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連載「つたえること・つたわるもの」(69)

シテ(遠藤・無明の闇)とワキ(ガストン・旅の僧)、『おバカさん』。

連載 2019-07-09

 小説『おバカさん』のあらすじは、ざっとつぎのようなものだ。

 F銀行に勤める隆盛と妹・巴絵のもとに、フランスから馬面の青年・ガストンが訪ねてくる。ひょんなことから、ガストンはインテリやくざの遠藤に拉致されてしまう。肺病もちのインテリやくざ(フランス語を話す)遠藤は、懐にコルト拳銃を持ち、自分の兄を戦争中に騙して戦犯に仕立てあげ、無実の罪で刑死させた兄の上官・金井と小林に復讐するためにだけ生きていた。しかし、ガストンはしきりに殺人はいけないとあきらめさせようとする。遠藤が金井を銀座の工事現場で、いざ殺そうとするが銃弾が出ない。ガストンが銃の弾を抜いておいたのだ。遠藤は、今度はかつて将校だった小林を追って山形へ北に向かう。なぜか見捨てられない殺し屋の遠藤を追って、ガストンもまた山形に向かう。今は山形市内で不動産屋をやっている小林、拳銃を手にした遠藤、それにスコップを抱えた腹ペコのガストンは、銀塊が埋めてあるという狐街道の山奥にある大沼に向かう。不意に逆襲に転じた小林がシャベルを振り回して遠藤に襲いかかる。必死にとめるガストンに小林は気味が悪くなり、その場から逃げ出した。負傷した遠藤はさらに登山で肺病が悪化し、意識をやがて失う。やがてインテリやくざの殺し屋・遠藤は助けられるのだが、その後、ガストンの行方は杳として知れなかった。

 オーソドックスな解釈でいうと、江藤さんが「日本に再臨したキリストではないだろうか」と書いたように、ガストンは「キリストの愛のはたらき」が人格化した存在として描かれ、それゆえに海の向こう(神の国)からやってきて、その役目を果たし終わると、ふたたび空の彼方(天上)に帰ってゆく。そこに「いわば垂直にまじわっている神聖なものの基準がある」と感じた。おそらく、作者の遠藤さんも「愛のはたらき」をモチーフに、「きよらか(神聖)な」ものをガストンとして描こうとしたのではないだろうか。

 今回の講座では、そのオーソドックスな視点だけでなく、肺病もちのインテリやくざ遠藤と、出て行けと言われても遠藤のそばを離れないガストンを、能におけるシテ(仕手)とワキ(脇)になぞらえて、とくにガストンの役割(はたらき)に注目した。すでに能『鵜飼』では、禁断の殺生をしたために地獄に堕ちた亡霊(鵜使いの老人)がシテで、旅の僧(諸国一見の僧)がワキだと述べたが、『おバカさん』でいえば、肺病もちのインテリやくざ遠藤が、この物語(能舞台)のシテで、遠藤からどんなにひどい仕打ちを受けても、遠藤のもとを離れず、最後には(戦地で、遠藤の兄に罪をなすりつけて、刑死させた上官)小林にスコップで襲われた遠藤をかばい、身代わりになったガストン、「ノンノン(殺しちゃダメ)……エンドさん」と訴えかけるガストンはワキである。

 『大悲風の如く』(紀野一義著、角川文庫、1981年)には、シテとワキの役割が書かれている。

 ワキというのは見物人の代表なのである。(中略)能のワキは、われわれが聞きたいと思うことをみんな聞き、見たいと思うものを永遠の闇の中から引き出して来るのである。

 それからワキの重要性はもう一つある。能に出てくる主役はほとんどみな、人間の迷いを表現している。芸術というものは、人間の迷いから生まれてくるといってもいいぐらいである。シテは舞台に登場して愛欲の苦しみを訴えたり、あるいは、武士であったら自分が討ちとられたときの悲惨な思い出を語ったりする。そういうことを物語るシテは、ほとんど幽霊として出てくる。本来ならこの世に姿を現したくないのである。本来なら人に話したくないのである。それを強いてこの世にあらわれさせ、人間の業苦について語らしめるのはワキの力量である。
(『大悲風の如く』149ページ)

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