「何を創る、日本の半導体企業」⑩
半導体産業への政治の影響
連載 2026-01-26
桑原経営戦略研究所 桑原 靖
今回は半導体産業にどの様に政治が関わってきたかをみてみたいと思います。昨今では、半導体はパソコンやスマートフォン、自動車をはじめとしてあらゆる製品に搭載されており、現在の情報化社会には必要不可欠の部品となっていることから、経済安全保障においても中心的なものの一つとなっています。しかしながら、個々の半導体の生産は特定の企業、国に集中しており、高性能品となった半導体の生産には莫大な設備投資が必要となるため、一企業、一国で全てを賄うことは不可能で、半導体サプライチェーンとして経済安全保障をいかに担保するかに政府は目を向けています。過去にも各国政府は半導体の重要性は理解していても、半導体サプライチェーンとして捉えるのではなく、半導体産業の中でいかにして主導権を握るかに重点を置いていたと言えます。
それでは、半導体産業の生みの親と言える米国の状況をまずはみてみましょう。1939年にベル研究所でダイオード、1947年には同研究所によってトランジスタが発明されています。今ではシリコンバレーはIT系スタートアップが起業する場所としてのイメージが強いですが、その起源は名称が示すとおり、ショックレー半導体研究所※1が設立されたり、「Intel」や「National Semiconductor」等の半導体(シリコン)企業の拠点となった場所です。1958年当時、トランジスタの発明から10年が経過し、半導体は軍需、コンピューター、民生機器などいろいろな分野に拡がろうとしていました。システムが大型化し、複雑化するにつれて問題になってきたのが、部品間の相互配線数の増大でした。TIにおいても軍との共同開発として、トランジスタのような素子と抵抗などの素子を基板上に高密度に取り付けることを基本とするマイクロモジュール方式が推進されていました。TIのジャック・キルビーはこの方式に疑問をいだき、これを超える独自の方式について思案を重ね、その結果として一枚の半導体基板上に全ての素子を集積するモノリシック集積のアイディアに到達しました。こうして1959年にはフェアチャイルドセミコンダクター社とインテル社の共同創業者であるロバート・ノイス氏と、テキサス・インスツルメンツ(TI)社のジャック・キルビー氏がそれぞれ集積回路(IC)の特許(プレーナー特許とキルビー特許※2)を申請しました。米国政府もまた半導体の支援に深くかかわっており、DARPA※3から半導体技術の研究開発に多額の資金を投じ、初期の半導体産業を強力に後押ししました。特に、当時まだ新しい技術だった集積回路(IC)に、軍事機器の小型軽量化、高性能化及び信頼性向上の観点から大きな可能性を見出していました。DARPAの支援は、研究・開発プロジェクトに留まらず、製造技術の確立までの幅広い分野に渡り、その成果は軍事だけでなく、後の民生用電子機器(コンピュータ、携帯電話など)の発展にも大きく寄与しました。彼らの先見の明が、米国のデジタル社会の基盤を築いたと言っても過言ではありません。
※1 ショックレー半導体研究所:ベル研究所で接合型トランジスタを開発したウィリアム・ショックレー氏は同研究所を辞めたのち、故郷であるシリコンバレーのマウンテンビューにショックレー半導体研究所を設立。同研究所にはインテルの共同創業者であるゴードン・ムーア氏とロバート・ノイス氏、テレダインの創業者であるジャン・ヘルニ氏、ジェイ・ラスト氏とシェルドン・ロバーツ氏など、錚々たるメンバーが名を連ねていた。
※2 ルビー特許:テキサス・インスツルメンツ (TI) のジャック・キルビーによる集積回路の特許。技術的には1枚のシリコンウエハの上に複数の素子を作り込んではいたが、その素子間の相互接続は単に金線のボンディングで繋いでいるものであり、今日の集積回路技術の直接の祖先は、ロバート・ノイスによるプレーナー特許である。ライセンスビジネス的には、1966年にテキサス・インスツルメンツとフェアチャイルドセミコンダクターを含む十数社のエレクトロニクス企業が、集積回路のライセンス供与について合意に達していたため、実際にはほとんど意味がなかったが、日本では特許の成立が遅くなり、普及した技術を用いる製品に対して、多額のライセンス料が課せられた。
