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連載「つたえること・つたわるもの」146

「心あたたかな医療」がほしい!『奇跡の人』からのバトンパス。

連載 2022-10-11

出版ジャーナリスト 原山建郎

 「バトンパス」ということばがある。「バトンタッチ(baton touch)」は、バトンを受けた「感触(タッチ)」に注目した和製英語で、英語の「バトンパス(baton pass)」は、「何を」パスされたかを重視している。

 英語のバトン(baton)は、音楽の指揮棒(※ドイツ語ではタクト〝takt〟)や、リレー競技で次の走者に手渡す(パス)木や紙の筒をさすことばで、たとえば、バトンを渡された後任のコンダクター(指揮者)には「オーケストラ」をまとめる責任が生じ、リレー競技でバトンを手渡された走者にはさらに次の走者へ確実に「バトンパス」するという使命(ミッション)が与えられる。

 前回のコラムで紹介した奥川幸子さんは、遠藤周作さんから病院ボランティアの組織づくりを相談され、医療ソーシャルワーカーとしての豊富な経験と専門知識を駆使して、遠藤ボランティアグループの基礎を作った。その2年後、同グループのメンバーが自主的に活動できるようになったのを機に、それまで勤務していた病院を退職し、「ケアする人(ソーシャルワーカー、ケアマネージャーなどの対人援助職)」を「ケアする人(スーパーヴァイザー=対人援助職トレーナー)」としての大きな、そして重要な一歩を踏みだす。

 『ピープルズ・ネットワーク』誌(1999年)に寄稿したエッセイには、次のように書かれている。

 当初のメンバーの主だった人たちは、いまでは立派なプロフェッショナルになっていて、彼らは遠藤ボランティアグループのメンバーたちと同様に、私の誇りである。

 そしていま、私はフリーランスの対人援助職トレーナーとして≪人を援助する仕事についている人たち≫に対し、主に≪相談援助面接≫をテーマとした教育・訓練を仕事にしている。2000年からスタートする公的介護保険で主要な役割を担うとされているケアマネージャー(介護支援専門員)に必要な視点、知識・技術の中核になるのが≪相談援助面接≫なので、トレーナーとしての仕事の要請が多い。
(中略)

 いまの仕事は、個人レッスンを基盤にしているが、それだけでは、諸々の理由から間に合わないので、一年の半分以上はあちこちに出かけている。人は「全国をまたにかけてご活躍」とはいうが、まるで旅芸人のような生活である。私の身体にたたき込んだ芸を武器にしてあちこちをまわっているのだから、まさしくそうだ。       
            (『CARE design』№1、65ページ)

 1984年から、フリーランスのスーパーヴァイザー(対人援助職トレーナー)として活動を始めた奥川さんは、ソーシャルワーカー、ケアマネージャーなどを対象にした個人面接、ワークショップ、グループワークを精力的に行うようになった。残念なことに、奥川さんは2018年秋、その生涯を閉じることになったが、遠藤さんが提唱した「心あたたかな医療(病院)」キャンペーンを直接的に支えながら、新たに「心あたたかな医療」を中心的に支える対人援助職のケアワークを、さらに支える奥川さんのスーパーヴァイザーという仕事(対人援助職トレーナー)によって、そのトレーニングを受けた人たちにバトンパスされている。

 さて、もう一人、遠藤ボランティアグループの初代代表で、生まれながらに視覚障害を持つヴァイオリニスト、和波孝禧(たかよし)氏の母、和波その子さんは、1982年秋に始まった遠藤ボランティアグループの病院ボランティア活動に参加しながら、その3年後(1985年)に自ら発足させた「アカンパニー・グループ(視覚障害者の外出をサポート=同行・介助する活動)」の代表も務めていた。

 和波さんは、アカンパニー・グループの小冊子『私とボランティア』の冒頭で、ボランティアの活動を「自分の内心の声に従って/見返りを求めず/相手を尊重し/責任を持って/対等の立場で/相手に又はその場に/必用のことを行う人/または行為」と定義している。

