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連載「つたえること・つたわるもの」(126)

「人、その友のために死す。これより大いなる愛はなし」

連載 2021-12-14

出版ジャーナリスト 原山建郎

 文教大学のオンライン講座――〈遠藤周作〉人々の苦しみに寄り添う「人生の同伴者」イエス――は、先週、第5回講座の『侍』で無事終了したが、第2回講座の『女の一生 二部・サチ子の場合』と第3回講座の『悲しみの歌』の内容が、やはり太平洋戦争末期から戦後を舞台にした放映中のNHK朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』と重なる部分があったので、いつもより年配者が多い受講者の関心も高かった。

 『女の一生 二部・サチ子の場合』では、キリスト教信者である奥川サチ子に、同じクリスチャンである恋人の幸田修平が戦地に赴くに際して高木牧師あての手紙を託したが、その手紙はサチ子にあてた手紙でもあった。幼いころから教会で「殺すなかれ」と教えられてきた修平は、キリスト教では自殺を禁じているのだが、「たとえそれが戦争であれ、私が誰かを殺す以上、私は、他人の人生を奪ったという、その償いをせねばならぬ。だから私もまた、死なねばならぬ。そう思ったのです。それが私に特攻機攻撃に参加させた理由でした。そうでも考えねば、矛盾した心をどうにも仕方なかった」と、あえて特攻機攻撃という名の「自殺」を選んだ理由を述べるとともに、「米国人の基督教徒と日本人の基督教徒が、たがいに自分たちのほうが聖戦を行っているのだと主張して、ころしあっている――こんな矛盾があるでしょうか。それにおそらくそんな聖戦論を信じて今度の戦争に行った信者など日本には一人もいないでしょう。」と述懐している。

 一方の敵国であるアメリカの側では、広島・長崎に原子爆弾を落としたB29の発進基地のある南太平洋のテニヤン島で、(おそらく原爆開発に関わったと目される)物理学者のノーマン・ラムに、(ヒロシマではおそらく五万人以上の日本人が一発のリトルボーイの炸裂で傷ついただろう。そして今度はファットおばさんがコクラの上空で爆発する……)とわかっていながらも、「そうしなければ、更に無数の人間が死ぬんだから。これは戦争を早く終わらすための手段だ。目的が正しければ手段も正当化される筈だ」と言わせている。

 しかし、また、長崎に原爆を投下したB29の搭乗員(通信兵)、ジム・ウォーカー中尉は、かつて長崎に暮らしたことがあり、サチ子とシューヘイの幼なじみだったが、九州の小倉に向う(※悪天候のため、原爆投下地を長崎に変更)途中の機上で、(個人の意思など無視した大きな力が今の俺をこの機内においているのだ。それは俺だけじゃない。後尾にいるバーンズ中尉だって、アッシュワース中佐だって、日本も日本人も知らないのだ。知らない者をどうして愛したり、憎むことができるだろうか。俺をこうさせた大きな力。ひょっとすると、修平やサチ子も同じものに巻きこまれているのではないだろうか)と、自問自答させている。

 長崎への原爆投下で、爆心地からの距離500メートルの浦上天主堂内にいた数十人の信者たち、そして2人の神父は即死。この地区に住んでいた約1万2千人の信徒のうち、約8500人が亡くなった。

 この『サチ子の場合』は、その前作『女の一生 一部・キクの場合』は江戸末期から明治初期にかけて、浦上四番崩れと呼ばれるキリシタン弾圧のさなか、サチ子の祖母の従妹にあたるキクが生きて、そして死んだ、悲しい物語の、いわば続編である。『キクの場合』は、キクの恋人、隠れキリシタンの清吉が捕らえられ流刑にあう。彼女はキリシタンではなかったキクであるが、一所懸命、獄中の彼を支えているうちに、無理がたたって労咳(肺結核)にかかり、雪の降ったある日、大浦の教会のマリア像の足もとで亡くなっていた……。

 キリシタン(キリスト教徒)迫害について、欧米諸国から非難を受けた明治政府は信教の自由を認めざるを得なくなり、キリシタンたちは釈放される。長崎に帰った清吉はキクをさがすのだが、彼女はもうこの世にはいなかった。その後、年老いた清吉のもとへ、かつて自分たちを拷問にかけ棄教を迫った憎っくき長崎奉行所の下級役人、伊東清左衛門から手紙が届き、やがて二人は再会する。明治政府により、キリシタン迫害の責任を押し付けられ処罰された清左衛門は、かつて獄中の清吉に会いにきたキクへのひどい仕打ちを告白し、その後も罪を重ねながらも、洗礼を受けたと打ち明ける。清左衛門は自分がだまし傷つけたキクのことがいつまでも忘れられずにおり、また大浦教会のプチジャン神父から「神はあなたのような人を愛している」という意味のことばをかけられたことも忘れられずにいた……。「キクの場合」における主人公は、もちろん清吉への一途の愛に生きたキクであるが、この伊東清左衛門もまた、隠れたもうひとりの主人公ではないだろうか。1865年(慶応元年・元治2年)、大浦天主堂での信徒(隠れキリシタン)発見、しかしそれが浦上四番崩れ(1967年、慶応3年)のきっかけにもなったことで知られる、フランス出身の宣教師・プチジャン神父は、『キクの場合』のなかでも実名で登場する。

