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震災から10年―ゴム・樹脂業界から見た防災、復興、被災地支援

TOYO TIRE、グループの総力挙げ震災から復旧

ラバーインダストリー 2021-03-17

TOYO TIRE仙台工場


 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、東北地方太平洋沿岸を中心に甚大な被害をもたらした。TOYO TIREも震災によって被害を受けた1社だ。タイヤ生産の主力拠点である仙台工場(宮城県岩沼市)は建屋にこそ致命的な損傷がなかったものの、従業員105人の家が全壊し、255軒が浸水、従業員やその家族の中には犠牲者も出た。当時の仙台工場長である磯部典幸品質保証本部長は「本当に大きな災害だった」と振り返る。

仙台工場は2カ月弱で震災前の水準に

 3月11日午後2時46分の地震発生時、仙台工場には約600人の従業員が出勤していた。ただ、避難場所である食堂前の広場に全員が集合するまでには、5分もかからなかったという。「仙台や岩沼市周辺は、それ以前に発生した宮城県沖地震によって大きな被害を受けていたため、地震を想定した避難訓練を頻繁に行っていた。それが早期の避難に繋がった」(磯部氏)。

 その後、沿岸に津波が押し寄せているという情報を得たが、仙台工場は海岸から約5キロ離れた場所に立地し、海岸との間にある高速道路も壁役になる。「もちろん高台から様子はうかがっていたが、工場に津波が押し寄せるとは考えていなかった」(同)。実際、津波は仙台工場には到達しなかった。

 従業員は雪の降る中、広場で約2時間待機した。大きな余震が繰り返される中で、停電も発生し、工場内に立ち入ることが危険だったためだ。従業員のほぼ100%は自動車通勤だが、それぞれの自動車のカギは工場内のロッカーに置いてある。「工場内に立ち入ることは、余震が収まるまで危険と判断し、広場での待機となったが、結果から考えるとその判断は正しかったと思う。工場より海側に住居のある従業員もいて、すぐに帰していたら2次的被害を受けていたかもしれない」(同)。解散したのは夕方5時前。4~5人をグループにし、安全を確認しつつ帰宅させた。

 翌12日朝からは安否確認をスタートした。当時、仙台工場に勤務する従業員は1,677人。電話が全く通じず、従業員の安否確認は難航した。安否確認と同時に行ったのが、災害時用として仙台工場に備蓄していた非常食や毛布などの提供だ。従業員の安否確認のため避難所を訪れた際に避難所から要請があり、仙台工場に備蓄していた全てを岩沼市と近隣の山元町に提供した。「本社からの救援物資が13日には到着すると聞き、備蓄品全てを提供するという判断に至った」(同)という。安否確認については、15日に電力が復旧したことで携帯電話が繋がるようになり進展した。

 工場の復旧に向けては、まず水回りの確認から始めた。復旧に必要な電力、水道のうち、電力は15日に回復するとの情報を得たためだ。一方、水道の復旧には時間がかかる見通しだったが、仙台工場は地下水を活用できるため、そのポンプと配管から修復を開始した。復旧に際しては、大きな紙に設備を書き出し、貼り出すことで復旧の道筋を示した。安否確認にも紙を活用し、地図を描き安否の情報を書き込んだ。「工場に集まっている皆が、できるだけ同じ情報を持てるように心掛けた」と磯部氏は話す。

耐震工事に加え、従業員の頑張りで早期に生産再開

 工場で生産を再開したのは3月23日。翌24日には震災後初めてとなるタイヤを出荷し、28日には夜勤も再開した。早期の生産再開となった要因の一つが、工場が致命的な損傷を免れたことだ。仙台工場は震災以前に、数年をかけた耐震工事が完了していた。耐震工事を施したことで、致命的な損傷を受けなかった。

 従業員の頑張りも生産再開を大きく後押しした。3月17日に、「無理のない範囲で、工場に来ることができる人は来て欲しい」と従業員を招集したところ、607人が参集した。「1,677人のうち300人くらい集まってくれればと思っていたが、607人もの従業員が来てくれた。中にはガソリンがなく、約20キロを歩いてきた従業員もいて、正直涙が出たが、一方でこれで復旧できるという自信に繋がった」(同)という。

 その後、4月11日には生産を震災前に比べ4割程度、25日には7割程度まで戻し、5月6日からは震災前の水準まで戻すに至った。タイヤ生産に必要な原材料やユーティリティを稼働するのに必要な重油や石炭は、復旧に向けた生産計画を立てた上で、本社に調達を依頼した。