※3 Defense Advanced Research Projects Agency:半導体製造のイノベーションを金銭面で大きく支えてきた米国国防総省の研究機関で、1958年に設立。
こうして米国の集積回路の技術は急速に発展して行き、1965年にはインテル社の共同創業者であるゴードン・ムーアは、集積回路の価格あたりの部品数は毎年2倍になるという予測を発表しました。これが半導体産業で言われるムーアの法則です。その後、1975年にムーアは予測を見直し、集積回路上のトランジスタ数は2年で2倍になると修正しました。更に1980年代には、当時のIntel社長デビッド・ハウスが生産プロセスの改善により18ヶ月で2倍になると予測し、これも広義でムーアの法則のひとつの解釈とされ、ICの集積率は急速な発展を遂げて行きます。
このような米国のシリコンバレーで急速に進む半導体開発を追いかけて、日本でも超LSIの開発体制の整備は、日本にとって緊急に取り組まなければならない課題の一つと考えられるようになっていました。そこで日本国内の半導体各社が協力して開発を行う機運が生まれ、日本電子工業振興協会(JEIDA) は議論を進め、超高性能LSIの開発についての提案を通商産業省(現・経済産業省)に提出しました。それが通商産業省内の委員会で議論され、関係団体で産学官による検討を進め、合意形成を行い、4年間総額700億円(うち政府補助金は300億円)を投入する一大プロジェクトとして1976年3月10日に超LSI技術研究組合が設立されました。組合の構成メンバーは「富士通」「日立製作所」「三菱電機」「NEC」「東芝」の5社と、「富士通」「日立」、「三菱」系列のコンピューター総合研究所(略称CDL)と「NEC」、「東芝」系列の日電東芝情報システム(NTIS)の2社を加えた7社でした。同組合は、国の補助金の受け皿的な機能があり、税の減免等の運営上の利点もありました。更に、公益法人ではないため、研究で得られた成果を参加企業の中だけに共有することができました。参加企業は設立期限が設定されており、短期集中で成果をあげる事が前提だったため、各社の参加意思決定は前向きになりました。また、それまでの技術研究組合は、共同研究開発を行うことが目的であったにもかかわらず、各社への持ち帰り研究で行っていた、いわゆる分散研究所タイプのものでしたが、この超LSI 技術研究組合の新機軸は集中研究所を設立したことにありました。(図1&2)
集中研究所のメリットは、参加メンバーが各企業の業務を行わなくて済むため集中研究所の研究に集中でき、違う組織の人が一堂に会して切磋琢磨すると、新たなイノベーションが起こる蓋然性が高まる事です。一線級の研究者を一堂に会した組織を作ったことが、本プロジェクトの成功要因の一つと言えます。


それでは、超LSI技術研究組合の成果物はどのようなものだったのでしょうか。今日では日本半導体産業の真の実力は、その製造装置と材料開発で世界をリードしてきたこととされていますが、その全ての端緒はこの超LSI技術研究組合が果たしたものだとも言われています。メモリは16KDRAMの段階でほぼ米国と肩を並べ、64KDRAM以降は生産技術におい世界最高のレベルに達しています。そして1985年、半導体生産額において、日本は米国を抜いて世界第1位となり、世界市場のほぼ半分を占有するまでになりました。これは日本政府と半導体産業界が上手く連携できた超LSI技術研究組合の画期的な取組みの産物とも言えると思います。リソグラフィー行程のステッパーの開発でも、超LSI技術研究組合が性能目標、仕様を決定し、その指導のもとに縮小型は日本光学工業(ニコン)、等倍型はキヤノンが詳細設計と製作を行い、さらに超LSI 技術研究組合で試験、評価を行い完成させたものです。プロジェクト終了後、キヤノンも縮小型に移行し、両社でステッパーの世界シェアを上げていきました。
