白耳義通信 第104回
2025年6月「キックボードが奪った命」
連載 2025-06-24
先日、ベルギーの首都ブリュッセルで、非常に痛ましい事件が起こりました。11歳の少年が、公園内で電動キックボードに乗っていたところ、警察に追跡され、最終的に警察車両に轢かれて命を落としたのです。
少年は特に犯罪行為をしていたわけではなく、警察に「止まって」と呼びかけられた際に、そのまま走り去ったとされています。警察車両はそれを追って公園内に進入し、サイレンも青色灯も使わないまま、時速40kmを超えるスピードで走行していたと報告されています。ブレーキが間に合わなかったのか、車体が少年に衝突し、そのまま轢いてしまいました。
こうした事実が明らかになるにつれ、警察の追跡行動の妥当性や、公園内での危険運転が大きな社会的議論を呼んでいます。
こちらでは、大人が電動キックボードに乗って車道を走っている姿をよく見かけます。車の間をすり抜け、時には車よりも速く交差点を横切っていく姿は、まるで小型のバイクのようです。ヘルメットを着けずに走行する人も多く、安全への意識が十分に共有されていないように感じることがあります。
実際、ベルギーでは2024年の1年間に1,825件のキックボード関連事故が発生し、ブリュッセル首都圏だけでも541人が負傷しました。死亡事故も年々増加傾向にあります。
この事件を受け、警察官の一部は「同僚の逮捕は不当だ」として、ブリュッセルの司法宮殿前で約300人規模の抗議デモを行いました。「自分が同じ立場だったかもしれない」「少年を故意に轢こうとしたわけではない」— そうした声が上がりました。
一方で、市民側からは「警察の追跡手法が危険すぎる」「責任を曖昧にしないでほしい」という抗議の声が高まり、「Justice pour Fabian(ファビアンに正義を)」と題した別のデモも同日に行われました。
警察と市民、双方が抗議デモを行うという異例の状況は、ベルギー社会の分断と緊張を浮き彫りにしています。
日本では2023年から電動キックボードに関する法整備が進み、16歳以上であれば免許不要で運転できる代わりに、ナンバープレートの取得や自賠責保険への加入、最高速度の制限(20km/h)、歩道走行時の6km/h制限などが定められました。
一方、ベルギーでは比較的自由に使用できる一方で、最高速度は25km/h、歩道の走行は禁止。18歳未満にはヘルメットの着用が義務づけられていますが、実際には徹底されていない場面も少なくありません。
自由な使用の裏には、「安全は個人の責任で」という社会的価値観が根づいている印象を受けます。そのため、ルールを知らずに事故を起こすケースや、事故後に責任の所在が不明確になる問題も見受けられます。
今回の事件は、単なる不運では片付けられません。警察の追跡方法や車両使用の妥当性、判断の正当性など、あらゆる面での検証が求められています。また、それを受けて司法がどのように判断し、警察制度や安全基準の見直しが進められていくのか、ベルギー社会は大きな転機を迎えているように見えます。
子どもが命を落とし、大人が抗議し、市民が問いを投げかける。たった一つの追跡行為が、社会全体の在り方に疑問を突きつけました。小さな移動手段が浮かび上がらせたのは、ルールや制度の隙間、そして私たち自身の意識だったのかもしれません。
【プロフィール】
末次 克史(すえつぐ かつふみ)
山口県出身、ベルギー在住。武蔵野音楽大学器楽部ピアノ科卒業後、ベルギーへ渡る。王立モンス音楽院で、チェンバロと室内楽を学ぶ。在学中からベルギーはもとよりヨーロッパ各地、日本に於いてチェンバリスト、通奏低音奏者として活動。現在はピアニストとしても演奏活動の他、後進の指導に当たっている。ベルギー・フランダース政府観光局公認ガイドでもある。
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