 生産は回復したが、次にネックとなったのが物流だ。仙台工場は生産するタイヤの約8割を輸出するが、その輸出拠点の仙台港が津波の被害を受け使用できなかったためだ。そのため本社物流部と連携し、トラックで新潟や京浜、関西地区の港へ運び輸出した。再び仙台港から輸出するのには半年ほどを要したという。

 震災を振り返って磯部氏は「工場の皆が本当に頑張ってくれたことに加え、本社が様々な形でバックアップしてくれたことで早期の再開に繋がった。工場長という職務上、様々な判断を求められたが、復旧に向けて皆が一丸となったことで、その判断もしやすかった」と話す。TOYO TIREグループの総力を挙げた取り組みの数々が、仙台工場の復旧だけでなく、被災地の復興にも繋がっている。

震災を経てBCPを策定

 震災当時の2011年、TOYO TIREは文書化された対応マニュアルに沿って災害に対応していたが、一方で事業継続という観点のBCPについては明確に文書化されていなかったという。震災を受け、「仙台にBCPを活用して事業を立ち上げた会社があると聞き、訪問してBCPについて学んだ」(加藤延博環境安全推進本部安全防災推進部長)。翌2012年には東南海地震での影響が想定される桑名工場(三重県員弁郡東員町)でBCPを策定。2013年には仙台工場を含む全拠点へ展開した。

 BCPに基づいた訓練は、その内容を工夫しながら毎年実施している。それによって従業員の意識も変化してきたという。BCPを策定した当初は、災害が発生した初日や2日目の行動、対処について訓練していたが、最近では災害発生1週間後がどうなっているかを想定したシナリオを基に訓練を行っている。「毎年訓練を繰り返すことで、特に生産拠点の従業員を中心にBCPが根付いている」(同)。

 BCPには課題もあるという。足元の新型コロナウイルスなど感染症に対するものだ。「災害等に関するBCPは文書化しているが、感染症に関してはBCPをまだ策定していない。現在は初動対応等に関して感染症対応マニュアルで文書化しており、それに沿って必要な措置を講じている」(同)。新型コロナに対しては昨年1月30日に緊急対策本部会議を立ち上げ、今現在に至るまで定期的に会議を開催。拠点の閉鎖や出社率の制限などといった様々な措置を講じている。

 新型コロナにより進んだテレワーク、在宅勤務の定着を前提としたBCPの策定も進めていく。「テレワーク、在宅勤務の状況で地震が発生したらどう対応するのか。自然災害対応マニュアルには緊急対策本部会議をリモートで開催すると盛り込んでいる。実際、先般の福島県沖地震に対応した緊急対策本部会議はまさにリモートで開催し、情報を共有した。現状は上手く機能していると思うが、完成形ではないと考えており、環境の変化にあわせ対応していきたい」(同)。

 テレワーク、在宅勤務の定着を前提とすると、例えば従業員で編成する自衛消防隊も課題になる。自衛消防隊は全員が出社していることを前提として、連絡班、救護班、消火班等の役割分担を行っているが、テレワーク、在宅勤務が定着すると、それらを担っている人が出社していない状況でどう対応していくのか。「自衛消防隊については、消防署のネットワークを活用し調査したが、現状で日本国内では新型コロナの環境に対応するシステム作りを行っている企業がないことが分かった。そのため、自前で策定することを前提に取り組んでいる。全員がどの役割も担えるといったような仕組みに考え方を大きく変化させないといけないと思う。そうした教育についても、これから進めていかなければならない」(同)。

 災害対応では、豪雨やそれに伴う水害に対しても取り組みを進めている。「近年の豪雨災害は、予報や警報が出てから実際の災害が起きるまでのスピードが非常に速い。豪雨に対する情報を本社から積極的に流していくことも必要だが、一方で昨年からは今一度ハザードマップを全ての拠点で見直している。浸水想定に対し、避難場所、備蓄品の保管場所などが適切かといったことを、本社や生産拠点だけでなく、販売会社やグループ会社全てで見直しており、その見直しによって浸水が想定される場所に備蓄品を保管している場合等は、その場所の移転を進めている」(同)。

被災地復興に向けた活動

 被災地の復興に向けて取り組んでいる一つの活動が「千年希望の丘プロジェクト」だ。千年希望の丘プロジェクトは、仙台工場の所在地である宮城県岩沼市が進める震災復興活動の一つ。震災で発生した瓦礫を活用して防潮堤を築き、そこに植林して生物多様性保全に寄与する緑の丘を作るという取り組みだ。同社は2013年から仙台工場の従業員が中心となり、植樹活動や草刈りにボランティアとして参画している。

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