超LSI開発には多くの技術的ブレイクスルーが必要と考えられていましたが、集中研究所ではそうしたアイディアを網羅的にそれぞれのグループで徹底して検討し、集中的・系統的に試作・解析・評価を繰り返しました。また、比較的原理原則に近い基礎的な分野は集中研究所で行い、応用あるいはビジネスに近い部分は各社に持ち帰って研究するようにして、各社の協調と競争がうまく機能したと思われます。超LSI技術研究組合が日本の半導体産業の成長にどの程度寄与したかについては議論が分かれるところでありますが、確実にその後の日本の半導体産業に貢献したことは事実と考えられます。しかし、SIA(米国半導体工業会)が対日アンフェア批判の一環として過度にその成果を喧伝したことも否定できません。
SIA(Semiconductor Industry Association:米国半導体工業会)は米国半導体産業育成政策強化に対する政府へのロビイング活動を強化するために、1977年に設立されました。SIAは当初は超LSIプロジェクト等の日本政府の半導体産業に対する援助政策に対抗し、米国政府の国内半導体産業への援助強化を中心とするロビイング活動を行っていました。しかし、1980年に入り日本製DRAMの高い競争力が評価され、米国のユーザーへの採用が活発となった事は、米系メーカーに大きなショックを与え、現実に64KDRAMでは米製品とのシェアの逆転、米国DRAMメーカーの業績不振にもつながったことから、米国半導体産業界に危機感が急速に広がりました。 特に、コンピューターや半導体といった重要な産業での日本に対する競争力低下の可能性は、おりからの米国の経済不振に起因する保護主義的な動きに拍車をかけ、また国防上の問題としても認識されはじめたことから 日本半導体の脅威に対する幅広いキャンペーンがSIAを中心に行われる事になりました。1985年になり、DRAMにおいて日米メーカーの逆転が明確になり、そこに半導体不況が追い打ちを掛けたことで多くの米国企業の業績が悪化し、Intel、 Motorola、AMD、NSC、MOSTEC等従来のDRAMの覇者であった米系メーカーの撤退など、日系メーカーの影響が顕在化しました。 1985年、米国半導体工業会(SIA)により日本企業が不当に半導体を廉価販売していると主張されるようになり、日本製半導体をダンピングとして米通商代表部(USTR)に通商法301条※4で提訴するに至りました。これを受けて、半導体に関する日米貿易摩擦を解決する目的で、第1次日米半導体協定(1986年~1991年)と第2次日米半導体協定(1991年~1996年)の合計10年間にわたって、日本政府と米国政府との間の半導体の貿易に関する取極(Arrangement between the Government of Japan and Government of the United States of America concerning Trade in Semiconductor Products)が締結されました。
※4 通商法301条:1974年貿易相手国の不公正な取引慣行に対して当該国と協議することを義務づけ、問題が解決しない場合の制裁について定めた条項
第1次日米半導体協定はSIAによる提訴以降、日米間で協議を行い、1986年9月に日米半導体協定として締結されました。協定の主な内容は、①外国半導体メーカーの日本市場へのアクセスを改善する。市場アクセス問題については、日本政府は国内の半導体ユーザーに対し外国系半導体の活用を奨励し、一方、米国政府は米国の半導体メーカーに対し販売努力の強化を奨励する。②日本の半導体メーカーによるダンピングの防止の為、DRAM等について、その時点のコストに利益を上乗せしたFMV(Fair Market Value)算出し、それを下回る価格での輸出を禁止する。と言うものでした。外国半導体メーカーの日本市場へのアクセスを改善で具体的に考え出されたのが、日米政府とも非公開を約束したサイドレターでした。サイドレターの主な中身は、外国系半導体の日本市場でのシェアが5年間で20%を上回るという期待を日本政府が認識すると言うものでありました。