PAGE TOP

連載「つたえること・つたわるもの」115

子どもの文学は「めでたしめでたし」で終わる物語。

連載 2021-06-22

連載「つたえること・つたわるもの」115

 先週(6月14日)予定していた「子育て講座」(東京都・下里しおん保育園)が、再延期となった。フェイスシールド・不織布マスク着用、座席の分散、会場換気とアルコール消毒を徹底したとしても、従来型の新型コロナウイルスに比べて2倍の感染力をもつインド型変異株はあなどれないと判断したのである。

 少し時間に余裕ができたので、市川市中央図書館の書棚から、ル=グウィンの『ゲド戦記』全6冊(岩波書店、日本語版1976~2003年)の訳者としても知られる児童文学者、清水眞砂子さんの著書『幸福に驚く力』(かもがわ出版、2006年)を借りてきた。

 7月6日から始まる、あだち区民大学塾の『「ひらがなの魅力をさぐる」やまとことば』講座(全3回)のために、「子どもの本→ひらがな→やまとことば」という「ことばのちから」の思考回路をチェックしようと考えたからだ。同書には、ことし80歳を迎えた清水さんの瑞々しい感性、翻訳家としてのシャープな言語(英語/日本語)感覚、「子どもの本」(児童文学)への深い洞察、そして何よりも「人生は生きるに値する(物語である)」という子どもたちへの熱いメッセージが込められている。

 清水さんが青山学院女子短期大学で児童文学を教えていたころ、「子ども時代の忘れられない思い出は?」と学生に尋ねると、その答えの中身が「何かを買ってもらったこと」と、「どこかに連れていってもらったこと」ばかりで、そんなものが本当に幸福なのだろうか? と疑問をもった。そこで、翌年からは「何かを買ってもらったこと、どこかに連れていってもらったことを除いて、一番幸せな思い出は何?」という質問に変えたところ、子ども時代の小さな幸せ、すてきな思い出が次から次へと一冊の本になるほど出てきた。

 たとえば、ある学生は幼稚園時代、ちょくちょくおじいさんと電車に乗って、入院中のおばあさんのお見舞いに通っていたが、その電車の中でおじいさんが隣に座っている幼い自分の膝をトントントントン叩きつづけた、それが一番幸福な思い出だった、と。おじいさんにしてみればおばあさんの病気が不安だったのかもしれないが、電車に乗っている間じゅう、おじいさんがずっと自分の膝をトントントントン叩きつづけてくれた時間は、子ども時代の彼女にとって至福のときだったのだろう。また、ある学生は、まだ自分で靴下を履けないくらい幼かったころ、母親がいつも靴下を履かせてくれたあとに、足をくるっと撫でてくれた、彼女はその撫でてもらった感触がいまでも忘れられない、と。そして、ある学生は、専業主婦である母親がずっと家にいて、学校から帰ると「おかえり」と迎えてくれた、それだけではなくて、いつも「○○ちゃん、おかえり」と必ず自分の名前を呼んでくれた、そのことがうれしかった、と。

 やはり短大の授業で、『ヒーローのふたつの世界』(マーガレット・マーフィー著、清水眞砂子訳、岩波書店、1997年)を学生たちといっしょに読んだとき、一人の学生が、ブランコを大きく揺すってひっくり返りそうになって止まる瞬間が書かれている部分を挙げて、「自分も子ども時代に同じ体験をしていたけれど、この場面に出会って、自分の子ども時代にも人に話すに値することがいっぱいあった」ことに気がついたと話してくれた。つまり、日常の中にあるそうした幸せを、しっかりと受け取る力が子どもにはある、あるいは、たしかにあったのだけれど、それを放っておくとイベントや買い物のほうに目が行ってしまう。そういうものに邪魔されて、日常の中にある小さな、そして大切な幸せが見えなくなってしまうのかもしれない。

 また、宮澤賢治の『どんぐりと山猫』に、「どってこどってこ」キノコが楽隊をやっていたという文章は、それを知らずにキノコが生えているところを見ても、そのキノコの風景はこちらの目に飛び込んでこないかもしれないが、その文章に出会ったあとでキノコを見ると「なるほど、キノコはどってこ、どってこ、生えている」とほんとに思えるようになる。清水さんは、「どってこどってこ」や「山がうるうるともりあがる」の「うるうる」という表現に惹かれて宮澤賢治の世界に入った。私たち自身の名前やその他さまざまなものたちの名前は、ひょっとしたら世界でいちばん短い物語なのかもしれない。そして、この世の物語でいちばん短い物語は、人の名前ではないかと、清水さんは考えた。子どもが自分の名前をつけてもらうということは、あなたはその名前をもつ、掛け替えのないわが子だと、親からその存在を認められた証左である。