 和波さんが82歳だった2001年に出版された『ボランティアへの招待』(岩波書店編集部編、岩波書店)の中に、2000年夏、新聞広告で公募された「私とボランティア」に応募した手記、「視覚障害者の自由な外出を願って」が載っている。遠藤ボランティアグループに参加されたきっかけ、その後、視覚障害者の外出をサポートするボランティア活動を始められた経緯が書かれている。

 気づき
 ボランティアに私が関心を持ったはじまりは、故遠藤周作氏がご自分の体験から、昭和五十七
(1982)年春頃 〝心あたたかな病院〟運動を提唱され、その関連の新聞記事にある日、「患者の話を聞くボランティアを育てたい」「少し勉強して、聴くボランティアをしようと思う人は連絡を――」と書かれているのを読んだ時である。私は闘病の末の主人を見送ったあとで、カウンセリングの勉強を始めていたこともあり、「私で間に合うのでしたら」と応募した。やがてその秋、「遠藤ボランティアグループ」と名付けられて発足し、病院や患者さんの要望に応じられるメンバーになるべく、月一回の勉強会が計画され、各方面の専門家から貴重なお話を伺うこととなった。
(『ボランティアへの招待』135~136ページ)

 1984年秋、孝禧氏の友人である全盲のピアニスト、ハンガリー人のドボシュ氏を日本に招いてチャリティコンサートを行うことになった。早速、和波さんは視覚障害者であるドボシュ氏が日本滞在中、彼が移動するときに手引き(介助)をしてくれる組織をさがした。ところが、「東京に籍(住所や勤務先)のない視覚障害者」に対して援助するシステムが、何ということか、国にも東京都にもまったくないことが判明した。

 東京を各地から上京される視覚障害者も多いのに、介助を引き受ける所が無いのが、私の心のしこりとなった。「どうしてどこもなさらない? どこかにお願いしようか」など、折にふれ考えているうち、「そうだ、ほかを頼るより自分でやればよいのではないか」とひらめいた。昭和六十(1985)年の夏の日であった。視覚障害の方と歩くのが主眼だから、事務所は必要ない。真のボランティア精神で運営し、交通実費等は依頼者が負担すれば資金も不要。同じ気持で行動する人さえあればできるはずだ。

 年来の友人に相談したところ第三世。長男(※孝禧氏)も「それはいい計画だ、早く始めて」とあおる。友人の一人は「よいことは軽はずみに始めるのがいいのよ」とそそのかすし、早くもメンバーを誘う方もあり、それらの情熱に押されて、いつも優柔不断の私も、エイッとばかり、その年の十月に最初の会を開いた。この時集まったのは十七名。やがて私宅に専用電話一本と、留守番電話を入れ、これだけを〝もとで〟に、十一月一日から受付を始めた。この発想の基には、長年の全盲の息子との生活の記録と、昭和三十九年、彼の演奏旅行と、世界盲人福祉会議出席の付添いでアメリカに行った際、活発なボランティアの姿に驚かされて以来、欧米を何度も旅行して得た体験から、私の裡に根をおろしていたものがあったのかも知れない。
(『ボランティアへの招待』137~138ページ)

 視覚障害者への介助を、従来の日本語では「誘導」または「手引き」など、晴眼者(目の見える人)が視覚障害者の肩をつかんで誘導する、あるいは手を引っ張る意味になるので、ここは英語で「同行する」という意味の「アカンパニー(accompany)」から、会の名称は「アカンパニー・グループ」と決めた。

 晴眼者が思い立って旅に出るのと同じに、自由に安心して東京へ来られるようにとの願いから、依頼の目的、内容、時間に何の制限も設けていない。申し込みも二四時間受け付ける。日本の場合、とかく「障害者」と「健常者」を区別して考えたり、「視覚障害者は、こう」と観念的に決めつけたりするが、各人それぞれ個性と特徴を持っておられる。その一人ずつの希望をよく聞いて、自主性を失わぬお手伝いがしたいので、申し込みは必ずご本人からの電話で受け、よく話し合ってお約束をする。(中略)

