ところで、NHKニュースを視聴していて、どうも気になることがある。

 インタビューを受けた人が、明らかに“一所懸命”(イッショケンメイ)と発音しているのに、テレビ画面のテロップには必ず“一生懸命”と表示される。著作者人格権の一つに同一性保持権(著者の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利)があるが、「私は“一所懸命”と言ったのに、テロップでは“一生懸命”と誤表示された」と訴えたら、果たしてNHKは“一所懸命”考えてくれるだろうか。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう) 
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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