 考えてみれば、人は生まれてきた子どもにいろんな祈りを込めて名前をつけます。名前をつけなかったらどうなるか。関係は生まれないんですよね。生まれてきた赤ん坊ほどふしぎな存在は、この世にないかもしれない。私たちはそのふしぎさに耐えられなくて、その子との関係をどうつけるか、答えを出そうとします。この子にどうあってほしい、こういうふうなことを期待する、こういう人生を歩いてほしい、そう思って名前をつけるわけですね。これが物語でなくてなんでしょう。
 (『幸福に驚く力』「子どもの本とは何か」178ページ)

 また、ユング派心理学者の河合隼夫さんは『子どもの宇宙』(岩波新書、1987年)のなかで、かつて「子ども」であった私たち、いまの「大人」が忘れつつある「子どもの宇宙」について書いている。

 この宇宙のなかに子どもたちがいる。これは誰でも知っている。しかし、ひとりひとりの子どものなかに宇宙があることを、誰もが知っているだろうか。それは無限の広がりと深さをもって存在している。大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を歪曲してしまったり、回復困難なほどに破壊したりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。

 私はふと、おとなになるということは、子どもたちのもつこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去ってゆく過程なのかなとさえ思う。それでは、あまりにもつまらないのではなかろうか。
 (『子どもの宇宙』「はじめに」1ページ)

 清水さんは言う。生きることに意味があるかないかわからないから、それを問おうとしているのが「小説」、つまり「大人の文学」であるとすれば、生きることに意味があることを前提にしているのが「物語」、たとえば児童文学(子どもの文学)だと。そして、「大人の文学」はよくまあ、これだけ不幸に目を凝らすものだと思われるほどに、人の不幸をえぐり出す。それではふり返って児童文学は何をやっているのかというと、「子どもの文学」のほうは幸福に目を凝らしている、と思い始めた。子どもの本というのは、幸福のさまざまな在りようが書かれている。たとえば、一見不幸と見える物語でも、よく目を凝らすといっぱい喜びが潜んでいること、幸福がうごめいていること、それらを取り出して書いている。

 子どもの文学に求められる最低のモラルは、「人生は生きるに値する」ということだと申し上げたい。(中略)このごろ子どもたちを見ていても、学生たちと付き合っていても、早いうちに、人生なんてそんなもんさ、とか、どうせ人間なんて、とか、そういう態度をとる人たちが非常に多いからです。こんなふうで生きていけるのだろうか。私は心配になってしまいます。

 人生は生きるに値するというのは、別の言葉で言いますと、子どもの文学というのは、「めでたしめでたし」で終わらなくてはいけないということです。つまり、ハッピー・エンディングでなければいけない。なぜかというと、一所懸命生きたあげくに悲劇で終わったら、子どもたちにとっては希望がなくなってしまうからです。人生、最後にストンと滝に落とされてそれっきりとなるということは、人生に裏切られるということだからです。子どもの文学はハッピー・エンディングでなければならない。
 (『幸福に驚く力』「子どもの本とは何か」179~180ページ)

 もちろん、「子どもの文学」はハッピー・エンディング、人生を肯定的に書くといっても、そう簡単ではない。清水さんは若いころ、何かを「肯定する」ほうが楽で、「否定する」ほうが大変だと思っていたけれども、人生を「肯定する」のは大変なことで、人生を「否定する」ほうが楽だと思うようになった。

 人生なんてどうせと言う人と、人生もまんざらではないよと言う人と、どちらが大変か。どちらがよりエネルギーを使って生きているかといったら、人生まんざらではないよという人のほうが、恐らく何倍ものエネルギーを使って生きているのではないかと思います。人生、案外面白いよ、という人と、人生なんてつまらん、という人と、そういうふうに肯定的にものを考えるのと否定的に考えるのとでは、エネルギーは確実に肯定するほうが要るんだと。子どもの文学は人生を肯定することから始まるわけですから、大変なのは当たり前なんですね。
 (『幸福に驚く力』「子どもの本とは何か」180~181ページ)

 河合さんがいう「子どもの宇宙」にじっと目を凝らしてみると、さまざまなつらい「物語」の背後に潜んでいる喜び、うごめいている幸福のかたちが浮かびあがってくる。かつて「子ども」であった「大人」が忘れつつある、人生まんざらではないよという、ハッピー・エンディングの物語が見えてくる。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

関連記事

人気連載

  • マーケット
  • ゴム業界の常識
  • 海から考えるカーボンニュートラル
  • つたえること・つたわるもの
  • ベルギー
  • 気になったので聞いてみた
  • とある市場の天然ゴム先物