 『サチ子の場合』では、敗戦前後の日本におけるサチ子と修平をめぐる物語と、ナチスによるユダヤ人虐殺が行われたアウシュビィッツ収容所でのコルベ神父の物語が、交互に語られるという構成になっている。

 この作品に登場するポーランド出身のコルベ神父もまた、1930年(昭和5年)に長崎を訪れ、日本での布教にたずさわったのち、1936年(昭和8年)に故国ポーランドに帰国した実在の宣教師であり、その後、ガス室や飢餓室などユダヤ人抹殺の蛮行が行われたアウシュビィッツの収容所の囚人となる。そして、自らも囚人であるコルベ神父は、餓死刑に選ばれて「私には妻子がいる」と泣き崩れるひとりの囚人を見て、自ら「彼には妻や子があります。私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と、その囚人の身代わりを申し出たことでよく知られた人物で、やはり同じ名前で登場している。

 コルベ神父の物語では、ナチス親衛隊の将校でアウシュビィッツ収容所の副所長、マルティンは、飢餓室に引き立てられていくコルベ神父に、自問自答のような、教会での告解のようなことばを投げかけている。
そして、このマルティンもまた、この物語におけるもうひとりの主人公なのである。

 「コルベ神父」
 マルティンは兵士やミューラに聞えぬよう、そのコルベ神父にささやいた。
 「この私は……地獄に落ちるだろうね」
 マルティンはその言葉を、この丸いこわれた眼鏡をかけた男をからかうために言ったのではなかった。とはいえ、自分の苦しみをうちあけるために口に出したのでもなかった。
(中略)
 「なぜ……そんなことを……おききになるのですか」
 「言わなくても、わかっているだろう」
 「あなたは……御自分のなさっている事が、心にお辛いのですか」
 マルティンは少し悲し気な微笑をうかべて、首をふった。
 「もしそうなら、こんな質問はしないだろうよ。逆に私はこんなにたくさん殺しながら、何も感じないのだ。から元気で言っているのじゃない。本当に不気味なほど心は平静なのだ。もちろん、時折、発作的に気が滅入ることがある。憂鬱な気分に襲われることがある。しかしそれは一時的なもので、私の心は囚人の死体を見ても……何も感じない。おそらく君もまもなく死ぬだろうし、私は君の死体をきっと見ると思うが……その時も、何も感じないと思うよ。そんな自分が少し気味わるくてね、今の質問をしたのだ」
(中略)
 「私は」と神父はかすかな声で、「死ぬまで、あの男やあなたのために祈ります。あなたのためにも」
 「私のため、祈る? 何を」
 「御自分に絶望なさらないようにと」
 マルティンは肩をすぼめ哀しく微笑した。
 行列はもう第十三号棟に近づいていた。他の棟と同じ矩形の赤煉瓦の建物だった。
 「さようなら」
 と神父は頭をさげ、かすれた声で言った。
 「さようなら」とマルティンは答えた。「できるだけ、苦しみが長びかぬように望むよ」

(『女の一生 サチ子の場合』281~290ページ)

 もうひとつの、サチ子と修平の物語では、まだ6歳だったサチ子が、大浦天主堂のミサに訪れたとき、コルベ神父から「サチ子さん、これ、あげます」と渡された、御絵(ごえ)と呼ばれる本のしおりのようなものに「人、その友のために死す。これより大いなる愛はなし」という聖句が書かれていた。

 このことばは、『キクの場合』、『サチ子の場合』だけでなく、戦争末期に九州大学医学部で行われたアメリカ人捕虜(撃墜されたB29搭乗員)に対する生体実験をモデルにした『悲しみの歌』にも通底する、大きく深いテーマであり、それぞれの作品に登場するプチジャン神父、コルベ神父、ガストンという役柄を通して、人々の苦しみに寄り添う「人生の同伴者」イエスの姿が描かれている。

 長崎への原爆投下で、爆心地からの距離500メートルの浦上天主堂内にいた数十人の信者たち、そして2人の神父が即死した。この地区に住んでいた約1万2千人の信徒のうち、約8500人が亡くなった。歴史の本には、先に紹介した「浦上四番崩れ」をもって、250年近くにわたった日本のキリスト教禁止(1587年に豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」以来の)政策に終止符を打ったと書かれているが、アメリカ軍(B29)が行った長崎への原爆投下がキリスト教会の至近距離であったこと、天主堂にいた信徒全員が死亡したことから、これをキリスト教徒への受難事件であるとして、「浦上五番崩れ」と称するとらえ方もあるという。