外国半導体メーカーが日本市場への参入を支援する為に、半導体国際交流センター(INSEC)、日本電子機械工業会(EIAJ)の中に、外国系半導体ユーザー協議会(UCOM)、更に、外国系半導体商社協会(DAFS)を設立しました。これらの組織は日本の総合電機メーカーのみならず、自動車メーカー等、幅広い業種の日本企業が外国系半導体を購入することを推進する事になりました。締結後1 年も経たない1987年3月に、日本の半導体市場のアクセスが改善せず、第三国向けのダンピング輸出が続いていることを理由に、米国は通商法301条に基づく制裁を発表しました。この頃、米国政府は「おとり捜査」を実施しており、FMVを下回る価格での見積りをユーザーの振りをして要求するケースがあり、実際に何度かそのようなケースを目の当たりにしています。
第1次日米半導体協定の5年の期限を経て、米国政府の強い要請により1991年8月に第2次日米半導体協定が締結されました。その主な内容は、第1次日米半導体協定に続き、①外国系半導体の日本市場へのアクセス拡大②日本製半導体のダンピング輸出防止、でした。①は今まで日米間で溝となっていた数値目標を国際約束として明文化したもので、第2次日米半導体協定は第1次日米半導体協定ではサイドレターであった記述をそのままで、達成期限を変えた(1992年末まで)ものを協定本体に掲載することになりました。その後、1992年末に20%超えを達成し、その後の日米半導体協定の解消の大きな手助けとなりました。一方②のダンピングに関しては、日本企業がFMVを遵守したこともあり、第2次日米半導体協定の開始時にはほぼ終息していました。そこで、従来からFMVの価格算定方式は適切ではないと考えていた日本企業は、FMVの算定を取り止め、日本各社の申告ベースのモニタリング(日本製半導体の四半期毎の価格・コストデータを日本企業が調査・管理すること)に変更することになりました。
日米半導体協定によって、日本は官民あげて日本製半導体を海外製半導体に切替えて、シェア20%を達成する努力をし、実現することになりました。時には日本の半導体メーカーは顧客からの要請もあり、海外メーカーの製品を紹介せざるを得ない状況もありました。特に、DRAMは互換性の高い標準品であり、日本のユーザーからは海外製品シェア向上の手段として歓迎されました。そこで恩恵を受けたのは、欧米企業と言うより、DRAMに参入したばかりの韓国メーカーでした。FMVによって決められた最低価格が高く安定していたため、高値でDRAMを販売する機会を韓国企業にもたらし、DRAM事業は特段何もしなくても高い利益率を得ることが出来ました。日米半導体協定は韓国企業にとって追い風となり、まさに漁夫の利を得ることが出来たと言えます。これは米国政府にとっても、日本以外が自国に必要なチップを生産してくれるのは大歓迎となりました。後に1M DRAMの世代となり、PCに大量のDRAMが必要とされる頃には、韓国企業のDRAMはパソコンの需要増に呼応してシェアを増やしていきました。
SIAの提訴に端を発した米国政府の介入は、日本の半導体企業に10年間という長期間に渡り、将来の販売やそれに向けた製品開発に急ブレーキを掛けさせたと言えます。確かに、超LSI技術研究組合の設立後に、日本半導体の隆盛は訪れていますが、これは米国企業が当時半導体の本命である軍事用として動作速度の早いNMOS、日本勢は家電用として低消費電力CMOSの開発に集中しており、日本企業の技術開発により後の半導体技術の主流にとなるCMOSの性能でNMOSと並ぶ状態となった事も理由として考えられています。これに加えて、当時の日本が米国に比べて資本コストが低いことが、日本半導体企業各社の開発・生産に大きく寄与したと言われています。SIAが主張した様な、日本の興隆は超LSI技術研究組合の成功の結果であり、言い換えれば、政府と企業がひとつの株式会社として半導体市場を席捲すべく機能したとする主張が全てだとは思えません。
いずれにしましても、米国政府の介入は、後の世界半導体企業の勢力分布に大きな影響を与えたことは事実だと考えます。
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