 綿密に打ち合わせた末、道順を説明し、所要時間を割り出して作成した〝依頼書〟により、当日のアカンパニスト(同行者)は、安心してご案内ができるようだ。(中略)

 このグループのメンバーになっても、会費はなく、寄附集めなどの義務も負わず、ただ当日のアカンパニーを果たすことと、月一回の例会に出るのがメンバーの証である。同行の際の諸費用は依頼者負担で、自分の交通実費も受け取るから、アカンパニストは収入も支出もない。「アカンパニー・グループ」は、私も含めて全員が無報酬であると同時に、いわゆる〝もち出し〟もないのである。

 こうして発足以来、行政からの援助は全く受けず、同一方針で独自の運営をつづけ、今年(二〇〇〇年)で(活動開始)一五年となり、依頼数は七月に五〇〇〇件を越えたことを申し添えたい。

(『ボランティアへの招待』139~140ページ)

 2000年には、和波さんは公益財団法人社会貢献支援財団から、平成12年度「多年にわたる功績・日本財団賞」(功績内容:昭和60年、「全国から人が集まる東京にも、視覚障害者のお手伝いをする団体が必要」と考え、視覚障害者支援のボランティア「アカンパニー・グループ」を創立されます。24時間態勢で依頼を受けて、全く初めての上京者でも安心・安全な活動が出来るように手助けをし、案内の実績は無事故で5000件を越えている)を受賞した。また、2005年には社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会から、第13回ヘレンケラー・サリバン賞(視覚障害者の福祉・教育・文化・スポーツなど各分野において、視覚障害者を支援している「晴眼者」に贈られる賞)を受賞している。2011年、和波さん自身の健康上の理由からその活動を閉じることとなったが、とてもうれしいことに、現在の東京ヘレン・ケラー協会には「ガイドヘルパー(同行援護従業者)養成研修事業」があり、視覚障害者の外出中の移動、代読・代筆、情報提供のサポートを行うための研修を行っているという。

 アン・サリバンとの出会いによって、三重苦(目が見えない、耳が聞こえない、離せない)の障害を乗り越えたヘレン・ケラーの伝記映画『奇跡の人』の原題は、The Miracle Worker(ミラクル・ワーカー)である。この映画における「ミラクル・ワーカー(奇跡を起こす人)」は、もちろんヘレン・ケラーに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた家庭教師で、自らも幼少期に視覚障害者であったアン・サリバンをさすことばである。しかし、その後、ラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学)を卒業し、世界中を回って障害者の教育や福祉発展のために尽くしたヘレン・ケラーもまた、アン・サリバンからのバトンパスを受けた『奇跡の人』と呼ぶにふさわしい女性である。

 「心あたたかな医療」キャンペーンを呼びかけた、いわば初代「奇跡の人」(ミラクル・ワーカー)の遠藤周作さんの「奥川の心臓病は神様の贈り物だよ」ということばで、医療ソーシャルワーカーの経験と専門知識を生かして、対人援助職のケアワークをさらに支える対人援助職トレーナーの仕事を選んだ奥川幸子さん。やはり遠藤さんが讀賣新聞に寄稿した「少し勉強して、聴くボランティアをしようと思う人は連絡を――」という一文にふれて、遠藤ボランティアグループの初代代表として活動しつつ、視覚障害者支援のアカンパニー・グループを発足させた和波その子さん。前回のコラムで紹介した村松静子さん(メッセンジャーナース)、内藤いづみさん(在宅ホスピス医)、山口トキコさん(肛門科の女医)……。二代目、三代目「奇跡の人」のバトンを受け継いだ平成の「ミラクル・ワーカー」たちが、いまから40年前、遠藤さんが初めて呼びかけた「心あたたかな医療」キャンペーンに魂をゆさぶられ、初代の「エンドウ豆のサヤ」からこぼれ落ちた二代目、三代目の「エンドウ豆」たちが、やがて芽を吹き、ピンクや白い花を咲かせ、それぞれに新しいエンドウ豆の実を結び、昭和の「心あたたかな医療」キャンペーンは、令和のエンドウ豆たちへとバトンパスされていく。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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