 第3回講座の『悲しみの歌』では、戦時中に米軍捕虜の生体実験に立ち会った(当時は助手)勝呂医師は、戦後になって、東京・新宿で堕胎もあつかう町医者として、医療費が払えない末期がんの年老いた患者を医院の二階に入院させてやる赤ひげ医者として、ひっそりと暮らしていたある日、勝呂が生体実験に立ち会った罪でB級戦犯の裁判にかけられていたことを調べ上げ、それを追求するマスコミの折戸記者の質問に「断ろうと思えば……断れたんだが……」と答え、さらに「断る気持が結局、なかったんだね。ぼくに」とも答える。

 そして、「死なしてくれー」と懇願する末期がん患者の安楽死に手を貸すことになるのだが、「オー・ノン、ノン。お爺さん、わたくーしの友だち。どうぞ、殺さないでください」というガストンの声が聞えてくる。

 最後には、睡眠薬を飲んで縊死するという自殺手段を選んだ勝呂医師の耳元で、やはり哀願するような「オー・ノン、ノン。そのこと駄目」「死ぬこと駄目。生きてくださーい」という、ガストンの声が聞えた。

 「私が生きたまま捕虜を殺し、それからたくさんの生まれてくる命をこの世から消した(※堕胎を行う)医者だということも知っているのかね」
 「ふぁーい」
 「それを知っているなら、もう、とめないでくれ。
(中略)あんたがいくらイエスだって、私を救うことはできない。地獄という者があるなら、わたしこそ、そこに行く人間だろうね」
 「いえ、あなたはそんなところには行かない」
 「どうして」
 「あなたの苦しみましたこと、わたくーし、よく知てますから。もう、それで充分。だから自分で自分を殺さないでください」
(中略)
 「オー・ノン、ノン、ノン」
 「放っておいてくれ」
 枝に紐をまきつけながら、医師は二度、三度と咳をした。俺は死ぬのが怖ろしいから、睡眠薬の助けを借りねばならない、と考えた。ポケットの瓶をまた取り出して、一つかみの錠剤を口に入れた。

(『悲しみの歌』391~393ページ)

 勝呂医師はなぜ、断ろうと思えば断れたのに、米軍捕虜の生体実験への立ち合いを断れなかったのか、また、副所長のマルティンはなぜ「私は地獄に行くだろうか」とコルベ神父に語りかけたのだろうか。その手がかりとして、第3回講座の後半に、親鸞聖人の『歎異抄』にかかれている、次の一節を紹介した。

 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。」と、おほせのさふらひしは、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。(中略)「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人はおおせさふらひしに……(以下略)
(歎異抄 第十三条)

 ざっくりとした現代語訳で読むと―――あるとき、弟子の唯円は、師である親鸞聖人から「そなたは私のいう言葉を信ずるか?」と問われ、「はい」と答えると、師はさらに重ねて「その言葉に相違ないか」と念を押した上で、「それでは人を千人殺してみよ。そうすれば浄土に行くことが叶うぞ」と再び問いを重ねた。予想外の難問を突きつけられた唯円は、しどろもどろになって「師のお言葉ではございますが、千人はおろか一人であっても、私には殺すなどとは思いもよりません」と答えた。すると師は「どんなことも、そのときのこころのままに行動するならば、浄土に行くために千人殺せと言われれば殺すことだってできる。しかし、一人であっても殺すことができないということは、業縁(※そのとき殺すように働く因縁)がたまたまなかったというだけで、それは自分に善意があったから殺さなかったわけではない。また、害を与えてはいけないと思っていても、百人千人を殺してしまうことがあるのだよ」と諭された。(中略)「人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである」と、師は仰せになった……

 もうひとつ、連載コラム『ブックセラピー』№33(『出版ニュース』2014年9月号)に引用した『西部戦線異状なし』(レマルク著、秦豊吉訳、新潮文庫、1964年)の一文を、改めて読んでみる。

 第一次大戦下の西部戦線。ドイツの志願兵ボイメルは、砲弾穴に滑り落ちてきたフランス兵を剣で刺し殺すが、軍服にあった妻子の写真に、ボイメルの心は痛む。軍隊手帳には「ジェラール・デュヴァル、印刷業」とあった。ボイメルは死んだ男にこう言う。

 おい、戦友、今日は他人の身、明日はわが身だ。けれどももし幸い僕が助かったら、僕はこのわれわれ二人を打ち砕いたものに対して闘おう、それは君の生命を奪ったものだ。……それから僕にも、やっぱり生命を奪おうとしているものだ。戦友、僕は君に約束する。戦争は二度とふたたびあってはならない。

(『西部戦線異状なし』319ページ)

 この戦争がなければ、クラス担任はボイメルを出征志願の数に入れず、デュヴァルも印刷の仕事をしていたはずである。ボイメルが戦死した1918年10月某日、この日の司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」であったという。いつの時代にも、それぞれに『カムカムエヴリバディ』の物語がある。

【プロフィール】
 原山 建郎(はらやま たつろう)
 出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員

 1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。

 2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。

 おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。

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